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2024.11.03

政治、戦争、友情。心に刺さる、白洲次郎の名言集

20世紀の激動の日本を、風のように駆け抜けて生きた白洲次郎さん。 つねにブレることなく、自らの信念に基づいて発せられた次郎さんの「言葉」は物事の本質を突き、潔くも魅力的な生き方を教えてくれます。ここでは9つの名言をご紹介します。

白洲次郎の人物像についてはこちらの記事をどうぞ
白洲次郎とはどんな人だったのか。信念をもった男の「生き方」

ボクは人から、アカデミックな、プリミティヴ(素朴)な、正義感をふりまわされるのは困る、とよくいわれる。しかしボクにはそれが貴いものだと思つてる。他の人には幼稚なものかもしれんが、これだけは死ぬまで捨てない。

曲がったことが大嫌いで、特に日本人特有の妥協と馴(な)れ合い、駆け引きと腹の探り合いを次郎は厭(いと)った。プリンシプルを遵守して、思考と行動が首尾一貫した潔い生き方だったが、だからこそ「実はさまざまな場面で、日本の社会からは孤立することも多かっただろう」と娘の桂子さんが語っている。

ベレー帽を被り、貴公子のようにスタイリッシュな装いで船遊び。若いころからベレー帽やハンティングの帽子が好きで、よく被っていた。

人が困っているときは、助けるもんだ。

戦争中、東京が空襲に遭った翌日、次郎は友人である文芸評論家・河上徹太郎(かわかみてつたろう)夫妻を五反田(ごたんだ)まで迎えに行き、焼け跡にいた夫妻を鶴川の家に連れ帰った。それから2年間、生活を共にする。まさに「プリミティブな正義感」が現れた次郎の行動と言葉である。

本当の友情は腹を割り合った仲にのみ生まれる。相手が好きそうなことばかり言って一時的に相手を喜ばして、してやったりと思っているなど浅はかな極みである。

忖度なしの性格ゆえ、だれとでも仲よくなったわけではなかったが、ケンブリッジ時代の親友である英国の伯爵であるロビンや、幼なじみであった近衛文麿(このえふみまろ)の秘書官・牛場友彦(うしばともひこ)、評論家の小林秀雄(こばやしひでお)、河上徹太郎、今日出海(こんひでみ)などと、生涯にわたって深い友情を育んだ。

ケンブリッジ留学中は、ベントレーとブガッティの2台の車を所有。親友、後の7世ストラッフォード伯爵ロバート・セシル・ビング(通称ロビン/右側)と一緒に、レースや欧州旅行を楽しんだ。

百姓をやつていると、人間というものが、いかにチッチャな、グウタラなもんかということがよくわかるから。

地方に住みながら中央の政治に目を光らせ、いざ鎌倉というときには中央に出ていく。英国貴族の「カントリー・ジェントルマン」の生き方を体現した次郎。鶴川で畑仕事に精を出し、農作業によって食糧を生産することができる人々を尊敬し、憧れを感じていた。

政治というのは常に国民に夢を与えなければならない。

「口癖のようにこう言っていました。にもかかわらず今の政治家には志を感じる人が見当たらない、と」(牧山圭男さん・以下同)。次郎は、生涯変わることなくプリンシプルに基づき、反体制の意識をもって、現状を辛辣(しんらつ)に批判していた。

給料は半分で良い。僕はそれだけあれば食っていかれるから。

東北電力会長時代、初の電気料金の値上げを決めたとき、会長報酬を半額とすることを自ら申し出た。「会社の車を半分私用で使うから、運転手の給与を半分、自分で払うとも言った。清々しいまでに筋を通した生き方ですが、こうした人が近くにいると、自分も高潔であらねばならないと思うから大変ですよ(笑)」

左/1920年代後半、爽やかな笑顔が美しい20代の次郎。正子と出会ったころは、英字新聞「ジャパン・アドヴァタイザー」の記者をしていた。右/昭和26(1951)年、東北電力会長に就任したころ。同年8月、首席全権委員顧問として吉田茂首相らと渡米し、9月のサンフランシスコ講和条約調印に立ち会う。

吾々の時代にこの馬鹿な戦争をして、元も子もなくした責任をもっと痛烈に感じようではないか。日本の経済は根本的の立直しを要求しているのだと思う。恐らく吾々の余生の間には、大した好い日を見ずに終るだろう。それ程事態は深刻で、前途は荊の道である。然し吾々が招いたこの失敗を、何分の一でも取返して吾々の子供、吾々の孫に引継ぐべき責任と義務を私は感じる。

戦前、次郎は反戦論者で、米英と戦争を始めたら敗戦すると思い、鶴川に居を移した。しかし戦後は、「戦争をした政府の中枢に自分はいなかったというアリバイを主張せず、自分ごととして責任を引き受ける。馬鹿なことをした自分たちの世代が少しでもよくして次世代に渡したいと、多くのところで語っていました」

リーダーたるべき人間は好かれたら終わり。七割の人に煙たがられなければ本物ではない。

「偶然得た権力を自分の能力だと勘違いしている奴(やつ)がたくさんいる」とも次郎はよく言っていた。「組織をつくるときに、自分と同質の者だけを集めて居心地よくするのは、その程度の器量しかないリーダー。文句を言ってくれるような人もそばに置くほどの度量がなければ、組織は活性化しないことを知っていました」

僕は何にも知らんよ。知っていたとしても何も喋らんよ。僕はねえ、口が堅いからここまで生きてこられたんだ。

戦後の日本の再建の重要な場面に関わった次郎だが、当時のことは多く語らずに世を去った。「政治は素人(しろうと)であった次郎を抜擢した吉田茂の眼力、見立てが何よりもすごかったと思います。結果、大好きな吉田さんのために働こうと、次郎は全力でそれに応えたのです」

40歳ごろ。このころ(1942年)に東京郊外の鶴川に茅葺(かやぶき)の農家を農地付きで購入。農業にいそしみ、食糧生産に励んだ。

白洲次郎、正子の面影を訪ねることができる「旧白洲邸 武相荘」
住所:東京都町田市能ヶ谷7-3-2
電話:ミュージアム042-735-5732 レストラン042-708-8633 ショップ042-736-6478
開館時間:10時~17時(入館は16時30分まで)
休み:月曜(祝休日は開館)、夏季・冬季休館あり
メール:info@buaiso.com
公式サイト:https://buaiso.com/
※レストラン、ショップゾーンは入場無料 ※団体での訪問は、あらかじめ予約のこと


協力/牧山圭男、牧山桂子 写真提供/旧白洲邸 武相壮 構成/高橋亜弥子、吉川 純(本誌)
※本記事は雑誌『和樂(2024年6・7月号)』の転載です。
出典・参考文献/『プリンシプルのない日本』白洲次郎、『風の男 白洲次郎』青柳恵介、『白洲家の日々 娘婿が見た次郎と正子』牧山圭男、『次郎と正子 娘が語る素顔の白洲家』牧山桂子(以上新潮文庫)、『白洲次郎の流儀』(新潮社)、『白洲次郎』(平凡社)、『白洲次郎 一流の条件』(宝島社)

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和樂web編集部

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