最近、「懐(ふところ)が深い」という言葉を聞かなくなった。
先に断っておくが、私の周りだからこそ、という話ではない。包容力が溢れんばかりの、それも懐の境界線が消失したような心持ちの人間は数多くいる。とりわけ私の周りには。それこそ「類は友を呼ぶ」というではないか。
今ここで話題にしているのは「言葉のチョイス」についてである。
少し前から、世のビジネス本には「懐が深い」という言葉に代わり、キラキラ輝く言葉が台頭するようになった。いわゆる「共感力」や心の知能指数といわれる「EQ」である。
もはや憧れの上司像も大きく変わり、前からぐいぐいと引っ張る上司は敬遠され、落伍者を出さぬよう後ろから見守る羊飼いのような上司に注目が集まる。フラットな組織。心理的安全性。サーバント(奉仕者)リーダーシップ。そんなニュアンスからすれば、確かに「懐が深い」という言葉は、ちょっと上から目線な気がしないでもない。私の勝手な妄想だが、心が広く包容力があるゆえ大目に見てやろう、これくらいの無礼も許してやろう的なイメージだろうか。
だが、一方で。
「懐が深い」という言葉がとっても似合う時代があった。自身の生き残りを賭けた壮絶な時代。強烈なリーダーシップが求められ、呼応するように傑出した人物が多く現れたロマンの時代。
言わずもがな、戦国時代である。
今回は、そんな戦国時代に活躍した武将らを集めての「懐深い」選手権の開幕である。
もちろん、どの戦国武将も懐深さは限界突破のお墨付き。
だが、やはり最初を飾るのはコチラのお二方だろう。
人たらしの天才「豊臣秀吉」
そして、そんな秀吉に「生き大黒天」とも称された「徳川家康」
さて、今回はどんなぶっとびエピソードが出てくるか。
「胸アツ」となる準備ができた方から、早速、読み進めて頂きたい。
松茸に右往左往する人々
まずは1人目。
その強烈キャラで他者を圧倒する「太閤」こと「豊臣秀吉」である。
振り返ってみれば、ジャパニーズドリームを体現したような秀吉。天下取り一歩手前で散った主君、織田信長の遺志をうまく引き継ぎ、混戦模様の争いからするりと抜け出したのはさすがとしか言いようがない。気付けば天下人へまっしぐら。いち早く独走態勢を築き上げた強者である。
一般的なサクセスストーリーに「運」は付き物だが、天下人となるにはそれだけでは不十分だ。そもそも「リーダーたる要素」を兼ね備えてこそ「強運」もいかされる。なかでも「器のデカさ」「懐の深さ」はマストだろう。人間、最後は感情がモノ言う生き物なのだ。何があってもこの人は裏切れない、そう思われれば勝ったも同然なのである。
そんな秀吉の「懐深さ」が分かるエピソードがある。
具体的な年代は不明だが、既に天下人となって余裕もある時期の話だろう。
季節は秋。
秋といえば「松茸(マツタケ)」。
ということで、何やら京都の東山に、多くの松茸が出ているとの情報をキャッチした秀吉。早速、松茸狩りに行くことになったという。
だが、そこに思わぬ落とし穴があった。
そこで松茸を取らないようにと、見張りの者を行かせたが、早くも京中の者たちがすでに松茸を取ってしまい、残り少なくなっていたので、諸方の山々から松茸を取り寄せ、一夜のうちにそれを植えて置いた
(岡谷繁実著『名将言行録』より一部抜粋)
松茸狩りだというのに……まさかの松茸がない?
