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2025.10.28

蔦重や葛飾北斎とコラボも! 知られざる尾張名古屋の本屋「永楽屋東四郎」

大河ドラマ『べらぼう』の放映により、横浜流星演じる蔦重こと蔦屋重三郎はじめ、彼と親しかった浮世絵師や狂歌師、戯作者といったクリエーターたちもフィーチャーされ、本屋や出版文化にも関心が高まっている。

江戸時代の商業出版は三都(江戸・大坂・京都)が中心だった。では、三都以外はどうだったのだろう。実は地方にも三都の大店(おおだな)に匹敵するほど実力のある本屋が存在した。その一つが尾張徳川家の城下町・名古屋にあった「永楽屋東四郎(えいらくや とうしろう)」である。店名を「東壁堂(とうへきどう)」といい、後には江戸・日本橋に出店を持つまでになった。葛飾北斎の『北斎漫画』や本居宣長の『古事記伝』は永楽屋から出版されている。また、名古屋には蔵書数日本一を誇ったとされる貸本屋「大野屋惣八(大惣 だいそう)」も存在した。

なぜ名古屋にこれほどの本屋や貸本屋が生まれたのか。今回は名古屋を例に、江戸時代の地方の出版文化について考えてみたい。

ナビゲーターをお願いしたのは名古屋市立博物館の学芸員・津田卓子(つだ たかこ)さんである。
※メイン画像は、名古屋市博物館旧常設展永楽屋店頭(復元) 名古屋市博物館提供

「名古屋市博物館」学芸員の津田卓子さん。研究テーマは永楽屋東四郎

清須越しによって生まれた尾張62万石の城下町

名古屋市は愛知県の県庁所在地であると同時に東海地方の文化、経済の中心地だ。だが、その歴史は比較的新しい。

江戸時代以前、尾張の中心地は長らく清須(きよす ※清洲と表記される場合もあるが、ここでは清須で統一する)にあった。清須は名古屋から8㎞ほど西にある。戦国時代には織田信長が拠点にしていたこともあったし、信長亡き後、後継者を決めるための清須会議が開かれた場所でもある。ところが水害が多発するなどの理由で、1610(慶長15)年、徳川家康は尾張に新たな城の築城を命じる。これが名古屋城だ。名古屋城の築城は西国諸大名を動員しての天下普請(てんかぶしん)という大掛かりなものであった。それに伴って街ぐるみの引っ越しが行われ、尾張の中心は清須から名古屋へと移っていく。これを「清須越し」という。

名古屋城内に開設された公開文庫

初代尾張藩主は徳川家康の九男・徳川義直である。義直は剣豪・柳生利厳(やぎゅう としよし)から剣術・槍術・長刀(なぎなた)術を受け継ぐなど武芸にも秀でていたが、文化の保護や継承にも大変熱心だった。父・家康から分与された本や自分で集めた3000冊の蔵書を元に、名古屋城内に御文庫(尾張藩文庫)を開設。「決して門外不出とすべからず」という義直の言葉に従って、御文庫は江戸時代から公開されていた。これが現在の蓬左文庫(ほうさぶんこ)の起源となっている。蓬左文庫は尾張徳川家の旧蔵書を中心に、優れた和漢の古典籍など約12万点を所蔵。貴重な歴史文化遺産の一つである。

名古屋の本屋の始まりは「風月堂孫助」?!

義直は家康の子どもであり、御三家筆頭であるという自負とともに、時に幕府と対峙する姿勢をとることもあった。それが江戸とも京都とも異なる尾張独自の気風を育んだのではないかと考えられる。

ところで、名古屋に本屋が誕生したのはいつ頃だろうか。

高力種信(こうりき たねのぶ)という人物が文化文政の頃に著したと思われる『尾張名陽図会(おわりめいようずえ)』には、「書林風月堂」と題した本屋の店先が描かれている。高力種信は武士で猿猴庵(えんこうあん)というペンネームを持ち、当時の名古屋城下の様子や出来事をいきいきと書き残した。名古屋市図書館が出している『発見 名古屋の偉人伝』では、「尾張藩士にしてアマチュアのジャーナリスト」として紹介されている。

