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2024.12.06

殿の首を受け取り拒否!? 戦国武将・龍造寺隆信の壮絶な最期…からの数奇な運命

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見晴らしのよい道だ。

細い道だが遮るものがなく、遠くまで見通せる。
島原鉄道の線路を渡ると、左手にこんもりと茂った木々が見えてきた。恐らく目的地の神社だろう。そこまで高くはないが、低めの枝が四方八方に伸びている。
再び視線を前に戻すと、真っ直ぐ続く道は行き止まり。
その先には、海が広がっていた。穏やかな海。有明海だ。

晴天だったせいか、ヤシの木と海をバックに南国ムードすら漂っていた。目の前の景色は、まさに平和そのもの。
だから、少しばかり拍子抜けした。

一体、誰が想像できるだろう。
440年前、ここがぬかるんだ湿地帯だったということを。
そして、この地で九州の勢力図が大きく変わる戦があったということを。

長崎県島原市の「沖田畷(おきたなわて)古戦場」付近

天正12(1584)年の「沖田畷(おきたなわて)の戦い」。
「畷(なわて)」とは田んぼの畦道(あぜみち)のこと。当時、この付近は見通しが悪く、畦道を外れると胸まで沈むほどの湿田が広がっていたという。そんな悪路で両軍が大激突したというから、結果は散々。当然ながら、かなりの死傷者が出た。

そのうちの1人。壮絶な最期を遂げた男がいる。
生前は「肥前の熊」と呼ばれ、色んな意味で「ちょい悪」なイメージを持つ戦国武将。
「龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)」である。

じつは、歴史を紐解けば、敵に首を討ち取られた大物の戦国武将は意外と少ない。
代表格は、織田信長勢に討ち取られた「今川義元」。そして次に挙がるのが、この「龍造寺隆信」なのだとか。
ただ、そんな壮絶な最期を遂げたにもかかわらず。残念ながら、彼の試練はこれだけでは終わらなかった。死後に、本人さえも二度見するような驚愕の出来事が待ち受けていたのである。

ちなみに、ヒントは今回の一連の取材にある。
じつに長崎県から出発した取材だったが、結果的には複数の県をまたぐことに。その理由こそ、彼の身に起きた苦難を表しているといっていいだろう。

一体、龍造寺隆信に何があったのか。
それでは、現地を歩きながら、その壮絶な最期を辿っていこう。

※冒頭の画像は「二本木神社」内の「沖田畷の戦いの戦死者の供養塔」です
※本記事の「二本木神社(長崎県)」「願行寺(熊本県)」「高伝寺(高傳寺、佐賀県)」に関する写真は、それぞれ承諾を得て撮影しています
※本記事は「龍造寺隆信」「鍋島直茂」の表記で統一しています

「謀略」に満ちた龍造寺隆信の半生

まずは、冒頭でご紹介した神社から。
その名も「二本木神社」。
長崎県島原半島の東側にあり、海岸線近くのJR島原駅からは歩いて20分弱の距離となる。

楠戸義昭著『戦国武将 お墓でわかる意外な真実』によると、以前からこの地域では、村の人たちが龍造寺隆信を「二本木様」としてお祀りしていたとか。
ただ実際に、神社として創建されたのは大正4(1915)年である。先祖が龍造寺家の家臣であったことから、沖田畷古戦場の真っただ中のコチラの土地を購入し、龍造寺隆信を御祭神としてお祀りしたという。

そんな境内の裏手にあるのが、冒頭でご紹介した大きな供養塔だ。
刻まれているのは「南無妙法蓮華経」の文字。以前は近くの国道沿いの場所にあったが、どうやら移設されたようだ。コチラの供養塔は龍造寺隆信本人というよりは、沖田畷の戦いで戦死した多くの龍造寺軍の兵らを慰霊するためのものだとか。周りを小さな石の祠、石仏などがぐるりと囲む。様々な時代に、付近の住民らによって造られ、祀られ、何度も供養された。他にも長崎県島原市には石碑や供養塔が幾つかある。それほど大きな戦い、そして壮絶な戦いだったということが分かる。

長崎県島原市にある「二本木神社」/説明版/供養塔

さて、いきなり死後の話から始まったが。
そもそも龍造寺隆信とは、一体、どのような戦国武将だったのか。

正直、彼に関しては、何から説明すればよいのやらと迷うところである。最近、江戸時代ばかり書いているからか、とにかく戦が多くてややこしい。
ただ、これは彼に限ったコトではない。龍造寺隆信が水ヶ江(佐賀県)に生まれたのは享禄2(1529)年。あの織田信長よりも5年ほど早いのだ。未だ誰も全国統一を成し遂げていない、戦国時代の真っただ中。下剋上は当たり前。誰もが天下人を夢見て、各地で戦が繰り広げられていた時代なのである。

