平安時代、紫式部によって生み出された日本文学史上の名作「源氏物語」。光源氏を中心に4世代にわたる平安貴族の恋愛模様を描いたこの世界初の長編恋愛小説を、林真理子さんが新たな手法で仕立て直しました。和樂で連載がはじまったのは2008年秋、そこから10年の時を経て、完結編である「小説源氏物語 STORY OF UJI」が文庫化。今回その発売を記念して、本作の読みどころや込めた想いをうかがいました。
林真理子著「小説源氏物語 STORY OF UJI」とは?
王朝文化華やかなりし平安時代を舞台に繰り広げられた、光源氏とその子や孫たちが織りなすラブストーリー、「源氏物語」。この世界初の長編恋愛小説は千年ものあいだ読み継がれ、各国で翻訳や研究がなされてきました。そんな世界に誇る一大小説を、大胆な切り口や新鮮な構成で、現代に生きる私たちにわかりやすく楽しめる物語として再構築したのが、2008年に和樂で連載が開始された林真理子さんの「六条御息所(ろくじょうのみやすどころ) 源氏がたり」、そして「小説源氏物語 STORY OF UJI」です。
今回ご紹介する「小説源氏物語 STORY OF UJI」は、出自も美貌も文武もすべてにわたってパーフェクトな光源氏という、日本文学史上最高のプレイボーイが亡くなった後の「源氏物語」全54帖の最後の10帖部分をテーマに小説化したもの。本作は、源氏の息子の薫と孫にあたる匂宮(におうのみや)が、都から離れた宇治でひっそり暮らす大君(おおいぎみ)と中の君の姉妹、そして異母妹の浮舟、3人の美人姉妹に仕掛ける恋愛ゲーム――。“恋愛小説の神様”林真理子さんならではの丁寧かつ執拗な表現で一気に展開されていきます。語り部を立てた前作とは一転、三人称で書かれた本作は、千年の時を経てまさに現代小説として仕上がりました。
「源氏物語」のいちばんいいところのエッセンスを搾り取って組み立て直し、心理描写や自然描写を書き込みました。読みやすいけれど原文の高貴さは残した、自信作です
「2008年が源氏物語千年紀ということもあり、執筆の依頼をいただきました。すでに名だたる文豪や先輩作家の方々が挑戦されてきた作品だけに、現代語訳でなくやってみようと思いました。小説化するのでも、ダイジェスト版や縮小版でもなく…と考えて。紫式部が描いた原作の壮大さは残しつつ、現代人にとっては興味の湧きづらい部分はさらっと流し、ここはと思う部分はぐんと掘り下げて書き込んだんです。『源氏物語』のいちばんいいところのエッセンスをうまく搾り取って組み立て直し、本当に読みやすい『源氏物語』になったと自負しています」
宇治を舞台にした物語を現代小説の感覚に再構築
日本が誇るこの「源氏物語」を、「現代の人にも通じるように読ませるというのが、私たち世代の作家に与えられた使命」とも言う林さん。今回文庫化された「小説源氏物語 STORY OF UJI」は、全54帖におよぶ「源氏物語」の中では登場人物も少なく、今の私たちにも比較的読みやすい部分です。
「本を読まない、小説を読まないと言われる世代の人にこそ、千年前に書かれたこの物語の面白さを味わってほしいと思いました。光源氏が次から次へと女君を増やしていった怒濤の前編とはうって変わって、その息子や孫が都から離れた避暑地のような宇治でひっそりと暮らす姫君に…というこの宇治編のほうが、紫式部の筆もかなり現代に近い感覚になっているんです」と林さん。
とはいえ舞台は千年前。わからないことが本当に多かったそう。
「それでも何度も宇治に足を運ぶうちに、“霧が開けてくると、霧のなかに橋や川が見えてくる”といったくだりが私の中で腑に落ちる瞬間があったり。このシリーズを書くにあたって『紫式部日記』も読みましたが、ある儀式について書いてるところでも、輿に乗っている偉い人ではなく、苦痛に耐えながら輿を担いでいる人のほうを凝視していて“あれは私である”と書いている。これはまさに作家の眼線ですよね。そこを読んだときは、千年前も今も作家の眼は変わらないんだと思ってちょっとうれしかったです(笑)」
紫式部の「源氏物語」の魅力は数多ありますが、日本語の響きの美しさは特に秀逸です。
「そもそも源氏物語は、藤原道長の娘の彰子(しょうし)のために書かれた物語ですが、彰子は読んだのではなく、聴いて楽しみました。当時は、姫君には女房が読んで聴かせるものだったんですね。だから言葉の響き、音というものがとても大切。原文を少し声に出して読んでみましたが、つくづくそう思いました。目で文字を読んでいくのと耳から聴くのとでは、イマジネーションの働かせ方が違います。私は自分で朗読するだけでなく、文字を目で追いながら朗読のCDを聴いたので、すごくイマジネーションを広げることができたんじゃないかと思います」
