ROCK 和樂web
2023.11.20

目撃情報多数。妖怪「ケンムン」の正体を暴くべく、奄美大島へ行ってきた

この記事を書いた人

なにやら頭の上に皿がのっているという。
だが、カッパではないのだとか。

手足が長くてイタズラ好き。極めつけは相撲が好きで、人に出会えば相撲を挑んでくるという。いやいや、それはもうカッパだろう、カッパしかいないと思うのだが、少しだけ分からないことがある。というのも、頭の上には皿があるのに、全身は毛に覆われ、見た目はサルそのもの、そしてガジュマルの木の上に住むというのだ。

ふむ。それなら確かにカッパではない……ということになるだろう。

最初に断っておくが、あの「おかんが言うには……」と続く漫才のネタではない。こちとらいたって真面目である。カッパに似ているようで似ていない、謎の妖怪。その名も「ケンムン(ケンモン)」。

──ただの伝説か
──それとも実在するのか

鹿児島県の離島、奄美大島に住むといわれる「ケンムン」をたずねて、早速、現地へと飛んだ。

※冒頭の画像は、名越左源太『南島雑話』(奄美市立奄美博物館所蔵)となります
※この記事では「ケンムン」で統一して表記しています

奄美のバイブル「南島雑話」にケンムン登場

奄美大島は、九州と沖縄のちょうど中間にある、奄美群島最大の島だ。鹿児島県のホームページによると、日本の離島の中で佐渡島(新潟県)に次いで2番目に大きいのだとか。地政学上、琉球国や薩摩藩などの侵攻を受けた歴史を持ち、その影響で琉球文化も色濃く残る。

そんな奄美大島の異文化に大いに魅せられたのが、名越左源太(なごやさげんた)時行(ときゆき)。

江戸時代の薩摩藩士である。幕末に起きた薩摩藩のお家騒動(お由羅騒動)に連座(連帯責任を問われて罰せられること)して、嘉永3(1850)年から約5年もの間、奄美大島の小宿(こしゅく、現在の名瀬市内)へ遠島(江戸時代の刑罰の1つで辺鄙な島に送ること)となった人物だ。

彼は島中を歩き回り、奄美大島の自然や文化など見聞した内容を彩色の図入りで丁寧に記録した。それが『南島雑話(なんとうざつわ)』である。文武両道に優れ、和歌、医術、画にも長けた知識人の左源太。そのうえ好奇心も旺盛な彼の記録は、当時の奄美大島がよく分かる貴重な資料として、奄美研究のバイブル的存在となっている。

さて、この『南島雑話』に、とある生物が紹介されている。それが冒頭の画像だ。

名越左源太『南島雑話』(奄美市立奄美博物館所蔵)より

一見、ヤンキー座りをしてコンビニの前でタバコを吸っているような恰好だが、よく見ると柿の木の下で雑談している謎の生物。タイトルは「水蝹(すいいん)、カワタロ、山ワロ」。地方によって異なるが、カワタロは河童の別名、山ワロ(山童)は河童が冬になって山に上がった呼び名といわれている。

この生物の説明として書かれているのが以下の内容だ。

「好て相撲をとる。適々其形をみる人すくなし。且て人にあだをなさず。却て樵夫に随い、木を負て加勢すと云。必ず人家をみれば逃去。住用の当幾に尋て図す」
(松井幸一、高橋誠一著「聖地・妖怪分布からみる境界空間と住民意識 : 奄美大島龍郷町を事例として」より一部抜粋)

「住用(すみよう、奄美大島の地名)」の「当幾」という人物から話を聞いて、左源太がイメージで描いたようだ。ちなみに、この図では明確に「ケンムン」とは書かれておらず、相撲好きなどの情報をみると、河童と混同しているようにもみえる。どうも人間を害することはなさそうだ。

他にも同じような生物を描いた図がある。それがコチラ。

名越左源太『南島雑話』(奄美市立奄美博物館所蔵)より

「宇婆(水蝹一種)宇婆はケンモンの類にて、折々嶋人迷ひし方に、山野に引まよはす事有」
(同上より一部抜粋)

この図は「宇婆(うば)」というタイトルで、さらに「ケンモンの類」と書かれている。「ケンムン」だとみていいだろう。先ほどとは打って変わって、人間を迷わせることもあるようだ。図の中のケンムンも、人間を引っ張っているのか、逆に引っ張られているのか、気になるところ。どちらにせよ、ケンムンがどっぷりと人間社会に入り込んでいる様子が分かる。

この図では大人と同じ背格好のように思われがちだが、現地の認識でいえば、背丈は子どもくらいなのだとか。ガジュマルやアコウの木の上を住処とし、人間の言葉を理解でき、なんなら話すこともできるという。

奄美大島で「ケンムン博士」と有名な「恵原義盛(えばらよしもり)」氏の著書『奄美のケンモン』によると、他にも様々な特徴が挙げられる。山羊のような強烈な匂いを発散するかと思えば、流したよだれが青白く光るなど、火や光を出すようなことも書かれている。

さらに、貝を好んで食べるからガジュマルの木の根元には貝殻が多いとか、魚の目玉が大好物で、浜に打ち上げられた魚は目玉がないなど、食の好みも偏っているようだ。ただ、意外にも、ケンムンの弱点といわれるのが、タコ。なぜだかケンムンはタコを「ヤツデマル」と言って怖がるため、出会ってしまった場合は「ヤツデマル」と叫べば逃げていくという。

ケンムンはもともと人間だった?