隆信が生まれた龍造寺家は、本流「村中」と支流「水ヶ江」があり、父は水ヶ江家の周家(ちかいえ)、母は本家の慶誾(けいぎん)。
幼少期に出家したが、謀略により父を含め龍造寺一門の武将が戦死(諸説あり)したことから、天文15(1546)年に還俗(げんぞく、出家者が再び俗家にかえること)。その2年後には本家の龍造寺家を継ぎ、さらに天文19(1550)年には、中国地方、九州地方の一部を掌握していた「大内義隆」から「隆」の字を与えられ、「龍造寺隆信」と名乗っている。

その後、肥前東部(佐賀県)のみならず、肥前西部(長崎県)へ侵攻を開始するなど、急速に勢力を拡大。一族を次々と各地の国衆の養子に入れ、幾度も大友氏と対立しながら確実に下剋上の世をのし上がっていく。こうして30年もの間、毎年というほど戦を続け、龍造寺隆信は「大友氏」「島津氏」と共に、九州の勢力図を書き換えていったのである。

だが、それも天正12(1584)年の「沖田畷の戦い」までの話。
この戦いを最後に「龍造寺」の名は表舞台から消えていく。

「龍造寺隆信(絵葉書)」 出典:佐賀県立図書館データベース

それにしても、様々な書籍を参考にしたが、龍造寺隆信の評判はすこぶるよろしくない。
龍造寺家の内紛、主家や家臣、離反した戦国武将らとの対立の多さ。争いゴトに関しては挙げればキリがないし、また謀殺もなんのそのというダーティーさには閉口する。

例えば、若かりし頃の隆信は、大友氏と内通した家臣らの企てにより、一時、水ヶ江城(佐賀県)を追われたことがある。もちろん2年後には奪還に成功するのだが、逃げ延びた際に柳河(柳川)城主の蒲池鑑盛(かまちあきもり)を頼り難を逃れた。そんな恩義ある蒲池氏に対して、のちに隆信はその嫡子の蒲池鎮漣(しげなみ)を宴席に誘い出し謀殺。自分の窮地を救った蒲池氏、それも自分の娘を嫁がせた相手だったがお構いなし。

一事が万事とは言い切れないが。
どうにも隆信は、離反した者、裏切者に対して非常にセンシティブだったようだ。やたらと厳しく、一切の寛容さも持ち合わせていない。じつは謀殺された蒲池氏も、龍造寺より大友氏に帰順したというのが理由だった。それも蒲池鎮漣と同時に一族もろとも滅ぼすという非情さを見せつけ、周囲を驚かせたのである。

大局的にみれば、その姿勢が彼の命取りになったといえるだろう。
蒲池氏を見て明日は我が身と恐れた者、嫌気がさした者も少なからずいたはずだ。じつに隆信が命を落とす「沖田畷の戦い」の相手も、龍造寺側から離反した有馬氏であった。有馬氏は常々、龍造寺氏の脅威にさらされ服属せざるを得なかったが、薩摩(鹿児島県)から北上し絶賛勢力拡大中の島津氏へと鞍替え。ちなみに有馬氏は、龍造寺隆信の嫡男政家(まさいえ)の嫁の実家。そんな関係であっても、隆信は離反したコトを見逃すことができなかったようだ。

有馬晴信は島津氏に救援を要請。少し時間を要したが、ついに島津軍が熊本方面より渡海して島原半島に到着。これを知った56歳の龍造寺隆信は、自ら出兵を決意したという。島津と有馬の両軍を併せても総勢1万未満。これに対し、龍造寺軍は2万5千~6万(諸説あり)といわれ、兵力差は相当なものであった。

だが、ふたを開ければ。
まさかの龍造寺軍は大敗。
同年3月24日、龍造寺隆信は討ち死にしたのである。

二本木神社から島津勢の本陣跡へ

先ほどの「二本木神社」から2.5㎞ほど離れた場所にあるのが「島津家久(いえひさ)本陣跡」。
早速カメラマンと移動するも、Googleマップに導かれて辿り着いたのは、とある小道。その斜め上に鬱蒼と茂った木々が見えるのだが、いかんせん入口が分からない。周辺を探索したが、結局、私有地に阻まれて到着できず。近所の人に聞けば、上には墓地があるという。小高い丘となっており、周囲を見渡すのは絶好の場所のようだ。

