落語は今までご縁のない伝統芸能だった。国立劇場や演舞場などでポスターを目にする機会は多々あれど、自分から足を運ぶほどの興味はなかったというのが正直なところ。でも、数年前心游舎のワークショップで落語を取り上げたいという話になり、落語家の立川志の八師匠をご紹介いただいてから、急に落語との距離が近づくことになったのである。
初めての落語は「時そば」をオンラインで
コロナ禍であったこともあり、ワークショップはオンライン開催。事務局は、参加者は見るだけ、質問などはチャットでというウェビナー形式を想定していたのだが、打ち合わせのときに師匠が待ったをかけた。「落語は観客との対話があって成り立つもの。画面に向かって話し続けるのはちょっと」と。なるほど。確かに仰るとおりである。落語家さんは、客席の反応を見ながら、話すスピードを変えたり、身振り手振りを大きくしたり、毎回少しずつ対応を変えながら高座を務められるのだそうだ。同じ演目であっても、お客さんやその日の体調、気候などによって話し方が変わるから、一度として同じものはない。噺家の意地と誇りを感じ、落語の魅力に初めて触れた気がした。
ミーティング形式になったオンラインワークショップで、師匠が話してくれたのは「時そば」。落語好きでなくても、一度は聞いたことがあるであろう有名な噺である。
深夜、小腹が空いた男が屋台の蕎麦屋でしっぽく(ちくわ蕎麦)を注文する。男は、割り箸から、器、汁、麺、具のちくわなどを調子よく褒めた末、蕎麦代を支払うときに、「生憎と細かい銭しかねぇ。落としちゃいけねえから、手え出してくれ」と言って、蕎麦屋の店主の掌にテンポ良く一文銭を数えながら載せていく。「一(ひい)、二(ふう)、三(みい)、四(よう)、五(いつ)、六(むう)、七(なな)、八(やあ)」と数えたところで、「今何時(なんどき)だい?」と時刻を尋ねる。店主が「九つです」と答えると間髪入れずに「十、十一、十二、十三、十四、十五、十六、ご馳走さん」と言って立ち去っていく。
その様子を見ていた男は、客が一文ごまかしたことに気付き、自分もやってみようと翌日実践するのだが、蕎麦屋はなかなか見つからないし、見つけた蕎麦屋も汚くてひどい店。お勘定する段になり、昨日の客のように一文ずつ出していくのだが、「一、二、……八、今何時だい?」と聞くと、「四つです」と言われる。「うっ、五、六…」とまずい蕎麦を食べさせられた挙句に勘定を余計に取られてしまうというあの噺。
江戸時代の時刻が、「夜4つ(午後10時頃)」の次が「暁9つ(午前0時頃)」であったので成立するのだが、現代人にこの時の数え方を理解することは難しい。師匠は始める前に子どもたちにもわかりやすく、時そばの時代背景や文化、落語の成り立ちなどについても教えてくれた。私も落語は初めてだし、オンラインだったので、ちゃんとわかるか心配していたのだが、気付けば画面のこちら側でお腹を抱えて笑っていた。噺の後のワークショップでも、師匠によるおいしそうなお蕎麦の食べ方講座やジェスチャークイズ、子どもたちが扇子と手拭いを使った新しいジェスチャーを発表してくれるなど、大いに盛り上がったのだった。
中でも私が面白いと思ったのは、上方落語と江戸落語の違いについて。上方落語は大道芸なので、道行く人を引き付けるために、身振り手振りも大げさに、高座には見台や膝隠しがあり、場面展開の時などには小拍子をカチッと鳴らしたりする。対して江戸落語はお座敷芸。そもそも噺を聞くために集まっている人たちに聞かせるので、鳴り物も使わないし、身振り手振りも大きくしないのだそうだ。師匠は上方と江戸の時そば(上方は時うどん)を演じ分けてくれたのだが、同じ演目なのかと思うくらい違う噺に聞こえる。時うどんは、知恵の働く兄貴分と弟分がボケとツッコミのやりとりをしながら勘定をごまかすが、時そばでは勘定をごまかす男と真似する男は無関係。ボケとツッコミのおかげか、上方の方が明るい雰囲気で、これが上方の漫才文化につながっていったのだろうなと感じさせる。今でも関西はうどん文化で、関東は蕎麦文化だけれど、それが落語に表れているのも興味深い。
なぜかバズらない“ちょんまげ”
余談であるが、今、志の八師匠は丁髷である。コロナ禍で散髪に行けなかった時期に髪が伸びたのをきっかけに、月代もしっかり剃って、町人髷を結っているのである(ちなみに自力で)。落語は、聞いている人たちに噺の情景をリアルに想像させ、状況を理解してもらうことが笑いにつながる。落語は江戸時代の町人の話が多いので、町人髷で話せば、より落語の世界が想像しやすくなるのではないかと思ったのだそうだ。観客を第一に考えるその姿勢に、頭が下がる思いがした。その丁髷はとても似合っていて、羽織姿は本当に江戸の商人のよう。逆に街を歩いても、馴染みすぎていて、さして振り返る人もいない。「ここまで体張っているのにバズらないのが悩み」らしい。
昨年、志の八師匠の落語会に初めて出かけた。「栄光へのノーサイド」という、第二次世界大戦中にオーストラリア兵として出征し、日本軍の捕虜になった日系二世のラグビー選手の実話を元にした小説を、師匠が新作落語にしたもの。小説を読んでいたので、あの感動の物語にしっかりオチをつけて落語にする師匠の話術に感服したのだが、なにしろオーストラリアの話。丁髷が「なあ、メリー」と渋い声で話していることに笑ってしまう。やはり丁髷が生きる演目と生きない演目があるなと思ったのだった。
おあとがよろしいようで。