今回は趣向を凝らして、いきなりのクイズから。
伊達政宗、宮本武蔵、シーボルト、伊能忠敬。
じつは彼らには1つの共通点がある。
さて、何かお分かりだろうか。
簡単に彼らの経歴を説明すると。
順に、奥州の戦国大名で仙台藩の初代藩主、江戸時代初期の剣豪、オランダ商館の医師として来日したドイツ人、江戸時代後期の測量家で地理学者である。時代も国籍も異なる方々に、果たして共通点などあるのだろうか。
いやあ、こう言っちゃなんだが。
出題している側からしても無茶ぶりな問いかけだと思う。そう簡単には分からないだろう。うん。分かるはずもない。というか、仮に分かったとすれば、それはそれでよほどマニアックな御仁であろう。
もしくは……。
彼らと同じ共通点を持っているのかもしれない。
と、少々煽り気味に書き連ねたが、ささっと答えを発表しよう。
彼らの共通点。
それは、佐賀県西部にある「武雄(たけお)温泉」に入浴したというコト。
活躍した時代に若干のズレがあるため、さすがに背中を流し合った……とまではいかなかっただろう。
さて、前置きがすっかり長くなってしまったが。
今回ご紹介するのは、コチラの武雄温泉。と思いきや、それにまつわる「掟(おきて)」の話である。
じつに、今から430年ほど前、この武雄温泉に入るには、ある「掟」を守る必要があった。
もちろん、定めたのはあのお方。
私の記事ではダントツに登場回数の多い「豊臣秀吉」である。
それにしても、なぜ、秀吉はわざわざ武雄温泉に関する「掟」を定めたのか。
そして、一体、どのような内容だったのか。
ということで、いつものことながら。
早速、武雄温泉へと向かったのである。
白鷺も舞い降りた魅惑の武雄温泉
まずは「掟」云々よりも、その対象となった「武雄温泉」の話から始めよう。
JR九州「武雄温泉」駅から歩いて13分ほどの距離にあるのが、件の温泉だ。目印は竜宮城と称される「武雄温泉楼門」。楼門をくぐり抜けると温泉施設の看板がお目見えし、大衆浴場から立ち寄り湯、貸し切り湯など様々なスタイルの入浴が紹介されている。泉質は弱アルカリ単純泉で、九州でも人気の温泉地の1つである。
その歴史はかなり古い。
武雄温泉が初めて文献に登場するのは、奈良時代に編纂された「肥前国風土記(ひぜんこくふどき)」。佐賀県南西部に位置する杵島郡(きしまぐん)の項目の中に武雄温泉らしき記述が確認できる。
杵島郡
郡西有湯泉出之巖。岸峻極人跡罕及也。
(肥前史談会編「肥前叢書 第1輯 (肥前風土記)」より一部抜粋)
杵島郡の西にある岩山の谷間に温泉が湧き出ている。岸壁が険しく人が立ち入ることは稀であるとのこと。現在では想像もできないが、当時、この周辺はどうやら人も近付けないほどの岩山だったようだ。武雄温泉はその谷間にあり、容易に行くことができなかったというのである。
そんな谷間の温泉を発見するのに一役買ったのが、白鷺(しろさぎ)だ。
逸話では、なかなか人が近付かない岩山に、いつも白鷺が舞い降りていたという。何があるのかと見に行けば、白鷺が脛の傷を癒していたとか。これが武雄温泉の発見に繋がったと伝えられている(諸説あり)。そのため、武雄温泉近くには白鷺が由来の「鷺田神社」がある。
ほほう。まさかの白鷺も利用していたとは。
いわゆる「湯治」だろう。
ちなみに江戸時代に流行った全国の温泉番付にも、武雄温泉は堂々のランクイン。湯治の場として全国的に有名だったようだ。
その内容を簡単にご紹介しよう。
番付の名は「諸国温泉効能鑑(かがみ)」である。
番付の東西は、地理上での東西と対応している。
熊野(和歌山)の「本宮の湯」は番付の権威付けとして「勧進元(主催者)」に、将軍御用達の「熱海の湯」などは「行司(勝負を判定する立場)」で収まったようだ。
上から確認していくと。
東の大関は「草津ノ湯」、西の大関は「有馬ノ湯」。以下、全国の名だたる温泉がズラリと並んでいる。今も昔も人気の温泉地は同じというコトか。
それにしても、番付の内容が非常に親切で驚いた。
