時代が違えば、当然の権利も踏みにじられる。
キリスト教に対する「禁教令」が出されていた江戸時代。その江戸より遠く離れた長崎の地で、411人が斬首された。「信仰」という、ただそれだけの理由で。
411人という数字にも驚くが、この件に関して捕縛されたのは総勢608人。そのうち牢死(病死や拷問死など)も死者数に含めれば、その数はさらに489人と膨れ上がる。
それなのに、である。
「郡崩れ(こおりくずれ)」と呼ばれる、この一連の事件はあまり世に知られていない。
「郡村(こおりむら、現在の長崎県大村市の一部)」という限定した地域で起こったためか。それとも、一揆のように武力で衝突するような事案ではなかったからか。幕府主導で粛々と処理が進められ、事件発覚から最後の処刑まで約1年で終結。失われた多くの命は、積み重なる歴史の奥へと埋もれてしまったのである。
今回は、知られざる悲劇の「郡崩れ」を取り上げたい。
長崎県大村市に点在するキリシタン史跡を巡りながら、ご紹介する。
すべての悲劇は「仏の谷」から始まった
最初にカメラマンと向かったのは、長崎県大村市にある「仏の谷」。JR大村駅からバスで約35分、すぐ先に「萱瀬(かやぜ)ダム」がある場所だ。
現地に着くと、国道444号からすぐのところに「仏の谷」の案内板を見つけた。その横には山へと続く登山道らしきものが見える。たかだか300mの距離だというが、なぜか看板には服装の注意が書かれていた。到着するには20分程度かかるようだ。
事の発端は明暦3(1657)年10月のこと。郡村矢次(やつぎ)に住んでいた百姓の兵作が、長崎酒屋町に住む親戚の池尻利左衛門(いけじりりざえもん)を訪ねたことから始まる。
ここで、兵作はとある話を口にする。
──「六兵衛」なる少年が「嶋原之四郎」以上の「名誉」な者であり、同「母」が二二年前萱瀬村の岩穴(大村市中岳町)に隠していた吉利支丹絵を取寄せて活動している
(新編大村市史編集委員会著『新編大村市史』第三巻より一部抜粋)
ただの噂話として話したのか。それとも勧誘のためだったのか。だが、これを聞いた利左衛門は胸の内に秘めることなく、すぐに町役人に訴えた。こうして、大村藩よりも先に「長崎奉行(江戸幕府の遠国奉行の1つで、幕府直轄地に置かれた奉行所)」が、このマズい情報を知るところとなったのである。
じつに長崎奉行の動きは早かった。直ちに兵作を拘束し、大村藩に対しては通達を連発。兵作の妻子をはじめ、関連する者の捜索や捕縛などを命じている。
一方の大村藩はというと、藩内で起こったにもかかわらず、まさしく寝耳に水状態であった。大慌てで「六兵衛」という少年と母を捜索するも、一向に見つからない。再度、兵作の女房を尋問すると偽りだったことが判明。じつは、「六兵衛」ではなく、郡村黒丸に住む「六左衛門(ろくざえもん)」とその「祖母」が中心人物であったという。
大村藩はこの2人を捕縛。彼らの一族を手始めに本格的なキリシタンの捜索に乗り出す。その範囲は周辺の村落も含めた一帯にまで拡大し、多くの村民が芋づる式に捕らえられた。尋問を受けてはさらに他の者が捕縛される。こうして年末までの捕縛者は559人。翌年もさらに人数が増え、最終的な捕縛者数は608人となった。
そんな彼らキリシタンが身を潜めて信仰した場所こそ、この「仏の谷」なのである。実際に現場を見るために、薄暗い山道へと一歩踏み出した。途端、唖然として足を止めた。草が生い茂り、獣道にも似た登山道の両端にはロープが張られている。どうやら辿り着くのは簡単ではなさそうだ。
それでも、四の五の言わずに進んではみた。だが、150m付近で半端ないゴツゴツした岩肌がご登場。急斜面の予想を遥かに越え、不安をかき立てる高さである。