家臣からすれば、泣きたくなる状況だろう。
それにしても、ナイス。京都人。
涼しい顔して、とっとと松茸確保に急ぐ姿が容易に想像できる。だって、美味しいモノは美味しいんだもの。誰だってなりふり構わず手に入れたいではないか。ただ、それを前面に出さないテクニックを京都人は持ち合わせているだけのコト。今も昔も、皆、松茸に目がないのは同じのようだ。
一方で、いつもながら損をするのは秀吉の家臣たちである。
他所から松茸を一気に集め、ご丁寧に再び山に戻して植え替える。この発想もスゴいが、それを「一夜」のうちにやり切るあたりがホントに恐れ入る。
つい、小田原の石垣山城(神奈川県)や大垣の墨俣一夜城(岐阜県)を思い出してしまった。現在では創作の可能性が高いと考えられる「伝説の一夜城」だが、逆に家臣たちからすれば、築城に比べれば、案外、楽勝パターンだったのかも。まあ、いつだって、ムリのしわ寄せは下っ端に来る。意味のない単純作業に「また徹夜かよ」と愚痴の一つもこぼしたくなるのは当然だ。
そんな気持ちを知ってか知らずか。
秀吉は、驚きの行動に出る。
なんと、家臣がわざわざ植え替えた松茸を、秀吉は上機嫌で取ったというではないか。
いや、さすがに分かるんじゃね?的な。
だって、土の盛り方とかあからさまじゃないか。なんなら、変に気を遣って、取りやすいところ、目立ちやすいところなんかに植えてそうな気もしないでもない。とにかく、不自然極まりない様子であることは明白だ。
それでも、何の素振りも見せない秀吉。
もういっそこのまま終わってくれと願ったが、いかんせん、黙っていられない輩がいたようだ。気付いていないのではと、いらぬ心配をした秀吉お付きの女房たちである。あまりの「不自然な松茸」に我慢できず、秀吉にこっそり植え替えの事実を告げたという。
ここで、秀吉の「懐深さ」が爆発となる。
彼の放った一言は……。
秀吉は笑って「そのことは早くからわかっていたが、わしの機嫌をよくしたいと諸人がしきりに願う心は、何に替えることができよう。もう何もいうな、いうな」と手を振られたという
(同上より一部抜粋)
かっけー。
やっぱり、かっけーよ。
何が格好いいのかというと。
要は、すべてを知った上での振る舞いだったというコト。松茸の不自然さもあえて家臣の努力だと、ありのままを受け入れる。もちろん、苦言を呈した女房らの心も分かる。だから、何も言うなと笑ってスルー。ちょっと手を振るところなんて心憎いじゃないか。
細かいコトに目くじらを立てず。
結果ではなく、彼らの気持ちに応えようとする。これこそ、懐深い秀吉流の心配りといえるだろう。
ちょっ、茶碗貸して
お次、2人目のご登場。
昨年の大河ドラマでも注目を浴びた「神君」こと「徳川家康」である。
秀吉の死後、戦国武将らの均衡が崩れた途端に、次の天下取りへと即、行動開始。伏見城を捨て駒にするなど情に流されない冷静な判断で、天下分け目の戦いに勝利。その後は江戸幕府の礎を築き、徳川一強時代の立役者となる。
一方で、家臣らの諫言(かんげん、目上の人に向かって忠告すること)や不満などにも積極的に耳を傾ける、傾聴の鬼でもあったとか。そういう意味では、やはり懐の深さは折り紙付きといえるだろう。
そんな家康にも「懐深さ」の分かるエピソードがある。というか、ごまんとある。
今回ご紹介するのはそのうちの1つ、大坂城落城に際しての話だ。
慶長19(1614)年の「大坂冬の陣」、そして翌年の慶長20(1615)年の「大坂夏の陣」と、2度にわたって攻撃された大坂城。1度目は和睦という形でなんとか凌ぐも、やはり時代の流れは徳川に来ていたようだ。あれほど権勢を誇っていた豊臣家も、秀吉の死後は総崩れ。江戸時代の幕開けに、残念ながら徳川家と豊臣家は共存できなかったようだ。
同年5月、「大坂夏の陣」で大坂城は落城。そして豊臣家も滅亡。
それも滅ぼす張本人は徳川家康だから、「懐深い選手権」としては何とも皮肉な話である。「秀吉VS家康」の好カードも、実際の歴史では決着がついてしまうのだ。
さて、話を戻そう。
まさに大坂城が落城する朝のこと。家康は平常心で戦況の報告を待っていた。
確かに、軍勢でいえば圧倒的に徳川勢が有利である。だが、「関ヶ原の戦い」ほどの心配はないといっても、その目、その耳で随時戦況を確かめねばなるまい。こうして家康は、本陣で戦況の報告を待ち続けていたのである。
家康の元へ続々と知らせが入ってくる。
そこに、必死の形相で馬で駆けてきた男がいた。
安藤帯刀直次(あんどうたてわきなおつぐ)である。
彼は、幼少期より家康に仕えた忠臣だ。
初陣は姉川の戦いで、多くの武功を挙げてきた武将である。のちに本多正純らと幕政にも参画、家康の大御所時代を支えた重要な人物ともいえる。家康の十男、徳川頼宣(よりのぶ)の傅役としても有名で、直次以降、十六代にわたって紀伊徳川家の付家老をつとめた。
つまり、シンプルにいうと、家康とはかなり親しい間柄。
だからこそ、戦況を待つ家康の気持ちも痛いほど分かるし、一刻も早く安心させたかったのだろう。必死に馬を駆って家康の元へと辿り着いたのである。その後、家康へ勝利の報告も無事に完了。
ここで、安藤直次は、近くにいた坊主に声をかける。
報告が終わって、急に喉の渇きに気付いたのか。とにかくなんでもいいから飲ませてくれと、頼んだというのである。
だが、なんと坊主の返答はというと。
上様のお茶碗しかございませんと、すげない返事。
えっ?