まさしくタイトルそのままに、それぞれの温泉の効能と、ご丁寧にも江戸からの距離が列挙されている。もはや現在の温泉ガイド並みの情報量に舌を巻く。これを見れば、確かに近くの温泉へと出かけてみたくなるのも納得だ。
さて、肝心の武雄温泉はどこなのか。
拡大しながら探すこと5分。西の前頭19番目に「武雄温泉」ではなく「肥前竹尾湯」という名称でランクイン。ちなみに、距離と効能は「三百り ふ人吉」とのこと。つまり、江戸から300里(1200㎞弱)の距離で、ご婦人方に効き目ありという意味合いだ。
そりゃ、行くわな。
ご婦人ではないが、伊達政宗も宮本武蔵も。
遠くであっても、みんなみんな、行くわな。
そうして、人が殺到した結果。
案の定、困ったことが起きたのである。
秀吉を困らせた温泉事情
正確には、困ったことが起きたのは江戸時代ではない。
江戸時代よりも少し前、ちょうど豊臣秀吉が天下人だった頃に、とある理由で武雄温泉に人が殺到したのである。
多くの人で賑わい、活気があるのはいいコトだ。
ただ、利用客が多くなれば、もちろんトラブル発生の可能性も高くなる。
そこで、どうしたか。
取り締まりの意味を込めて、豊臣秀吉が「掟書(おきてがき)」を出したのである。
その名も「豊臣秀吉塚崎温泉掟書」(武雄鍋島家資料 武雄市蔵)。
ちなみに、塚崎温泉とは、現在の武雄温泉のことである。
じつは、その原本が今なお存在しているという。
武雄鍋島家に残されていた3000点を超える古文書の1つに、この「豊臣秀吉塚崎温泉掟書」が含まれていたのである。現在は武雄市重要文化財に指定され、武雄市歴史資料館で保管されている。通常は一般公開されていないが、今回のように企画展に際して公開となる場合があるのだとか。
それでは、ご紹介しよう。
コチラが「豊臣秀吉塚崎温泉掟書」(武雄鍋島家資料 武雄市蔵)である。
それにしても、保存状態が良かったのか、400年以上経過しているとは思えない。表現が妥当かはさておき、とても生々しい。何度も確認したが、レプリカではなくホンモノ。まさしく「原本」だという。
武雄市歴史資料館の学芸員の方の話だと、当時の武雄温泉の状況が分かる資料はあまり残されておらず、掟書についてはこれ以上分かることがないという。実際に武雄温泉でどのようなトラブルがあったかなども不明とのこと。
となれば、この掟書から推測するほかはない。
文書の日付は天正20(1592)年6月18日。
達筆過ぎて、ほぼ読めないが。
内容は以下の通りである。
定條々
一 湯治の上下、地下人に対し非文の儀申し懸け、猥りの族これあるに於ては曲事たるべき事
一 湯入の輩宿賃人別五文宛毎日出すべきの事
一 薪柴等これを取るべし、屋敷廻り其外御用木は一切これをきるべからざる事
一 右条々、若し違犯の輩これあるに於ては地下人として相拘え注進すべし 速やかに御成敗を加えられるものなり
(武雄市史編纂委員会編「武雄市史 上巻」より一部抜粋)
内容から察するに、掟は3ヵ条のようだ。
この3ヵ条に違反した場合は、処罰するとのこと。
それでは、1条ずつ訳しながら想像を膨らませよう。
一、湯治の客は地元の者に対して難題を申しつけてはならない。
一、客は一人につき、5文の宿銭を支払うこと。
一、薪柴は必要だが、屋敷廻り、その他、指定地内の樹木を伐採してはならない。
えええっ。
つまり、これって。
地元の人に無理難題を言い、銭も払わず、そこら辺の木を切って薪にする奴がいるってコト?
ここで、1つの疑問が浮かびあがる。
どうして、豊臣秀吉は「武雄温泉」に狙い撃ちして、この掟書を出したのか。
よく分からんが、そもそも武雄温泉にはそういう迷惑な客が多かったというコトか。
それとも、何か事情があるのか。
この謎を解くカギとなるのが、日付と場所である。
日付は、天正20(1592)年6月18日。天正20年とは、文禄元年のこと。
武雄温泉は佐賀県西部にある。そして佐賀県北西部の唐津市には「名護屋(なごや)」という地名がある。
「文禄」と「名護屋」。
「豊臣秀吉塚崎温泉掟書」の背景。
そこには、豊臣秀吉の朝鮮出兵という大事業があったのだ。
陣中つれづれなるままに入浴した大名とは?