調査不十分で軽装のまま来た我が身が恨めしい。既に心は折れていたが、是が非でも写真が必要だと言い聞かせ、大きく足を上げたところで。
「だから、わざわざ行きにくい、この場所なんだよな」とカメラマンの一言。
そうか。私たちが容易に行ける場所では、逆に信仰場所としては失格なのだ。どんなに道のりが過酷でも、彼らの優先順位の先頭に来るのは「バレないこと」だ。絶対に誰も来ない、絶対に見つからない場所。だからこそ、この岩穴が選ばれたのだ。
それが分かると、スルスルとアドレナリンがダウン。いや、私たちは……あえて「辿り着けない」という選択肢の方がよいのでは……。そんな言い訳を都合よくかまし、即刻断念。「仏の谷」の画像は大村市役所のご好意で提供して頂くこととなった。
当時は、この岩穴の正面にキリシタンの絵がかけてあったとか。その上に曼荼羅(まんだら、密教の教えを分かりやすく表現した絵図)をかけ、分からないようにしていたという。
さて、「郡崩れ」の中心人物とされるのは「六左衛門」と「祖母」。
『新編大村市史』によれば、六左衛門は過去に狐憑き(きつねつき)や熱病を患ったことのある少年だったという。そんな六左衛門より、不思議な夢を見たと打ち明けられたのが祖母。2人は周囲を巻き込んで信仰の道へと突き進む。他にも「さんたまりや」の紙絵や南蛮数珠など、聖具を用いて積極的に教えを説いた者もいた。ある程度の信仰組織が成り立っていたようだ。
ちなみに、六左衛門が見た「天狗六匹出、火之雨をふらし世界を焼崩し申候」という夢の内容は「終末思想」そのものだ。「来世ではキリシタン以外は助からない」との「救済説」と、物理的に教えを説きやすいキリシタンの絵をもって、周囲に信仰を勧めたのだろう。
この思想が人々にすんなりと受け入れられたのは、土地柄以外にも理由があると指摘されている。というのも、この地方では明暦3(1657)年から翌年にかけて大風が起こり、農作物がかなりの被害を受けたというのである。『大村見聞集』によれば、一部地域では子どもを質に入れるほど困窮したとも。そんな過酷な状況がより一層、来世への期待へと前のめりにさせたのかもしれない。
「妻子別れの石」の行方
「郡崩れ」で多くの捕縛者を出した大村藩。彼らを引っ立てたはいいが、じつは留め置く「牢」がなかったほどの大人数。仮牢を設置し、女性や子どもらは番人をつけて牢の外へと繋がれたという。結果的に、長崎奉行の指示で他の藩へと身柄の引き渡しがなされている。
時期は、明暦3(1657)年11月から12月にかけてのこと。『新編大村市史』によれば、248人もの女性や子どもらが家族単位にまとめられ、3つの藩へと移送された。内訳は、それぞれ妻子80人を佐賀藩、妻子98人を平戸藩、妻子70人を島原藩となっている。なお、戸主の父親だけはすべて長崎に集められたという。
牢内での生活は過酷を極めた。
例えば、平戸藩へと送られた98人について、詳細な記録が残っている。牢内では子どもを中心に10名の者が病死。処刑前日には2歳の女児が亡くなったという。
また、入牢者の中には妊婦もいたから、想像を絶する苦難に直面したはずだ。記録では翌年の3月から6月までの期間で、牢内で出産したのは5人。2人が流産、3人は無事に出産したのだが、うち2児は生後間もなく死亡。残った1児も数ヵ月後には処刑となる。なんとも聞くに堪えぬ話である。
一方で、自身は処刑されずとも、家族の誰か、親戚縁者が処刑対象となっている場合もある。待っているのは親しき者との永遠の離別。そんな最後の別れの地が大村市にあると聞き、その場所へと向かった。それが、キリシタン史跡の1つ「妻子別れの石」である。
