大弐三位(だいにのさんみ/賢子)は、2024年の大河ドラマ『光る君へ』にも登場する、紫式部の娘。両親から譲りうけた才能を発揮して、恋に仕事にと充実した人生を送った優秀な女性です。『百人一首』の和歌などを頼りに、その生涯をおいかけてみましょう。
大弐三位は藤原宣孝と紫式部の娘
大弐三位の本名は、藤原賢子(ふじわらのけんし/かたこ、かたいこ)。正確な生没年は不明ですが、平安時代に『源氏物語』を執筆した紫式部とその夫・藤原宣孝(のぶたか)との間に、長保元(999)年頃に生まれたと推測されます。
宣孝は長保3(1001)年に亡くなり、紫式部は幼い賢子を育てながら、一条天皇の中宮だった彰子(しょうし/あきこ)の女房(にょうぼう、貴族に仕える女性)として宮中に出仕しました。
紫式部の雇用主は、彰子の父である藤原道長(みちなが)です。一時、紫式部と道長が恋愛関係にあったとする説もありますが、『光る君へ』の中で賢子の父親が道長として描かれているのは史実ではなく、大河ドラマのために創作されたストーリーです。
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紫式部の和歌をまとめた『紫式部集』には、幼い賢子が病気になったときに、侍女が生命力の象徴である竹を瓶に挿して回復を祈る姿を見て、紫式部が詠んだ歌が収録されています。
若竹の おいゆく末を 祈るかな この世を憂しと 厭ふものから
(若竹のように健やかに成長していきますようにと、娘の行く末を祈っているのだなあ。母のわたしは、この世を憂きものと厭うているのに……)
『紫式部集』より
後一条天皇と後朱雀天皇の母・彰子に仕える
長和6(1017)年頃、十代半ばに成長した賢子は、母・紫式部と同じく彰子に仕える女房となりました。
この頃の彰子は、のちに後一条天皇、後朱雀(ごすざく)天皇になる二人の皇子の母として、宮中での立場を盤石なものにしています。
賢子は、母方の祖父である藤原為時(ためとき)が、越後守(えちごのかみ)と左少弁(さしょうのべん)という役職をつとめていたことにちなんで、「越後弁(えちごのべん)」という女房名(にょうぼうな)で呼ばれていました。
道長の息子と恋の記録も
『後拾遺和歌集』や『小倉百人一首』に選ばれた賢子の和歌からは、女房時代の恋愛模様をうかがうことができます。
有馬山 猪名(いな)の笹原 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする
『大弐三位集』より (『後拾遺集』、恋二、七〇九)
「最近、姿を見せない恋人が、私のことなど忘れてしまったのではありませんかと手紙をよこしてきたので、読んだ歌」という言葉が添えてあるこの歌で、賢子は笹を揺らす風の音「そよそよ」と「いでそよ(まったくその通り)」という言葉をかけて、恋人に「本当にそうなのよ(忘れているのはあなたの方ではないですか)。私がどうして、あなたを忘れたりなんてできるのよ」と、軽妙な答えをしています。
おそらく賢子は、母・紫式部から才能を受け継ぐとともに、おおらかでユーモアのある父・宣孝にも似ていたのではないでしょうか。
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明るく朗らかな賢子のもとには、将来有望な貴公子たちから次々と求愛の歌が届きました。大納言などをつとめた藤原公任(きんとう)の息子の定頼(さだより)や、道長の息子の頼宗(よりむね)とも、恋の歌を交わしています。
堀川右大臣(頼宗)のもとにつかはしける
恋しさの 憂きにまぎるる ものならば 又ふたたびと 君を見ましや
(あなたを恋しく思う心が、些事に気が散ってまぎれるぐらいのものならば、再びあなたにお目にかかるでしょうか。まぎれるものではないから、お会いしたいのです)
『大弐三位集』より (『後拾遺集』、恋四、七九二)
後冷泉天皇の乳母となる
賢子は20代半ば頃に、道長の兄で関白右大臣藤原道兼(みちかね)の息子・兼隆(かねたか)と結婚。万寿2(1025)年に娘を出産し、同じ年に生まれた親仁(ちかひと)親王(のちの後冷泉天皇)の乳母(めのと)の一人に選ばれました。
親仁親王は、彰子が生んだ敦良(あつよし)親王(のちの後朱雀天皇)と道長の娘・嬉子(きし/よしこ)との間に生まれた第1皇子ですが、嬉子は出産の際に命を落としています。
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親仁親王は彰子の屋敷で、「弁乳母(べんのめのと)」と呼ばれた賢子らに養育されながらすくすくと成長していき、長暦1(1037)年に後朱雀天皇の東宮となりました。
あいをひの 小塩の山の 小松原 いまよの千代の かげをまたなん
(小塩山のいっしょに生えた小松のように、若宮と同じ頃に生まれ、同じように成長する子どもたちよ。いつまでも宮様の恩恵に浴しますように)
『大弐三位集』より (『新古今集』、賀、七二七)
「後冷泉天皇が若宮と申された頃に、(邪気を払う)卯杖の松を人の子につかはして」という添え書きのあるこの歌は、親仁親王と卯杖をもらった子との健やかな成長を祈るもの。
詳細な時期は不明ですが、賢子は兼隆とは離婚し、東宮権大進(とうぐうごんのだいしん)という事務方をつとめていた高階成章(たかしなのなりあきら)と再婚。40歳頃に息子を出産しています。賢子の快進撃は、まだ止まりません。
従三位の大出世
寛徳2(1045)年に親仁親王が後冷泉天皇として即位すると、40代半ばの賢子は内裏にのぼる資格を持つ従三位(じゅさんみ)を賜りました。従三位といえば、男性ならば公卿(くぎょう)と呼ばれる上級官僚です。賢子は典侍(ないしのすけ)という後宮の女官に任じられて、後冷泉天皇の側近くに仕えました。
この頃の賢子は「典侍」という役職名や「藤三位(とうさんみ)」などの通称で呼ばれていたようです。高階成章が晩年、大宰大弐(だざいのだいに)という役職についていたことから、「大弐三位」とも呼ばれるようになりました。
歴史物語の『栄花物語』は、後冷泉天皇の人となりを「お心はやさしく、ものやわらかで、人を嫌って遠ざけるということのない、すばらしいお方です」と讃え、「折々に管弦の宴を催されて、月の美しい夜や花の見ごろも逃されることなく、趣ゆたかな御代(みよ)です。弁の乳母(賢子)が風流を解する心をお持ちなので、このようにお育て申しあげられたのでしょう」と、賢子のことも評価しています。
月の夜、花のをり過ぐさせたまはず、をかしき御時なり。弁の乳母をかしうおはする人にて、おほしたて慣はし申したまへりけるにや
『栄花物語 巻第三十六 根あはせ』より
左右の組に分かれて歌の優劣を競い合う「歌合(うたあわせ)」などの記録を見ると、賢子は80歳頃まで和歌を残しています。長生きをして、きっと穏やかに生涯の幕を閉じたのでしょう。
*女性の名前の訓読みは一説です。平安時代の人物の読み仮名は、正確には伝わっていないことが多く、音読みにする習慣もあります。
アイキャッチ:『五十八番 大弐三位 (百人一首絵抄)』より一部をトリミング 著者:一陽斎豊国 出典:出典:国立国会図書館デジタルコレクション
参考書籍:
『紫式部集 付大弐三位集・藤原惟規集』(岩波書店)
『新編 日本古典文学全集 栄花物語』(小学館)
『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館)
『国史大辞典』(吉川弘文館)
『改訂新版 世界大百科事典』(平凡社)