それにしても、たいてい440年も経過すればその様変わりに驚くものだが。なにぶん、都会ではない。さすがに周辺は住宅街となっていたが、件の本陣跡は一切手が加えられていないのではと疑うほどの現況であった。

長崎県島原市の「島津家久本陣跡」付近

さて、本陣跡の名前にも出てきたが。
有馬氏の救援で「沖田畷の戦い」に出陣したのは、島津家四兄弟の末っ子。島津家久(いえひさ)である。16代当主の島津義久はというと、有明海を挟んで肥後(熊本)南部の佐敷(さしき、熊本県芦北町)にいた。

島津氏は元々薩摩(鹿児島県)を本拠としていたが、破竹の勢いで北上。日向(宮崎県)に侵攻し大友氏と激突するも、天正6(1578)年の「耳川の戦い」で大友氏は大敗。続いて肥後(熊本県)では、天正9(1581)年頃より龍造寺氏との対立が表面化。天正11(1583)年10月には和議が成立し、肥後の玉名郡の高瀬川を境界にして、龍造寺氏と島津氏がそれぞれ半国を領することとなった。

そんな経緯もあった両氏が、今度は島原半島で激突。出陣した島津家久は有馬氏からの救援要請に応じた形だが、目的は島原浜の城の攻略だったようだ。一方、龍造寺隆信は軍勢を率いて自ら出陣。島津家久らは、兵力の差もあって島津義久へ援軍を要請するも間に合わず。天正12(1584)年3月24日に沖田畷の戦いが始まったのである。

龍造寺軍は三手に分かれての攻撃。
鍋島直茂らは山の手から、隆信の次男らは浜の手から。そして主力軍は、隆信自ら率いて中央より進軍。湿田を貫く中道を真っ直ぐ突き進む。

一方の有馬、島津連合軍はというと。
こちらも三手に分かれて応戦。特に、中道には大城戸(大門)を設置し、周囲には龍造寺軍を待ち受ける伏兵を忍ばせていた。先鋒は、龍造寺隆信に人質の16歳の息子と8歳の娘を処刑された肥後の赤星統家(のぶいえ)。恨み忘れず決死の覚悟をもって赤装束で参戦したという。

沖田畷の戦いの布陣 中村郁一著『鍋島直茂公 : 三百年記念』出典:国立国会図書館デジタルコレクション

午前8時(10時とも)頃より始まった戦いは、当初、龍造寺側が順調そうに見えた。
だが、先陣が中道を進軍しいよいよ大城戸に迫る、そんなところで戦況が大きく動く。突然、雨のように弓や鉄砲が降りそそぎ、さらに大城戸が開いて赤星ら先鋒が攻めかかってきたのである。まさかの周囲からの攻撃に色めき立つ龍造寺軍。その気迫に押され、次第に龍造寺軍の先陣は崩れ始めていく。

この戦い、一言で表すならば。
とかく場所が悪かった。もう、これに尽きるだろう。
もちろん、兵力差もあって隆信自身が油断していたことも敗因の1つ。だが、やはり有馬、島津連合軍に誘い込まれたこの場所が痛かった。横にも展開できず、先陣が討たれても前進して助けることもできない。ましてや中道の左右が湿田というのがミソ。足を踏み入れることこそが自殺行為となるのである。

ただ、龍造寺隆信には、この状況が掴めていなかった。
一向に先に進めない状況に苛立ち、先陣が今どのような状況なのか把握できなかったというのである。そこで、馬廻りの者に先陣の様子を探りに行かせたのだが。これまた裏目に出る。ただ様子を確認すればよかった馬廻りの者が、あたかも龍造寺隆信が命じたように、命を惜しまずに先に進めと告げて回ったのである。

これに憤慨したのは、龍造寺軍の先陣の武将たち。
命を惜しまずとはなんたる侮辱。そんな怒りから冷静な判断ができず、あろうことか、まさかの湿田へ。中道の左右へと展開し、ムリに前進しようとしたのである。だが、そこは鬼も嘆く湿田だった。もがけばもがくほどずぶずぶと沈み込み、最後は身動きが取れず。そこを有馬、島津連合軍に討ち取られ、もはや地獄絵図の有様となったのである。