場所はJR大村駅からバスで約10分。墓地の中にあり、多くのお墓が並び立つ中で、こちらの石碑が立っていた。
大村市役所のホームページによれば、処刑場へと続く道中のこの場所で、最後の別れをしたという。水盃をかわし、彼らはとめどなく涙を流したとか。その涙に濡れたせいで苔が生えないといわれ、別名「涙石」とも呼ばれている。
早速、カメラマンに周囲のお墓が移り込まないようにとオーダー。無事に撮影も終了し、次の場所へと移動した。その日、画像整理をしている彼の一言。
「で、実際に『妻子別れの石』ってどれだ?」
確かに、いわれてみれば。
画像を確認すると、石碑を中心に撮影されたものばかりで、件の「別れの石」が見当たらない。よくよく考えれば、まさか大事な「別れの石」そのものに文字を刻むワケもないはずで。つまり、この石碑ではなく、周囲の石が「別れの石」ということになる。
それにしても、該当するような石はどこにもなかったのだが……。「妻子別れの石」の情報は「地面に半分埋め込まれた石」のみ。大村市役所へ問い合わせをすると、すぐに謎が解けた。担当者曰く「墓の前の道路に面している大きな丸い石」だという。
えっ?
石碑の近くにある石だと思っていたが、まさかのまさか。道路沿いにある石だったとは。今更ながら間違えて踏んだりしていないかと心配する始末(もちろん踏んでいませんでした)。
担当者の話では、元々7つあったが、現存しているのは3つだという。だが、道路に面したところには、なぜか4つ大きな石が並んでいる。このうちの3つとは、どの石を指すのか。
「恐らく、向かって右側から数えて3つの石が『別れの石』だろうといわれています」
「妻子別れの石」は、画像からでも十分に湿っていることが見てとれる。実際に間近でみると、水がしみ出しそうな気配である。単に気候のせいか、涙がしみ込み過ぎたせいなのか。今となっては、もはや誰にも分からない。それよりも重要なのは、ここで処刑者らが無念の別れを行ったということだ。
そっと手を合わせ、無言で2度目の撮影を行った。
「8割が処刑」という幕府の裁定
次に向かった先は、キリシタン史跡の「放虎原(ほうこばる)殉教地(斬罪所跡)」だ。こちらもJR大村駅よりバスで約10分のところにある。開けた場所にレリーフが建てられていたが、その周辺には人家があり住宅地となっている。
最終的に「郡崩れ」によって処刑された者は、全体で411人にものぼる。処刑は2回に分けられ、1回目は万治元(1658、※7月23日に明暦から万治へ改元)年7月27日。ただあまりにも人数が多く、長崎以外に、佐賀、平戸、島原の各藩に処刑が振り分けられ、同日に一斉に行われた。大村藩の場合、この付近にあったとされる刑場で131人を斬首。男女を4列に分けて並べ、1列ごと3人ずつ首を刎ねたという。
2回目の処刑は同年9月27日。長崎のみで行われた。
斬首されたのは、大村藩の藩祖「大村喜前(おおむらよしあき、キリシタン大名の大村純忠の子)」の娘「賢孝院(けんこういん)」付の下女ら5人。じつは、キリシタン捜索の途中で、大村藩家中からも捕縛者が出ていたのである。どうやら「六左衛門」の祖母に接触をして、銭などを渡していたようだ。
捕縛者の大半が百姓だったこともあり、406人の処刑は一斉に行われた。一方で、この5人については、わざわざ別日に長崎で行われている。これには、過去にキリシタン大名で名をはせた「大村家」に対する強い戒めの意味が込められているとみていいだろう。
こうして事件発覚から約1年。総勢411人が斬首され、事件は終結した。
それにしても、と思う。