明治時代や大正時代には、じつに多くのケンムンについての証言があった。目撃情報や遭遇した体験談など実名で公表されていたことに驚くばかりだ。そんなケンムンについての情報を集めるうちに、伝説ではなく、まさか実在しているのではとさえ思えるようになった。

野生動物注意の標識……ではない? 島内で見かけた「ケンムン注意」の看板

そこで気になるのが、ケンムンの正体だ。
伝説の妖怪、山の神、精霊など人間とは異なる存在として語られることが多いが、そもそも、ケンムンの起源は何なのか。

幾つか説があるが、なかでも奄美地方に伝わる民話は非常に興味深い。キーワードは「ネブザワ」という謎めいた言葉。実際に、ケンムンの目撃談が多かった当時の奄美大島では、家の中以外で「ネブザワ」という言葉は禁句だったとか。

なぜか。
いたって単純明快。ケンムンとなる以前の名前が「ネブザワ」だからである。

遥か昔の話だ。件の民話に登場するのは、2人の漁師。名前は「ユネザワ」と「ネブザワ」。この「ユネザワ」には美しい妻がいたが、一方の「ネブザワ」は独身だったとか。

さて、いつものように2人で漁をして帰る途中のこと。不運にも碇(いかり)がサンゴ礁に引っ掛かったという。そこで「ユネザワ」が碇を外しに潜り、海面に浮上したところ、突然「ネブザワ」が櫂(かい、船を漕ぐもの)で殴り、碇に縛って海に沈めたのである。

周囲には「サメに食べられた」とウソをつき、「ネブザワ」は、毎日ユネザワの妻を慰めたのだとか。

だが、そうそう話はうまくいかない。
四十九日となる日、偶然にも「ユネザワ」の遺骸が浜に打ち上げられる。サメの痕跡などなく、頭を砕かれた遺骸を見て、ユネザワの妻は誰にも言わず墓に埋葬したという。

平和な奄美大島の海。だが、どこかでネブザワ事件が起こったのかもしれない

半年を過ぎた頃、とうとう「ネブザワ」は、ユネザワの妻に一緒に暮らしてほしいと告げる。すると、意外にもユネザワの妻は承諾。ただし、「私が選ぶ木で家を造るのであれば」と怪しげな条件をつけたのである。

翌日、2人で山へ向かうと、ユネザワの妻が「あなたの両手を木の幹に回して、ちょうど両手が重なるほどの太さの木」を探してほしいと言う。「ネブザワ」は一生懸命、条件に合う木を探したのだとか。

やっと見つけたところで、「そのまま動かずに」と言うユネザワの妻。大人しく従っていると、彼女は隠し持っていた金槌で「ネブザワ」の両手が重なる手の甲に、全身全霊で釘を打ち込んだのである。

──ひと思いに死なすよりは、こちらの方が夫の恨みが晴れる
そんな言葉を残して、ユネザワの妻は立ち去ったという。

どれくらい経ったのか。
とうに日も暮れ、次第に力も尽きて動けなくなった「ネブザワ」。もうダメかというその時、急に辺りが明るくなり、神様が下りてきたという。「ユネザワ殺し以外は悪事がないから助けてやるが、人間には戻せない」との判断で、こうして半人半獣の姿になったとか。

この民話の内容が真実であれば、ケンムンはもともと人間だったということになる。ただ、複数のケンムンを見たとの目撃談もあり、どのようにして増殖したかは謎のまま。残念ながら、ケンムンの正体を完全に暴くことはできないようだ。

本当にケンムンは実在する?