『尾張名陽図会』によると、風月堂は「名古屋書林のはじめなり」とある。書林とは本屋のことだ。初代の風月堂孫助(ふうげつどう まごすけ)は京都の本屋・風月堂に奉公し、名古屋にまだ本屋がなかったので、この地で本屋を開いたという。本の奥付には貞享(じょうきょう)5(1688)年とあるが、諸説あるようだ。

津田さんは次のように語る。
「尾張名古屋の出版に関する詳細な資料は残念ながら地元にはほとんど残っておらず、三都に残る書林仲間の記録に散見される記事に頼らざるを得ません。それによれば商業出版としての尾州本屋の台頭は江戸時代前期末頃と考えられます。『風月堂』のように、尾州から京都の本屋に奉公に行ってから開業する人もあったようです。」

この絵は松尾芭蕉が風月堂に立ち寄り、しばらく品物を見た後に店を出ようとすると、雪が降ってきたので、発句を書いて風月堂の主人に与えたという場面を描いたもの。尾張は芭蕉とも縁が深く、俳諧の盛んな土地柄だった。高力種信 著并画 ほか『尾張名陽図会』巻之1,名古屋史談会,昭15. 国立国会図書館デジタルコレクション

三都に次いで本屋仲間が生まれた名古屋

蔦重の耕書堂がそうであったように、江戸時代の本屋は出版を行っていた。出版をせず小売りだけの店もあったが、本屋と同格には扱われなかった。本屋は本の販売店であると同時に出版社であり、文化の発信拠点だった。

商業出版としての本屋が最も早く生まれたまちは京都である。次に大坂。そして江戸と本屋の市場は拡大していく。江戸時代の本屋マーケットは三都の独占状態だったといっていい。それを可能にしたのが本屋仲間という組織である。本屋仲間とは本屋の同業者組合のようなものだ。大きく分けると、人文書や辞書、漢籍、歴史書、医学、自然科学といったお堅い内容の本を出版する本屋は書物問屋(しょもつどんや)、浮世絵や絵草子など、軽めのエンタメ系を発刊する本屋は地本問屋(じほんどんや)に属していた。しかし、両方に属している本屋も多かった。初期の蔦重は地本問屋に属していた。

本屋仲間には行事と呼ばれる役員がいて、仲間うちのもめごとや違反行為、あるいは板元(はんもと 出版に関する総合プロデューサー的存在)の権利を侵すような出版物の取締りを行っていた。行事は本屋仲間の中で絶大な権力を握っていたのである。本屋仲間に入らないと出版はできても流通網に乗せることは難しかった。つまり、売れないのである。

三都以外の本屋が出版する場合は必ず三都の本屋仲間を通さなければならなかったし、三都のいずれかの本屋との相合版(複数の版元が共同出版するために板木を分割して所有すること)にする必要があった。

本屋仲間は三都の本屋が自分たちの権利を守るためにつくったものであったが、その存在に目を付けたのが幕府である。当初は仲間の結成を禁じていたが、後に出版に関する命令を出す場合、本屋仲間の行事を呼んでコンプライアンスを徹底させた。同時にそれは本屋仲間の板株公認を意味した。板株とは現代の版権のようなもので、板元にとって最も大切なものだった。こうして本屋仲間は半ば公権力の下に置かれることになる。

享保6(1721)年に公認された江戸の本屋仲間47軒に対し、幕府は仲間うちの主だったものに『六諭衍義(りくゆえんぎ)』を刊行させた。同書は両親への孝行などを説いた道徳の本である。後に『六諭衍義』を仮名書きで優しく説いた『六諭衍義大意』を刊行させ、江戸中の寺子屋で教科書とするように命じ、諸国にも販売させたという。