飲めないの?
これには安藤直次も困惑。
だって、戦場から休まず馬を走らせてきたのである。それなのに塩対応過ぎやしないか。
もちろん、直次だって諦めない。
直次は「上様(家康)のお茶碗であっても、わたしがいただいた後ですすいだならばいいではないか、どうか飲ませてくれ」と言った
(大石学ら編『現代語訳徳川実紀 家康公伝4』より一部抜粋)
……だよね。
だって、めっちゃ喉乾いているし。なんなら、もう懇願までしてるやないか。
だいたい戦場でそんな些細なコトを問題にしている余裕はない。家康とはこれまで多くの合戦を共に戦い抜き、積み上げてきた強固な絆があるのだ。逆に、家康に対して、この直次の信頼感がハンパないのもスゴすぎる。
そうこうしているうちに、この争いを聞きつけた家康がようやくご登場。
ここで、家康の「懐深さ」が炸裂する。
「帯刀(たてわき、直次)がのどが渇いているというのになぜ飲ませないのか。このようなときに、上下の隔てなどあるものか、馬鹿者め」とお叱りになり、すぐさま飲ませなさったという
(同上より一部抜粋)
いいねえ。家康。
家臣からすれば、自分の味方になってくれるって、ちょっと胸アツ。
そして、天下人となった今でも、変わらず接してくれることも、やっぱり胸アツ。
結局、お茶碗貸してくれるのも、並々ならぬ「懐深さ」を感じさせてくれる。
形式なんかにこだわらない。
そこに、家康の真の魅力がある。誰が茶碗を使おうが、天下人としての揺るぎない自信があるからこそ、気にも留めないのであろう。
いや、それよりも。
大事な家臣、直次の喉をどうか潤してやってくれい。
そんな家康の心の声が聞こえてきそうである。
これぞ家康の懐深さの真骨頂。彼の心配りも相当なものといえるだろう。
トドメの胸アツ現場から
さて、両者のエピソードをご紹介してきたが。
結論からいうと、決め手に欠けるというか。うーん。確かに、これだけでは、両者、軍配が上がらなさそうだ。
おっと。
そういえば、秀吉の松茸狩りのダメ押しエピソードがあったじゃないか。
じつは、先ほどの松茸狩りの話は、あれで終わりではない。続きがあるのだ。
少し場所が変わって、今度は山城の「山里」というところのお話。
「梅松」という坊主がその場所を管理していたが、新たに松を植えたという。
その後、しばらくして、梅松は松茸が生えたと秀吉に献上した。
やはり、ここでも秀吉はご満悦。
秀吉は笑って「わしの威光はまことにさもあろう」といった
(岡谷繁実著『名将言行録』より一部抜粋)
松茸まで生み出すオレ、サイコー。
そんな秀吉の高笑いが聞こえてきそうである。
だが、松茸の献上はこの1回だけではなかった。その後も松茸の献上は続く。その回数が多くなってきたことで、さすがに疑問を抱いたのだろう。じつは、残念ながらここでも偽装工作がなされていた。どうやら、わざわざ他所から松茸を買い求めて献上していたというのである。
それに気付いた秀吉はというと。
秀吉は近臣に「松茸を献ずるのはもう止めさせよ。生えすぎだ」といわれた
(同上より一部抜粋)
かっけー。
やっぱり、かっけーよ。
なんとも、最後の一言がたまらない。
漫才の締めの「もう、ええわ」的な感じだろうか。嘘をついたことを咎めることなく、たった一言で仕留めるあたりが、さすが秀吉。
懐深さに定評があるのも頷けるラストであった。
最後に。
豊臣秀吉の松茸事件、徳川家康の茶碗事件をご紹介してきたが、両者、まずまずの滑り出しといえるだろう。
ただ、やはり人の生き死に直接関わっていないからか。いやはや、そこまでのギャップがなかったからか。どうやら、涙を流すほどの「胸アツ」とまではいかなかったようである。
「懐深さ」選手権の軍配は、次回に持ち越しとなりそうだ。
それよりも。
一体、この充実感はなんなのか。
戦国記事をあえて封印していたのだが。
数えれば、いやはや3年ぶりの戦国記事となった。
このご無沙汰感は、言葉で言い表せず。
気付けば、頬を伝う一筋の雫。
そう、あえてこれを言葉にするなら……。
胸アツ。
結局、我が記事の執筆が一番の胸アツというオチなのであった。
参考文献
『現代語訳徳川実紀 家康公伝4』 大石学ら編 株式会社吉川弘文館 2011年10月
『名将言行録』 岡谷繁実著 講談社 2019年8月