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2024.05.02

歌舞伎「娘道成寺」の釣鐘が実在した! ひび割れた鐘は何を語るのか

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世の中には、数多くの物語が存在する。
なかでも興味深いのは、荒唐無稽だと思われたストーリーが、じつは実際に起きた事件をベースにしていたという場合だ。

例えば、能や歌舞伎など日本の古典芸能で有名な演目「娘道成寺(むすめどうじょうじ)」。

完全なるフィクションだと言いたいところではある。だって、鐘供養の最中に舞い踊っていた女性が呪力で釣鐘を落下させるなんて。そのうえ、いきなり蛇身に変わって姿を消すとは、到底、現実に起きたとは信じ難い内容だ。

だが、しかし。
もし、物的証拠があるとしたら?
「娘道成寺」の中で圧倒的なオーラを放つあの釣鐘。それが現実に存在しているとしたら、どうだろうか。

今回は、そんなストーリーの裏付けを追い求め、現存するといわれる「娘道成寺」の釣鐘を取材した。向かった先は、物語の舞台となった紀州(和歌山県)……ではなく、なんと京都。

かの釣鐘がどうして京都に安置されているのか。その理由も含め、釣鐘が辿った数奇な運命をたっぷりとご紹介しよう。

※本記事の「妙満寺」に関する写真は、すべて承諾を得て撮影しています
※本記事で紹介する「娘道成寺」は、妙満寺に伝わる話をベースにしています
※本記事では「豊臣秀吉」の表記で統一しています

かつて京都の中心地にあった妙満寺

訪ねたのは、京都市左京区岩倉(いわくら)にある「顕本法華宗(けんぽんほっけしゅう)総本山妙満寺(みょうまんじ)」だ。

京阪電鉄の終点である出町柳駅より、叡山電鉄に乗り換え鞍馬方面へ。下車した木野駅からは徒歩5分、閑静な住宅街を抜けた山裾に建つ寺である。道すがら鹿にバッタリ遭遇するほどの自然豊かな環境だ。

叡山電鉄木野駅/妙満寺までの案内図/妙満寺の石柱

創建したのは、顕本法華宗の開祖である日什大正師(にちじゅうだいしょうし)。元は天台宗の僧侶だったが、日蓮上人(にちれんしょうにん)の教えに触れ、高齢の67歳で改宗。68歳で都に上京し、後円融天皇より二位僧徒の位を賜り、康応元(1389)年に六条坊門室町(現在の烏丸五条あたり)に妙満寺を建立した。

早朝に訪れたからか、寺門をくぐり抜けると、その澄み切った空間にしばし圧倒された。隅々まで手入れが行き届いた境内にため息をつき、見慣れぬ建造物に時折り立ち止まりながら、先へと進む。

妙満寺(正面より)/本堂/インドのブッダガヤ大塔を模した「仏舎利大塔(ぶっしゃりだいとう)」/境内

「江戸時代を通じて『寺町二条の妙満寺』ということで知られてたんですけども。昭和43(1968)年にこちらの土地に引っ越してきました」

こう話されるのは、妙満寺執事の湯原正純(ゆはらしょうじゅん)氏だ。

妙満寺執事、湯原正純(ゆはらしょうじゅん)氏

なんでも京都の中で、幾度も場所が変わったとか。

「信者のお家をお寺にして始まったのが創立の最初の場所なんですね。それから町割りが変わったりとか、京都で大火があったりとか。(豊臣)秀吉さんの頃には寺町通りを作ったりとかで転々としてまして。江戸の慶長年間に京都市役所の北側に移って、そこで約400年間、それが一番長かった時代ですね」

こちらは江戸時代の寺町二条付近の地図だ。左下より斜め上に伸びているのが「二条通り」、一番下の左右に伸びているのが「寺町通り」。ちょうど右方向に90度回転させれば、方角に沿った地図となる。

「妙満寺古図」(江戸時代・寺町二条/複製)妙満寺所蔵

当時は塔頭(たっちゅう、寺院のなかにある個別の坊)が14坊もあったという。地図で確認すると一区画丸ごとだ。確かに広大な寺領である。

「当時の寺町二条は中心地でした。(妙満寺は)寺町筋でも5番目ぐらいの大きい土地で、江戸時代ではずっと本能寺さんがお隣さんだったんです。幕末には、はす向かいが長州屋敷(現在の「ホテルオークラ京都」の場所)だったんですが、いわゆる『蛤御門(はまぐりごもん)の変』の時に、この辺一帯が一番激しく焼けたんですよ。うちも全部焼けました」