「禁教令」の時代とはいえ、あまりにも失われた命が多すぎる。一体、斬罪(斬首刑)という処分は誰が決めたのだろうか。
参考となるのは、江戸幕府が発給した明暦4(1658)年4月26日付けの書面だ。どうやら幕府で「臨時の朝会」が行われ、前年に起こった「郡崩れ」の処分を決定したと思われる。宛先は、もちろん長崎奉行だ。
以下、江戸幕府が提示した処分方針である。
籠舎のきりしたんせんさくの上落着可申付
覚
一 たとへは百人の内、
一 拾人は以来せんさくのたりに可成ものを籠に可残置事、
一 拾人は訴人数多仕候分、其所々え遺し可預置事、
一 残八拾人は斬罪たるへき事、
右の心持にてせんさくいたし、科の重軽をわけ可申付事、
一 四拾余人帳に付候者の分ハ、きりしたんに紛之無候ハゝ、其ものともには類門訴人のせんさくに不及、可為斬罪事、
以上
(大橋幸泰著『近世潜伏宗教論―キリシタンと隠し念仏』より一部抜粋)
非常に厳しい内容だ。
まず、「四拾余人」は幕府自らが斬罪と決定。他の者については、今回の件を取り仕切っていた「長崎奉行」に一任している。
ただ、目安として一定の処分方針が提示された。つまり、これに沿うような処分が長崎奉行には求められたというコトだ。具体的な方針は、全体の1割は今後の尋問に役立てるため牢に残す、また1割は多くの密告に貢献したとして所預け(他家などに身柄を預けられる)とする。そして残りの8割は斬罪とするというもの。助命されるのはたったの2割。生き残るにはなかなか狭き門である。
それでは、実際の処分はどうだったのか。
長崎奉行が行った処分の内訳をみると、斬罪411人、牢死78人、赦免99人、永牢20人となる。斬罪と牢死を合わせた死者数は489人で、この数字は捕縛者608人の約80.4%に当たる。言葉は悪いが、長崎奉行は幕府が提示した「8割の斬罪」に、うまく着地させた格好となったのである。
「郡崩れ」のその後
「郡崩れ」の後日談、処刑後の話である。
大村藩では131人が斬首されたが、じつは、それだけでは終わらなかった。見せしめのため、刎ねた首を塩漬けにし、獄門所で約20日間(諸説あり)さらしたという(「獄門(ごくもん)」と呼ばれる処分)。
大村市には、この獄門所の跡地がキリシタン史跡の1つとして残っている。それがこちらの場所だ。
JR大村駅よりバスで約10分。先ほどの「放虎原殉教地(斬罪所跡)」に近い場所にある。現在は聖母像が建てられ、住宅地の中にあってか穏やかな雰囲気が漂う。一見すると「獄門所跡」とは全く分からない。
併せて、近くにある2つのキリシタン史跡を回った。「首塚跡」と「胴塚跡」である。その名の通り、郡崩れで処刑された人たちの「首」と「胴」が埋められたとされる場所だ。当時、キリシタンは妖術を使って生き返ることができるとの噂があったという。そのため「復活」を阻止すべく、わざわざ2つを分けて埋めたと伝わっている。
これだけでも十分厳しい対応といえるが、さらに長崎奉行所は追い打ちをかける。大村藩から一件落着と報告を受けたところで、ある厳命を下した。大意は以下のようになる。
「……各郷村ごとに寺院を建立し、鎮守、産土神等を造営して注連を張り、参詣の日を定めて神仏信仰の念を深めること。
それに加えて領内のキリシタン墓を暴き骨やキリシタン道具など一切を打ちひしぐか、もしくは海中に捨てよということである」
(松井保男著『大村との縁と絆を求めて』より一部抜粋)
まず、言わずもがな。継続してキリシタンの探索は当然のこと。ただ、それだけでは消極的すぎる。日本古来の宗教に対してはもっと積極的に信仰を促し、キリスト教に対してはもっと過激に見せしめをする必要がある。そう考えての措置だろう。