「朝鮮出兵」とは、文禄元(1592)年と慶長2(1597)年の2度にわたって行われた朝鮮国に対する侵略戦争である。元号の名前から「文禄・慶長の役」ともいう。慶長3(1598)年8月に秀吉が死去したことで戦争は終結。途中で休戦と講和交渉を挟みつつも、結果的に6年にも及ぶ長期の戦争となった。
それにしても、である。
天正18(1590)年の小田原征伐を最後に、亡き主君も果たせなかった天下統一を成し遂げた豊臣秀吉。これでようやく平和な世が来るかと思えば。まさかの「国外」という斜め上の展開に、さぞかし当時の人たちも驚いたことだろう。じつに秀吉の野望は、規格外だったのである。
天正20(1592)年3月。
秀吉は、天下統一前よりこの「唐入り(朝鮮出兵のこと)」の準備を着々と進めていた。同年3月に大行列を率いて京都を出発。向かった先は、朝鮮出兵の拠点となる肥前名護屋(佐賀県唐津市)である。
じつは、肥前名護屋での築城は、天正19(1591)年より開始されていた。諸大名らに分担させ、数ヶ月で完成したとも。城の面積は約17ヘクタールと、当時は大坂城に次ぐ規模であったとか。
そんな名護屋城にはどれくらいの人が集まったのか。
佐賀県立名護屋城博物館のサイトによると、名護屋城にはおよそ160もの大名が集結したとのこと。なんとも、国内の合戦とはスケールが違う。周囲には丘陵を利用して諸大名の陣屋が構築され、全国から延べ20万人超の人員がこの名護屋に集ったとも。もちろん、秀吉自身も1年余り在陣している。
秀吉の命令で名護屋に集った将兵たち。
全盛期には在陣軍勢は10万超えだというから、そのスケールには圧倒される。
そんな彼らが出兵の合間、もしくは出兵の疲れを癒すため、近くの温泉に出かけたとするならば。
そして、訪れた先が、同じ佐賀県にあって湯治として有名な武雄温泉(当時は塚崎温泉)だったならば。
それは、もう。
想像しただけで、カオスだろう。
そうなると、先ほどの「豊臣秀吉塚崎温泉掟書」の内容も、また違った意味で現実味を帯びてくる。
「こっちは、命引き換えに戦ってるんだぜい」と無理難題を吹っかけられる。
あるいは
「そんなのタダ、タダで入らせてくれるんだろ?」とゴリ押しされる。
なんなら
「払えるものなら払ってるわい」と開き直られる。
ついでに
「木を切っといてやったぜい」と勝手に大事な木を切られる。
どれも私の勝手な妄想だが、突拍子もない内容とまでは言い切れないだろう。多くの将兵らが押しかけ、地元の人たちが大いに困惑する、そんな様子は想像難くないはずだ。トラブルの芽はそこら中にあっただろう。大きくなる前に摘んでおきたい。だからこそ、秀吉は「温泉掟書」を定めたのである。
だが、一方で。
武雄温泉を訪れたなかには、もちろん善行を施した方も。
最後に、そんなエピソードをご紹介しよう。
誰の話かというと。
冒頭でご登場の「伊達政宗」である。
ちなみに、彼自身も鷹狩りの際に「酒」について、爆笑必至の「掟書」を定めている。そういう意味では、秀吉と感性が似たり寄ったりなのかもしれない。
武雄市史編纂委員会編『武雄市史 下巻』によると。
政宗はある武将と連れ立って、武雄温泉に入浴。その後、桜山の方へと歩いたところ、火災に遭ったまま復興できずに放置された「広福寺(廣福寺)」を目にする。
どうしてそのままなのかと、そのワケを訊くと。
小僧は
「豊公朝鮮征伐のため、当時の仏像、法器などはもちろん、梵鐘までも撤廃されました。修理など思いもよりません」
と答えた。
二人は寺の衰微をその目で見、復興のできない理由をその耳できき、ほんとに気の毒に思った。そして、寺の復興の一部にとおのおの銭三貫文を喜捨した。
(武雄市史編纂委員会編「武雄市史 下巻」より一部抜粋)
さすがは、政宗。
見過ごすことなどできずに、手を差し伸べるところが、やはり彼らしい。
ただ、そんなほっこりエピソードを披露した政宗も、朝鮮出兵は免れず。
いずれ海を渡り、戦の中へと身を投じるのである。
最後に。
先ほどの伊達政宗の話だが、あれで終わりではない。
じつは、続きがある。
当時の広福寺の住職は、まさかの朝鮮に渡海中であったとか。領主の後藤家信について、彼も出征していたというのである。その後、無事に帰国。寺に帰り、政宗の善行を聞いて大層感激したという。
それだけではない。
このままではいかんと、一念発起。
住職自ら托鉢に出て、浄財を必死で集めた。さらには寄付などのお陰もあって。慶長2(1597)年、新たに仏殿を造営できたという。
1つの善意が、1つの行いに繋がり、それが見事に実ったという事例である。
多くの人たちが訪れた武雄温泉。
そう悪いことばかりではなかったようだ。
写真撮影:大村健太
参考文献
肥前史談会編 「肥前叢書 第1輯 (肥前風土記)」 肥前史談会 1937年
武雄市史編纂委員会編 「武雄市史 下巻」 武雄市 1973年
武雄市史編纂委員会編 「武雄市史 上巻」 国書刊行会 1981年
武雄市教育委員会編 「武雄鍋島文書目録」 武雄市教育委員会 1981年3月
基本情報
名称:武雄市歴史資料館
住所:佐賀県武雄市武雄町大字武雄5304番地1
公式webサイト:https://www.city.takeo.lg.jp/rekisi/