津田さん「享保7(1722)年に出された出版取締りの条目を見ると、新規の異説に関するもの、好色本、諸家の先祖について書くことは一切NG。書物の奥付には必ず最後に作者の本名と出版社名を記すことが定められ、この様式は現代まで受け継がれています。そして、徳川家や幕府について書くことも禁じられました。以後、幕府による出版統制はたびたび発せられていきます」

こうした流れの中で、寛政6(1794)年、名古屋の本屋が突如として開板直願の運動を起こしたのである。三都以外では初めてのことだった。

本問屋「鶴屋喜右衛門」の店先 松濤軒斎藤長秋 著 ほか『江戸名所図会 7巻』[1],須原屋茂兵衛[ほか],天保5-7 [1834-1836]. 国立国会図書館デジタルコレクション

出版して斬首された本屋

ここで幕府の出版統制の厳しさを物語るエピソードを紹介しよう。

慶安2(1649)年、大坂の西村伝兵衛という板元は『古状揃(こじょうそろえ)』という往来物(おうらいもの)を出版した。ところがこの本が幕府の威信を傷つけたとして、伝兵衛は斬首に処せられている。往来物とは文筆家たちの往復書簡(手紙)を集めたもので、エロ本でも反社会的な本でもない。寺子屋などで教材として使われることが多かった本である。具体的にどこが幕府の逆鱗に触れたのかわからないが、本を発刊して首を斬られてはたまらない。これは、徳川家や幕府に対する批判めいたことは一切許さないという厳しい姿勢の表れであり、本が庶民に与える影響を、幕府が重く見ていたことがわかる。

寛政3(1791)年には山東京伝の黄表紙や洒落本などが摘発され、板元である蔦重は身上半減(財産半分没収)の処分を受けている。以後、蔦重は軌道修正して硬派な本の出版を増やし、寛政3(1791)年に書物問屋の株を取得。組合にも加入している。本屋として生き抜くための方策である。

高いコンテンツ力で出版のコストダウンを可能にした尾州書林

さて、尾州書林の開板直願が許可されれば、これまでのように三都に逐一お伺いを立てなくても商業出版が可能になる。それは事実上、尾州書林が三都の書林による支配から独立することを意味した。これは出版利益を独占してきた三都の本屋仲間にとって、大きな脅威だった。

津田さん「尾州書林の独立にはさまざまな複合的要因があったと考えられています。その一つが天明8(1788)年に起こった京都の大火でした。尾州書林は京都との結びつきが強かったのですが、火事によって大切な板木や商品を焼失するなど大きな損害を被り、京の本屋仲間が弱体化したと考えられます。ただ、この時期尾張には、三都から独立してもやっていけるだけの力が十分に備わっていたのでしょうね。今風に言うなら、コンテンツ力が高かったといえるでしょう。これには藩の後押しがあったと類推できます。当時の尾張藩主は9代・徳川宗睦(むねちか)でした。宗睦は藩校の明倫堂を再興するなど文教政策に力を尽くし、“中興の英主”とうたわれた人物です。下級武士の中にも内職で本を書いたり、版下の制作や板彫りなど、プロ並みの技術を持った藩士がいて彼らのバイトにより、出版のコストダウンを図っていたのではないかと想像しています。尾張藩としても、京都町奉行所への照会文で『藩士の著述も徐々に増え、尾州書林の開板なら家中の者の勉学にも都合が良い』と述べるなど、尾州書林の開板を積極的に押していたようです」

大河ドラマ『べらぼう』で、榎木孝明演じる徳川宗睦(とくがわ むねちか)は、明倫堂の侍講(じこう 君主に学問を講義する人物)として細井平洲(ほそい へいしゅう)を採用するなど、人事の点でも身分や家柄にこだわらず、有能な人材を積極的に登用している。平洲は尾張出身で、後に米沢藩主となった上杉治憲(鷹山 ようざん)の師となり、その学問は世の中を治め民を救う「経世済民(けいせいさいみん)」を旨としていた。後に明倫堂の学長になっている。