その頃、龍造寺隆信はというと。
小高い丘へと移動。山駕籠から降りて床几(しょうぎ)に腰掛け、次第に不利となる戦況を見守っていた。次々と討ち死にする龍造寺軍。隆信は目の前の光景に何を思っただろう。もしかすると、己のこれまでの所業が脳裏をかすめたかもしれない。

「隆信公御肖像(公御生存中模寫)」 出典:佐賀県立図書館データベース

だが、じつにそんな隆信の元にも島津勢の伏兵が。
龍造寺軍に混じって間近に迫っていたのである(諸説あり)。気付いた時には既に手遅れの状況だった。この時点で龍造寺隆信は己の行く末を悟ったに違いない。そばで仕えていたのは、まだ若き小姓の16歳の新九郎。意外にも、隆信は自分の元から離れて早く落ち延びよと小姓に命じている。

これに対して、新九郎はというと。
その様子が『北肥戦誌』に見てとれる。

「新九郎打笑ひ、……兼ねての御恩報には、せめて御目の前にて討死仕るを御覧候へと申捨て、群りたる敵中に主従六人駆入りて、十四五人切伏せ、其身もそこにて討たれにけり。生年十六才なり」
(肥前史談会編「肥前叢書 第2輯」より一部抜粋)

選択したのは、隆信の目の前での討ち死に。
近習らが討ち取られていくなか、隆信は、もはやここまでと覚悟を決める。
躍り出たのは、島津軍の河上(川上)左京亮(さきょうのすけ)である。

「隆信は近習の者共が斯様に皆討死しけるを見られ、今は早是までなりと、大高音を出して其名を名乗られ、終に敵に總角を見せられず、潔く討死せらる。薩州の侍大将河上左京亮進んで、隆信の首を給はりぬ」
(同上より一部抜粋)

あれほどの戦を経験した猛者も、その最期はあっけなかった。
同年3月24日午後2時頃のこと。
自ら大声でその名を名乗り、潔く討ち死にした(諸説あり)。享年56歳。

こうして、龍造寺隆信の首は島津軍の本陣へと運ばれていくのである。

受け取り拒否された「首」の行方

さて、ここからは雰囲気をガラリと変えて。
新名一仁編『現代語訳 上井覚兼日記2』を参考に、島津側からの「沖田畷の戦い」のその後をご紹介しよう。

日記を記した「上井覚兼(うわいかくけん)」は、島津家16代当主、島津義久の老中だ。
「沖田畷の戦い」の際には義久と共に肥後(熊本県)の南部、佐敷にいた。そこで、島原の戦況のみならず各地の状況報告を受け、日記に記していたようだ。

目に留まったのは同年3月24日の記述。

今朝、隈本からの使者が言うには、「龍造寺隆信が肥後方面での軍事行動のため出陣したところ、肥前の畠地二、三反程度に、蛇の死体が多数あった。これは妖怪であるとのことで出陣を取りやめたと」とのこと。
(新名一仁編「現代語訳 上井覚兼日記2」より一部抜粋)

なんなんだ。
気になる、純粋に気になる。
2、3反の土地に蛇の死骸。いやいや、そりゃ尋常ではないわな。というか、そもそも3月24日は既に「沖田畷の戦い」が始まり、終わった日ではないか。ガセ情報というよりは、残念ながらタイムラグが生じているのだろう。

そして、その翌日。

昨日二十四日、肥前衆(龍造寺勢)が有馬御陣(島原の島津勢)に攻めかかってきたところ、一戦を遂げ、龍造寺隆信をはじめ数千騎を討ち取り、大勝利したとのこと。
(同上より一部抜粋)

あれほどの戦いにもかかわらず、報告はえらくあっさりしたものである。
まあ「取り急ぎ」といった形なのだろう。それにしても、兵力差もありながらよくぞ勝利したものである。

そして、26日には施餓鬼(せがき)の相談。ちなみに、施餓鬼とは敵味方双方の戦死者供養のことである。また同日に龍造寺隆信の首が有馬から届いたという。
27日には隆信の首実検(首の主を大将が検分すること)が島津義久により行われた。

龍造寺隆信の首実検を行い、首を合木に掛けた。義久様は床几に座り、しばらく合掌して観念しておられた。その後、合木近くに立ち寄られ、静かに首をご覧になっていた。忠平公・歳久公……そのほか諸将は蹲踞していた。
(同上より一部抜粋)