それでも「ケンムン」に会えるのではという淡い期待は、そう簡単には捨てられない。早速、奄美大島の中心地である名瀬市内を離れ、島内をバスで移動した。

しばらく走り続けると、深い山の向こうに輝くばかりの海が見えてきた。確かに、これほど自然豊かな環境であれば、私もうっかりケンムンを目撃しそうである。

空と海が一体となった奄美大島の景色

かつては、実名でケンムンとの遭遇を語っていた島の人々。先ほどご紹介した『奄美のケンモン』によると、恐ろしい体験談もあるが、ケンムンに助けられたなど、意外とユーモアのある話の方が多いという。

ケンムンの悪口をいえば祟りに遭う恐れがある。そんな忖度も働いて、自然と「ケンムンのいい話」となるのだろう。その代表例がケンムンの恩返しだ。ケンムンを助けると宝物を貰ったなどの内容は、教訓めいた日本昔話を彷彿とさせる。

一方で、恩返しがあれば、当然ケンムンの仕返し話もある。
些細なものからホラーものまで多種多様。特にスケールがデカいのは、ケンムンが海を渡って壮大な仕返しをしたという噂だ。

昭和22(1947)年頃の話だという。
当時の奄美大島は、終戦直後で米軍の軍政下に置かれていた。ちなみに、奄美大島は本土に復帰する昭和28(1953)年末までアメリカ合衆国の統治下にあったとか。

そんな時代に起こったのが、大規模なガジュマルの伐採。米軍の命令で、ケンムンの住処といわれるガジュマルの木を伐採しなければならなくなったというのである。祟りを恐れた人たちは、「マッカーサー(最高司令官)の命令だぞ!」と叫んで大斧を振り下ろしたといわれている。

もちろん、それで終わりではない。ケンムンの住処がなくなったせいか、その後はケンムンの目撃談も聞かなくなったのだとか。その後、昭和39(19649)年頃にマッカーサー最高司令官の死去の話が奄美大島にも伝わると、島の人々はこう噂したという。
「ケンムンを見かけないと思ったら、仕返しにアメリカに行っていたのかも」

当時、笑い話の1つにもなっていたグローバルな復讐劇。相当のタイムラグがあるのはさておき、その根底には、ケンムンならさもありなんとの共通認識があったのだろう。

「奄美リゾートばしゃ山村」の看板には「ケンムンの住む島」とのフレーズがある。「ケンムン村」が併設され、島唄や黒糖のお菓子作り、塩作りなどの体験が可能

そんなケンムンも、今では堂々と町おこしなどに使われ、また違った意味合いを持つようになった。

奄美大島の中南部西岸にある「宇検村(うけんそん)」では、村内に6体のケンムン像が設置され、観光交流拠点施設「ケンムン館」も令和4(2022)年にオープン。同館が掲げる「見えないモノを感じる観光」は、まさしくケンムンを代表する奄美の異文化の体感をアピールしているといえる。

ケンムンの目撃談の語り部たちも少なくなった今、いかにケンムンの存在を後世に伝えるか。絶滅危惧種は動物だけではない。未来に向けた「ケンムン保護施策」が必要な時期に来ているのかもしれない。

最後に

奄美の考古学研究の第一人者である、故・中山清美氏(なかやまきよみ)氏は、とあるラジオ番組で「ケンムン」についてこう語っていた。

「人、その集団を維持させるための妖怪にもなるよね」

ケンムンが住むといわれるガジュマルの木。
じつは、海岸や集落と集落の間、歴史的遺産である貝塚や神山(かみやま)などに多く植えられているという。これらの場所には共通点がある。それは人間が近付いてはならない境界線上だということ。あえてガジュマルが植えられ、その上には怒らせてはならない「ケンムン」がいるとすれば……。ケンムンには、奄美の自然や文化を守る「番人」の役割があったとも解釈できる。

それだけではない。
これまで、集落同士のもめごとや人間関係の不和など、あらゆる争いごとを「ケンムン」で回避できた。あえて白黒つけさせたくない場合には「ケンムンの仕業」とお茶を濁せばいいのだ。これほど便利な言い訳もないだろう。ケンムンは島で暮らす人々の「知恵袋」にもなっているのである。

ケンムン博士と呼ばれた恵原義盛氏は、著書でこんな言葉を残している。

「奄美という空間、広漠なる海に浮かぶ島の、存続と秩序を維持してきた要素の一つであったように思われます。そしてこれから先の奄美の存続の上でも必要なモノであるかもしれません」
(恵原義盛著『奄美のケンモン』より一部抜粋)

まさしくこれが、奄美大島に住む人たちの本音なのだろう。大昔から奄美の人々に信じられてきたケンムン。伝説なのか、実在するのかは、さほど関係ない。今も昔も必要であるコトに変わりなはいのだから。

ここまで読んで頂いて恐縮だが、奄美大島を取材した私の感想で本記事を締めくくりたい。

──正体を暴くなど無粋すぎる

参考文献
『西日本民俗博物誌下』 谷口治達著 西日本新聞社 1978年8月
『奄美のケンモン』 恵原義盛著 海風社 1984年8月
『NHKかごしま歴史散歩』原口泉著、日本放送出版協会 1986年5月
『聖地・妖怪分布からみる境界空間と住民意識 : 奄 美大島龍郷町を事例として(関西大学東西学術研究所紀要44巻)』松井 幸一、高橋 誠一著 2011年4月