ところで、事態を重く見た三都の本屋仲間は結束して尾州書林の開板を阻止しようとしたが、果たせず、寛政6(1794)年、尾州書林の自主開板は許可され、名古屋の本屋業界は一気に活気づいた。寛政年間には19軒だった本屋も、文化・文政期には30軒を超えるまでになった。そんな中、名古屋でトップクラスの本屋となったのが、永楽屋東四郎である。

2代目・永楽屋東四郎善長 『狂歌畫像作者部類』(国文学研究資料館所蔵)
出典: 国書データベース,https://doi.org/10.20730/200019748

三都に匹敵する本屋に成長した永楽屋東四郎

藩校・明倫堂のご用達として漢籍中心の手堅い経営

永楽屋東四郎は名古屋城下の本町通り(名古屋城と熱田を結ぶ道路で名古屋城下のメインストリート)にあった本屋の中でも屈指の大店であった。初代は永楽屋東四郎直郷(なおさと)といい、風月堂に奉公していた。35歳で独立し、安永5(1776)年に東壁堂(永楽屋東四郎の店名)を創業。以後、東四郎善長(よしなが)、善教(よしのり)、善功と代々東四郎を名乗り、江戸時代以降も明治、大正、昭和と業態を変化させながらも存続し、昭和25(1950)年に廃業した。とても息の長い本屋だった。

津田さん「初代・永楽屋東四郎は藩校の明倫堂ご用達となったことで、繁栄の基礎を築きました。刊行物の内容は漢籍をはじめ、漢詩集や儒書、俳諧、画譜などかたいものが中心でしたが、地方の本屋としては多彩な出版方針をとっていました。そして多様な読者層を取り込み、売れない本があってもほかの売れる本でカバーするという強みを生かして長期安定経営を可能にしたのだと思います。永楽屋は後に江戸の日本橋と美濃の大垣にも店を出し、蔦屋重三郎と組んで『秉穂録(へいすいろく)』や『不形画藪(ふけいがそう)』などの本を出しています。」

名古屋市博物館旧常設展として復元された永楽屋店頭 残念ながら現存しない 写真提供「名古屋市博物館」

蔦重とコラボして江戸進出を果たした2代目永楽屋東四郎

『秉穂録』は岡田新川という人物が書いたエッセイで、『不形画藪』とは張月樵(ちょうげっしょう)という画家が描いた絵手本である。

んん? 蔦重にしてはえらくまじめすぎない? と思ってしまうが、寛政の改革で財産の半分を没収という重い刑罰を受けた蔦重が、これまでおかたい本を出してきた永楽屋とコラボすることで、公儀に目をつけられないまじめ路線も取り入れようとしたところが見て取れる。

津田さん「永楽屋はとてもリスクヘッジに長けており、低コストでどれだけ魅力的な商品を作れるかということを常に考えていたと思います。蔦重の柔らかい内容の本とバーターで交換することにより、商品の幅を広げようと考えたのでしょう」

企業同士のマッチングには信頼関係がとても重要だ。互いに新興勢力ではあるけれど、かたや花のお江戸のメディア王、かたや地方とはいえ徳川御三家の一つ、尾張藩の藩校御用達という看板と実績は大いに引き合うものがあったにちがいない。

ちなみに蔦重が組んだ永楽屋は2代目東四郎善長の関与が強いと思われる。手代として奉公していた2代目東四郎は初代東四郎に見いだされ、婿養子として永楽屋を継いだ。出身は美濃である。後に美濃の大垣に支店を出したのは彼の縁故によるものらしい。永楽屋は2代目の時代に最も発展した。蔦重自身も狂歌や俳諧をたしなんだように、永楽屋東四郎も狂歌をたしなみ、狂歌仲間の私家版(自費出版本)を請け負って世に出している。ひょっとすると、二人はどこかの狂歌サークルででも知り合って意気投合したのかもしれない。