林さんの小説では、いつも書き出しの部分でぐっと心をつかまれる私たち。映画やドラマなら、ファーストシーンで恋に落ちるようなものです。今回も「十九歳になる薫は、美しく優美だけれども、退屈なところがある青年と言われていた」という冒頭の一文に、林真理子版「宇治十帖」に潜む“楽しみな不穏”を感じます。
「薫もライバルの匂宮もモテモテのイケメンだけど、器が小さくて、男としても人間としてもすごくいやな面があるんです。その人物描写の部分はうんと掘り下げました。ふたりとも光源氏に比べてキャラクターが薄い。だからこそ、肉付けし、心理描写を細かく書き込めたんです」
その後の林作品にも影響を与えた「小説源氏物語」
「STORY OF UJI」の中心人物である薫と匂宮は、よきライバルであり親友でありながら、お互い腹に一物もつ関係です。
「優美だけど退屈な薫と、いやな男だけど性的魅力にあふれる匂宮。そしてふたりの前に登場する3人の女性。念入りに、執拗に、彼らの個性を書き込んでいくことによって、厚みをもたせつつスピーディにストーリーを展開することができたし、私自身の勉強にもなりました。このシリーズのあとに書いた小説には、“私の中の源氏物語”がポツポツと顔を出しています。モラルというか一般的な常識とはまったく違うところで書いた『愉楽(ゆらく)にて』は、多くの関係者から“これって源氏物語だよね”と言われる部分がありましたし、『西郷どん!』で愛加那(あいかな)が子供を手放す場面は、『源氏物語』の“須磨(すま)”でのようだと。谷崎潤一郎の『細雪(ささめゆき)』にも源氏物語の要素がちりばめられていますが、私の中にもふと源氏物語が顔を出すようになったな、と。この源氏物語シリーズを書くことで、すごく刺激され影響を受けたんです。『源氏物語』に日本の恋愛小説の原型があったのだと、改めて感じています」
印象的なラストシーンは必見!
そんな林さんの源氏物語宇治十帖編ですが、なんといっても印象的なのはラストシーン! 原作の“夢浮橋(ゆめのうきはし)”という最終帖はあっけなく終わりますが、林さんはここに魔法をひと振りしました。
「ふたりの貴公子からの求愛にも心動かされず、男女の戯れに煩わしさしか感じなかった浮舟という姫君にとって、心の平和は仏の世界にしかなかった。そこにしか道がないというのは悲しいですね」
結局だれからも愛されていなかったんじゃないか、というところにいきあたるのが、この「小説源氏物語 STORY OF UJI」最大のテーマだと林さんは言います。
「まるでゲームのように男と男の間で受け渡しされてきた浮舟だけれど、自分は本当に愛されていたんだろうかという虚しさ。私がいちばん書きたかったのは、その虚しさのなかで出家のため髪を切る浮舟の刹那です。『源氏物語』は横恋慕から不倫、強姦まがいまで、不適切な関係だらけ。それを肯定するわけではありませんが、いっぽうで、恋愛においてどうすることもできない人の心もある、ということを知るべきだと思います。小説ではそういう世界を感じ、触れることができる。現実とは違う異次元の世界を教えてくれるのも、小説の魅力なのです」
「小説源氏物語 STORY OF UJI」絶賛発売中!
小学館文庫「小説源氏物語 STORY OF UJI」林真理子著 光源氏亡き次世代を描いた、通称「宇治十帖」を林真理子さんが小説化。心理描写もぐっとリアルに。源氏物語初心者なら、登場人物が少ないこちらから読むのもおすすめ。和樂での連載中に制作された世界的日本画家・千住博さんによる表紙の装画や、源氏物語関連の著書もある酒井順子さんによる解説もお楽しみに!
「小説源氏物語 STORY OF UJI」詳しくはこちらから!
あわせて読みたい既刊本!
小学館文庫「六条御息所 源氏がたり」林真理子著 光源氏の誕生から老年までの五十数年間を描いた「源氏物語」での41帖分を小説化、「STORY OF UJI」につながる作。光源氏の愛人のひとりである六条御息所を語り部にしてストーリーを展開させるという、だれも試みなかった手法が、連載時、そして単行本発売時に大きな話題に。紫式部の原作では触れられなかった光源氏の死を、林さんはどう描いたか? そのラストシーンも見事。
撮影・三浦憲治