観念とは、仏教の瞑想のことだとか。隆信の成仏を祈っていたのだろう。それにしても、島津義久以外は、蹲踞(両膝を折ってうずくまり、頭を垂れるような姿勢)していたとは。これが作法だったようだ。

首実検のイメージ図 / 月岡芳年「真柴久吉武智主従之首実検之図」 東京都立中央図書館所蔵 出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)

こうして首実検も無事に終わり、隆信の首は丁重に龍造寺側へと返される……。
……はずだった。
だが、ここで予想もしなかったコトが起きてしまう。
なんと、龍造寺側が隆信の首の受け取りを拒否したというのである。

えっ?
えええっ?
そもそもの話。
そんなAmazonの注文キャンセル時の受け取り拒否みたいな、ウルトラCの対応って、現実的にできるのか。

ちなみに、隆信の首の受け取りを拒否した者については諸説ある。母親の慶誾とも、義弟でのちに龍造寺家を引き継ぐ鍋島直茂とも。
ただ、それよりも強烈なのは拒否の理由である。ちなみにこれも諸説あるが、そのうちの1つをご紹介しよう。
島津側の使者が、隆信の首を伴って筑後榎津(福岡県大川市)に到着したところ。龍造寺側の使者から鍋島直茂の返答が伝えられた。『直茂公譜』によれば「不運の首、此方へ申し請けても無益な事なり」との内容だったとか。

不運の首って。それも無益って。どうなのさ。
まあ、確かに。隆信自ら出陣の際には、鍋島直茂はめちゃめちゃ止めたもんな。

これに関して、江戸時代中期の武士道書である「葉隠(はがくれ)」は、このように解釈する。

鍋島直茂が隆信の首級を薩摩島津家に送り返したのは隆信亡き後の強味を示し、他日潔く堂々と決戦の上肥前の槍先を以って受け取らうといふ趣意であったのである
(内田鉄洲著「葉隠の精神 : 日本の将来に断案を下す」より一部抜粋)

つまり、龍造寺側の状況を確認しに来た島津氏に対して、鍋島直茂は強い意志を示したとの解釈だ。「かつての主君の弔い合戦もせずに受け取ることなどできぬ」との意味合いが込められているというのである。

いやいや。待って待って。
意思の表明はどんな形でやってくれてもいいけどさ。
まずはさっさと受け取ってからやってくれい。私が隆信なら、そう願うだろう。

それにしても気になるのは、受け取り拒否された首の方である。
じつは熊本県玉名市の願行寺(がんぎょうじ)には、なぜか龍造寺隆信の首塚がある。

実際に訪れたが、寺自体は小さいながらも、手水鉢(ちょうずばち、手を洗う水をためておく鉢)には見事な苔が生えており、気持ちの良い寺であった。
だが、本堂裏にある首塚は少しうら寂しい雰囲気だ。
なぜ、この場所に首塚が建てられたのか。これには理由があるのだ。

熊本県玉名市にある「願行寺」/説明版/首塚

ここから先はなんともホラー話というしかない。
龍造寺側からまさかの受け取り拒否権を行使され、一番困惑したのは言うまでもなく島津氏の使者である。隆信の首を持って帰るほかはないと帰途につくも、その道中で異変が。熊本県玉名市を流れる高瀬川に差し掛かった辺りで、運んでいた隆信の首が急に重くなったというのである。遂には耐えられないほどの重さとなり、一切動くこともできず。こうして、使者は高瀬川を越えることができなくなったとか。

ちなみに、玉名市高瀬川といえば、以前に龍造寺氏と島津氏で取り決めた領地の境界線だ。つまり、隆信は島津側の領地に入るのを拒んだことになる。島津氏の使者はこの奇怪な現象にどうすることもできず、高瀬にあった時宗の願行寺の僧を頼ったという。こうして、結果的に首だけが願行寺に埋葬されたのである。

えっ?
首だけ?