明治時代になると、上知令(あげちれい、じょうちれい)などにより、寺領は半分近くが失われたという。手狭であるうえ、都会では修行の場にふさわしくないと、戦後に現在の場所へと移転した。

じつは、移転の最終候補地は2つあったという。この岩倉の地と観光地で有名な嵯峨嵐山だ。だが、開祖と縁のある比叡山が見え、また「雪月花の三名園」の1つである「雪の庭」が比叡山を借景とするのも決め手となり、この地に落ち着いた。

ちなみに「雪の庭」とは妙満寺の中の「成就院(じょうじゅいん)」にあった枯山水の箱庭だ。

「雪の庭」/松永貞徳(まつながていとく)肖像画(妙満寺所蔵)

「江戸時代初期に活躍した俳諧師の松永貞徳(まつながていとく)が作庭したといわれています。『妙満寺成就院の雪の庭』、『清水寺成就院の月の庭』、それから『北野天満宮成就坊の花の庭』と『雪月花の三名園』と並び称されているんですね」

「雪の庭」という名前だけあって、うっすらと冠雪した比叡山との取り合わせがじつに美しいとか。石が黒いため、足元が雪の「白」と「黒」のコントラストになるよう計算されており、妙満寺の見どころの1つといえるだろう。

始まりは「安珍と清姫」の物語

さて、見どころ満載の妙満寺だが、じつはこれだけではない。
「娘道成寺」の釣鐘が安置されているのだ。

「この釣鐘にまつわる話は3部構成になってまして。まず『安珍(あんちん)と清姫(きよひめ)の物語』があるわけですね」と湯原氏。

演目の「娘道成寺」は、いうなれば3部構成のちょうど真ん中、第2部に当たる部分である。どうして女は蛇身と化したのか。そこには第1部からの因縁がある。

まずは、第1部から。
話によって詳細は分かれるも、妙満寺に伝わる話をベースに大筋を説明しよう。併せて、所蔵されている2つの絵巻物「安珍清姫物語絵巻(江戸時代後期 作者不明)/(室町時代後期 伝・土佐光信作)」もご紹介する。

時は醍醐天皇の世。
延長6(928)年8月、奥州白河(福島県白河市)に住む「安珍」という若い修験者が、熊野詣に向かう道中での話だ。安珍は、紀州(和歌山県)の庄屋、庄司清次(しょうじきよつぐ)の家に一宿を求める。そこで出会ったのが清次の娘の「清姫」。彼女に見初められた安珍はというと……。

「修行僧ですから、女性と一緒になることはできないと。熊野詣を終えて無事に修行することができたら、あなたのもとへ帰って夫婦になりましょう。嘘をついて逃げるわけですね。そのことに気付いた清姫さんが安珍さんを追い回して蛇となってしまうんです」

再び会う約束をする2人/まさかの逃亡する安珍/怒りのあまり鬼化する清姫 「安珍清姫物語絵巻(江戸時代後期 作者不明)」より

安珍は紀州の道成寺へと逃げ込み、そこにあった釣鐘の中に隠れる。だが、蛇身となった清姫は見破り、釣鐘に巻きつき、炎を吐いて鐘もろとも安珍を焼き殺してしまう。

「蛇になった清姫は、自分のその醜い姿を見て、あるいは大好きな人を殺してしまったという後悔の念から日高川に身を投げて死んでしまった。これが第1部のストーリーで、釣鐘も安珍さんも清姫さんもなくなってしまうんです」

鐘の中に隠れる安珍/焼き殺す蛇身となった清姫/鐘の中で骨となった安珍 「安珍清姫物語絵巻(室町時代後期 伝・土佐光信作)」より

それにしても、女の執念はすごい。将来の約束を反故にされたからとはいえ、少々過激ではないか。

「じつは、絵巻物を見ると、のっけからいきなりお布団の中で仲良くしてますから。大人の方でしたら何があったかは分かるわけなんですね。ただ泊まったわけじゃなくて、安珍さんも、まあ手を出している。そこで嘘をつくわけですから。それは蛇となって追うわけですね。ただ単に片思いとか、懸想してるわけではないんですね」

絵巻物の冒頭部分にある安珍と清姫の描写 「安珍清姫物語絵巻(江戸時代後期 作者不明)」より

隠された大人の事情というワケか。

「歌舞伎の道成寺をご覧になられると、最初に『所化(しょけ、修行中の僧)』が出てきて、お坊さんを揶揄するようなやり取りがあるんですよ。若いお坊さんに大体掛け合いさせて、その時の時事ネタを入れたりとか。欲まみれのお坊さんが最初にたっぷりと演じられるわけなんですが、それはここに起因してるわけですね」