一方、大村藩からしても、これ以上、藩内からキリシタンを出したくはなかったはずだ。なんといっても藩の存続に関わる重大な局面である。
かつて大村には、キリシタン大名の下、多くの信者がいた。過去には、キリシタンによる社寺の焼き討ちまでも行われている。だが、慶長10(1605)年を境に、大村藩はイエズス会と断絶し、禁教政策に転じた。以降、50年近く経過したにもかかわらず、今回の「郡崩れ」で多くのキリシタンの存在が明らかになったのだ。いつ藩内の領民が、またキリシタンへと転ぶかは分からない。断じて「ない」と言い切るには、禁教に踏み切った年月が浅すぎたのである。
そこで、どうしたか。
長崎奉行の厳命通りに、神社仏閣を再建し、キリシタン墓を壊滅状態にしたのはいうまでもない。だが、それだけでは足りず、驚きの独自政策を行う。
なんと「伊勢神宮の大麻(神札)」を藩内のほぼ全戸に配布したというのである。これまでは城下家臣にのみであったが、「郡崩れ」が起きた明暦3(1567)年より全戸配布へと切り替わったのだとか。レア感満載の有難き神札のはずが、まさか領内一円に大盤振る舞いされるとは。
人だけではない。
「郡崩れ」を境に、大村藩も変わったのである。
取材後記
「崩れ(くずれ)」とは、多数のキリシタンの検挙を意味する。集団的な捕縛により集落や信仰組織が崩壊することから、そう呼ばれるようになったとか。この「崩れ」、じつに禁教令が解かれる明治6(1873)年まで、全国各地で数多く発生していた。だが、ここまで処刑者数が多い苛烈な「崩れ」は、そう見当たらない。
なぜか。ちなみにここからは個人的見解となる。
「郡崩れ」が起こったのは明暦3(1657)年10月のこと。禁教令の発布から既に40年以上経過はしているが、約260年続いた江戸時代からすれば未だ初期の頃だ。禁教政策の矛盾も露見しておらず、キリシタンには厳しい姿勢で臨むという幕府の決意の表れとも取れる。
ただ、もっと単純に考えれば。
偶然が重なった「悪縁」のようにも感じる。というのも、郡崩れの20年前、同じ長崎で幕府を揺るがす大事件が起こっていたからである。多くの農民やキリシタンが一揆に身を投じた「島原の乱」(熊本の天草地方でも蜂起)である。
しかも、共通点はエリアだけではなかった。かの「島原の乱」の中心人物は、16歳(諸説あり)の「益田四郎時貞(天草四郎とも)」。そして「郡崩れ」の当事者もまた、14歳(諸説あり)の少年だったというから、江戸幕府が悪夢の再来と身構えるのも無理はない。
そもそも江戸幕府では、キリシタンの取り調べにつき、特定の役人を固定すべきではないとの方針を立てている。尋問の途中で、役人の方がキリシタンの教えに取り込まれてしまうからである。同じ答えを繰り返すキリシタンと接するうちに、そちらに道理があると感じてしまうからだとか。
これまでキリシタン相手に、数多くの失敗をしてきたのだろう。
江戸幕府の存続にとって、キリシタンは「大きな脅威」となる。
だからこそ、弾き出された結論は──「斬罪」
「転宗」ではなく「斬罪」
こうしてまた、集落が1つ崩れていくのである。
写真撮影:大村健太
参考文献
『新編大村市史』第三巻 大村市史編さん委員会著 大村市 2015年3月
『踏絵・かくれキリシタン』 片岡弥吉著 智書房 2014年9月
『踏絵を踏んだキリシタン』 安高啓明著 吉川弘文館 2018年6月
『近世潜伏宗教論―キリシタンと隠し念仏』 大橋幸泰著 校倉書房 2017年3月
『大村史 琴湖の日月』 久田松和則著 国書刊行会 1989年6月
『大村との縁と絆を求めて』 松井保男著 箕箒文庫 2001年3月
『キリシタン拷問史』 津山千絵著 三一書房 1994年5月