そう、首だけなのである。
では、胴体はどうなったのか。
これがまたややこしい。楠戸義昭著『戦国武将 お墓でわかる意外な真実』によると、まず戦場に残された遺体を収容したのは、佐賀県にある龍泰寺(りゅうたいじ)の僧。その後、和銅寺(長崎県諫早市)で荼毘に付され、遺骨は龍泰寺に持って帰って埋葬されたという。

これで落ち着いたかと思いきや。
天正16(1588)年。今度は、鍋島直茂が隆信のために佐賀城の鬼門に宗龍寺(そうりゅうじ)を建立。そのタイミングで、隆信の墓をこの宗龍寺に移動させている。

ふむふむ。
つまり、隆信の首は熊本県、胴体は佐賀県と、依然、離れ離れなのである。

そして、ようやく。
佐賀藩最後の藩主、鍋島直大(なおひろ)のご登場だ。
明治維新後は新政府の要職に就き、国会開設後は貴族院議員にもなっている。彼は、廃仏毀釈(神仏分離令などで起こった仏教の抑圧・排斥運動)の折に、代々の鍋島家の菩提寺である高伝寺(高傳寺、佐賀県)の整備に着手。その際にこれまでの歴史を振り返り、龍造寺家の主な墓も併せてこの寺で保護しようと考えた。そこで、龍造寺隆信についても、願行寺にあった首をもらい受け、宗龍寺にある胴体を移したのである。道理で願行寺の首塚が寂しいと思ったら、とうに首は埋められていなかったということかと納得した。

コチラの高伝寺。
さすが佐賀藩鍋島家の菩提寺だけあって、境内の奥にあるのは見事としか言いようのない鍋島家(併せて龍造寺家)墓所。ズラリと立ち並ぶお墓には圧倒される。そんな荘厳な雰囲気のなか、龍造寺隆信公のお墓を発見。

佐賀藩鍋島家の菩提寺である高伝寺(高傳寺、佐賀県)の境内奥にある鍋島家と龍造寺家の墓所/身体が揃って埋葬された龍造寺隆信公の墓(3枚)

こうして、首、胴体共に。隆信はめでたく佐賀県へと帰り着いたというワケなのだ。
お墓の前で静かに合掌した。

それにしても、長い旅路だった。
スタートは長崎県の島原。
熊本県、そして最終的には佐賀県へ。

これこそ、隆信の首が辿ったルートである。
実際に移動してみると、その苦労をリアルに体感。まさに「遠い」の一言である。
その上、身体が1つになったのは290年弱の時間を経てのこと。
隆信からすれば、あまりにも長かったといえるだろう。

九州で勢力を拡大し、大きな野望を持った龍造寺隆信。
だが、島津氏との戦いであえなく散りゆく。
そんな島津氏も、九州統一を目前に豊臣秀吉に降伏。

争いに明け暮れた時代は、やがて終わりを告げるのである。

最後に

龍造寺隆信の最期には諸説ある。
そのうちの1つが「辞世の句」を残したかどうか。

『肥陽軍記』などには、隆信が残した辞世の句が記されている。
その内容を、楠戸義昭著『戦国武将 お墓でわかる意外な真実』よりご紹介しよう。

『肥陽軍記』は隆信が鎧の上に袈裟を掛けているのを見て、左京亮が「如何なるか、これ剣刃上の一句」と、太守に敬意を表して辞世を求めた。隆信は「紅炉上一点の雪」と応じると、即座に三拝して、静かに首を左京亮に取られた。
(楠戸義昭著『戦国武将 お墓でわかる意外な真実』より一部抜粋)

ちなみに、「紅炉上一点の雪」とは、仏教書の「碧巌録(へきがんろく)」にある言葉だとか。熱い炉に舞い落ちる雪が一瞬で消えるように、私欲や迷いや疑いが一切なくなるという意味合いだ。

実際に、辞世の句があったかどうかは分からない。
恐らくだが、個人的にはそんな余裕などなかったようにも思う。大将が討ち取られるのだ。混戦模様は必死。悠長に一問一答など敵方と交わすことなど不可能とも思えてしまう。

ただ、選べるとしたら。
「紅炉上一点の雪」という句を残して、龍造寺隆信が死を迎えたと思いたい。

生への執着も、死への恐怖も何もない。
無の境地。
どうか、そんな最期であってほしい。

写真撮影:大村健太

参考文献
中村郁一著 「鍋島直茂公 : 三百年記念」 葉隠記念出版会 1917年
内田鉄洲著「葉隠の精神 : 日本の将来に断案を下す」 指南社 1937年
肥前史談会編 「肥前叢書 第2輯」 肥前史談会 1939年
楠戸義昭著 『戦国武将 お墓でわかる意外な真実』 株式会社PHP研究所 2017年12月
川副義敦著 「戦国の肥前と龍造寺隆信」 宮帯出版社 2018年1月
新名一仁編「現代語訳 上井覚兼日記2」  ムヒカ出版 2021年11月
新名一仁編 「戦国武将列伝11 九州編」 戎光祥出版 2023年7月