この第1部の話はこれで終わるのが一般的だ。だが、妙満寺に伝わる話は、結末が少し違う。この後、まさかの続きがあるというのだ。

「2人とも死んでしまいますね。で、その日の夜、住職の枕元に蛇が2匹現れるんです」

安珍と清姫の化身ではないか。そんな考えから、次の日、2人のために法華経の供養が執り行われるのである。すると、その日の夜、住職の枕元に、今度は天人に生まれ変わった2人が現れるのだとか。

枕元に現れる2匹の蛇/天人に変わる驚きの結末 「安珍清姫物語絵巻(室町時代後期 伝・土佐光信作)」より

「生前、大変なことになったけども、法華経で供養したらみんな成仏できますよと。『法華験記(ほっけげんき)』という古い書物が元になってるお話なんですね。南無妙法蓮華経の教力がどれだけ素晴らしいかというのを集めた説話集で、じつは安珍と清姫の物語はハッピーエンドなんですよ」

「娘道成寺」の元となった2代目釣鐘

「それから400年ぐらい経って、2代目の釣鐘を作るんです」と湯原氏。

ここからが第2部となる。
あの凄惨な事件から約400年後。道成寺では何度も釣鐘の再鋳を試みるも、成功しない日々が続いていた。清姫の怨念か、はたまた安珍の無念か。

正平14(1359)年。
ようやく道成寺の2代目釣鐘が完成する。
過ぎ去りし時が彼らの因縁を解決したようにも思われた。そんな折、2代目釣鐘をめでたく披露する鐘供養が盛大に営まれるのである。第2部はその祝儀の席での話だ。

「花子(はなこ)という白拍子(しらびょうし、平安末に起こった歌舞の一種およびそれを演ずる遊女)が現れて、私に一舞い踊らせてくれと頼むんです」

またしても、僧侶は白拍子の美しさに負けて、祝儀の席へと入れてしまう。

「じつは、この白拍子の正体は清姫さんの化身でして。また蛇になって釣鐘を引きずり下ろして、釣鐘の中にいなくなる。その2代目の釣鐘にまつわるお話が、いわゆる『道成寺モノ』と言われる古典芸能の元になったんです」

「国貞に学ぶ きよ姫」伊藤正男(2013年)妙満寺所蔵

実際に2代目釣鐘を見せて頂いた。
本堂の右奥に安置された2代目釣鐘。禍々しい雰囲気は全くないが、一瞬だけぞくりと背中にきた。

妙満寺本堂に安置されている道成寺の2代目釣鐘

思っていたよりも小さい。
男性1人が入って隠れたというのだから、正直、もっと大きい鐘を想像していた。だが、実際の寸法は高さ約105㎝、直径約63㎝。かなりコンパクトな印象だ。重さは約250㎏で、湯原氏曰く、天秤棒で担げば大人6人で余裕で動くという。

「舞台に登場する釣鐘はもっと大きいですよね。元々これぐらいが当時のサイズとしては標準サイズだという説と、ああいう凄惨な事件があったので、もう成人男性が入れない大きさにわざと小さく2代目を造ったという話があります」

だが、真相はというと。両方の説とも間違いだという。
じつは、この2代目釣鐘を寄進したのは、源万寿丸(みなもとのまんじゅまる)。釣鐘の銘文にもその名が刻まれている。

道成寺の2代目釣鐘の左側面。一番左に刻まれているのは制作年月日

「(源万寿丸は)その土地を治める方だったそうです。最初から大小の兄弟の釣鐘を造って、大きい方を氏神さんの土生八幡宮(はぶはちまんぐう)に納め、少し小さく造ったこの釣鐘を菩提寺の道成寺さんに納めたらしいんです」

土生八幡宮の釣鐘はのちに光源寺に移され、現存しているという。

一方で、妙満寺に安置されている2代目釣鐘はというと、上部にはなんとも痛ましいひびが、遠目からでも確認できる。なんでも、あちこち連れ回された挙句、落として割ったりなど、妙満寺に納められるまで粗末に扱われていたようだ。

ひび割れた釣鐘

「妙満寺で長年お経を唱えていたら、妙音を奏でる名鐘になったと。日々お経を唱えることで傷が塞がったと。宿っていた怨念も解けたということの象徴なんですね」

紀州から京都への思わぬ旅路

それにしても、である。
ここに大きな謎が残る。
どうして、この2代目釣鐘が京都にあるのか。紀州道成寺から京都の妙満寺へと移った理由は何だったのか。

「ここからが第3部です。やっぱりうちは、釣り鐘があるとロクなことがないと。鐘を釣ってたら、引きずり下ろす蛇が出てきてと。まあ怖い目に遭ったので、道成寺さん、裏山の竹藪に、この2代目釣鐘を捨てるんですね」

これは予想外の展開だ。
道成寺によって埋められた釣鐘。そこまで怨念のあるモノだったのかと、つい二度見してしまった。

さらに、この斜め上を行くのが、あのお方。われらが豊臣秀吉である。どうしてまた、こんなところで絡んでくるのかと訝しんだが、「秀吉」と「紀州」とくれば「紀州攻め」が思い浮かぶ。

大蘇芳年 『皇国二十四功 羽柴筑前守秀吉』(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

当時の紀州には、幾つか強力な宗教勢力があった。そのうちの1つが根来(ねごろ)寺である。

「200年ぐらい経って、あの豊臣秀吉が紀州征伐に行くんですよ。根来寺の僧攻めなので、坊さんが嫌がるいわく付きの釣鐘が道成寺にあったはずだと。家来の仙石秀久(せんごくひでひさ)が掘り起こして、陣鐘(じんがね)に用いたんですね。こうして首尾よく根来攻めを終え、京都に持ってくるんです」

だが、しかし。
紀州攻めの後、そのまますんなりと2代目釣鐘は妙満寺に納まったワケではないという。宿る怨念は、そう簡単には消滅しなかったようだ。

「戦利品よろしく京都へ持っていく時に、入った村入った村で疫病とかが起こると。やっぱりこれは非常に恐ろしい鐘だとなったんです。そして、京都へ入ろうとした時に、大八車が押しても引いても動かなくなったそうで、今度は秀吉軍がそこに(釣鐘を)置いてきちゃったと」

本当に迷惑な人たちである。
陣鐘として利用するだけ利用して、あとは野となれ山となれ。まあ、そんな心持ちだったのだろう。結果的に、またもや2代目釣鐘は捨てられたのである。

困ったのは、釣鐘が捨てられた付近の村人だ。
「村人たちはこんな鐘があったら大変だと、妙満寺を探し当てました。当時の妙満寺には、日殷(にちいん)さんという大僧正がいらっしゃって。すごく法力の強い立派なお坊さんでした。その方の読経により、法華経の供養で釣鐘の怨念が解けたんです。それから約450年近く、この妙満寺でずっとお祀りしています」

なるほど。
安珍と清姫の物語が第1部、2代目釣鐘が造られて不思議な出来事が起こったのが第2部、そうして2代目釣鐘が捨てられた後、掘り起こされて妙満寺に納まるまでが第3部。一連の流れを経て、現在、妙満寺本堂に安置されているということか。

(※なお、道成寺のホームページでは「二代目の鐘は、天正13年(1585)の雑賀攻めの時に持ち去られ、その二年後に京都の妙満寺に奉納されました」と掲載されている)

これが運命なのだろうか。
二転三転して、ようやく妙満寺に納まった2代目釣鐘。これまでの過酷な道のりなど、今では想像すらできない。それほど穏やかな姿で本堂に安置されている。

そんな釣鐘に再度手を合わせ、1時間半にわたる取材を終えた。

取材後記

数奇な運命を辿った2代目釣鐘。
江戸時代には1つの見せ物として、多くの人がその鐘に魅了されたという。

「江戸時代中頃に、初代中村富十郎が『京鹿娘道成寺(きょうがのこむすめどうじょうじ)』を踊るんですね。すごく人気のある演目で、釣鐘が有名になって。江戸に持ち出されたという記録も残ってます」

妙満寺で頂ける切り絵御朱印「京鹿子娘道成寺」(1,500円)

あれからさらに長い時を経て。
現在では、また違った意味で2代目釣鐘は脚光を浴びている。

「道場寺モノって、色々といわくのある話なので。(演じられる場合には)道成寺さんにご祈念に行くんです。成功祈願とか。で、わざわざ和歌山まで行くと釣鐘がないので、どこに行ったのかと。じつは京都の妙満寺さんにありますよって、向こうで聞いて、こっちに皆さん、いらっしゃるんですよ」

芸道精進とその成就を願って。
今度は、芸道を進む人たちの道しるべになっているのだとか。

例年、春になると、妙満寺では鐘供養が営まれる。
令和6年は5月19日(日)だそうだ。

新緑溢れる境内で。
安珍と清姫の霊を慰めるために。
そして、芸道の道を進む人々のために。

基本情報

名称:顕本法華宗 総本山妙満寺
住所:京都府京都市左京区岩倉幡枝町91
公式webサイト:https://myomanji.jp/