永楽屋はほかに製薬や製墨(せいぼく 墨を木型に入れて形を整えること)も行っている。また、その長い歴史の中で日本史に残る名著の出版や、世の人々をあっと言わせるようなパフォーマンスをプロデュースしている。それらについて見ていこう。

蔦重と永楽屋の名前が併記されている。 岡田新川『秉穂録』名古屋市博物館蔵

本居宣長の『古事記伝』を刊行

本居宣長といえば国学者であり、『古事記伝』などの著者として有名だ。実は宣長の『古事記伝』を発刊したのが永楽屋である。永楽屋単独の出版目録には宣長とその子どもたち、門人の著作について書かれたと思われるものがある。

「鈴屋翁著述書目 附諸人著述書目」(有袋) 鈴屋翁著述書目(六十一点、但、写本も含む)、本居春庭先生著述(六点)、本居大平先生著書(五点)、総門人著述書目(三十八点)、東壁堂蔵板略目録 歌書之部(二十九点)の総計百三十九点を収めてゐる。末に「天保十三年寅四月新刻」の年記がある。(『圓解圓書学』に所収)
『尾張出版文化史』(太田正弘著)より引用 ※旧字体は現代の漢字に訂正したところもある

鈴屋翁とは宣長自身、本居春庭(もとおり はるにわ)は宣長の長男、本居大平(もとおり おおひら)は宣長の門人から養子になった人物。長男の春庭が失明したため、家督を継いだ。後に紀伊藩主に仕えて国学の講義をした。

伊勢松坂の人である宣長の著作をなぜ、名古屋の永楽屋が出版できたのか。そこには学問が結ぶ人の縁が介在していた。

『本居宣長像』(京都大学附属図書館所蔵)部分

宣長と名古屋を結びつけた54歳の門人・田中道麿

享保15(1730)年、本居宣長は伊勢国松坂の豪商で木綿問屋の小津家に生まれるが、商売に関心はなく、医者の道に進む。伊勢神宮参拝のために松坂を訪れた江戸の国学者・賀茂真淵(かもの まぶち)と一夜の対面を果たし、翌年入門。馬渕が亡くなるまでの間、約6年にわたり、文通による指導を受けている。宣長は医業の傍ら、国学や『源氏物語』、『古事記』など古典籍の研究や講釈などにいそしみ、その名声は次第に高まって行った。

安永6(1777)年、1人の初老の男が松坂の宣長の許を訪れた。男の名は田中道麿(たなか みちまろ)。美濃国多芸郡(たぎぐん)榛木村(はんのきむら)(現在の岐阜県養老町)の貧農の家に生まれ、各地を転々としながら苦学して賀茂真淵の門人・大菅中養父(おおすが なかやぶ)について国学を学び、『万葉集』の研究に励んだ。宣長を訪ねた時は万葉学者として知られ、尾州で300人ほどの門人を抱えていた。当時、道麿は54歳。48歳の宣長は上中下の3巻から成る『古事記』(全44巻)上巻の注釈の仕上げに入っていた。

道麿が松坂の宣長を訪ねたのは、宣長が著した『字音仮名用格』(じおんかなづかい)に感銘を受けたからである。以後、二人の間には緊密な交流が生まれ、安永9(1780)年、道麿は正式に宣長の弟子となった。道麿は名古屋における宣長の初めての弟子であり、宣長と名古屋の縁を結んだ人物である。

『古事記伝』44冊刊行を支えた、天晴れな尾張藩士たち

天明4(1784)年、道麿は61歳で病没。道麿の死後、その弟子たちの多くは学問の師を求めて宣長に入門する。

天明5(1785)年に1人の藩士が宣長に入門した。道麿の弟子で、尾張藩の重臣であった横井千秋(よこい せんしゅう)である。

津田さん「横井千秋は宣長の『古事記伝』刊行実現の立役者です。彼はパトロンとして宣長の『古事記伝』刊行を支えました。出版には大変なコストがかかります。千秋なくして『古事記伝』の出版はあり得ませんでした。寛政元(1789)年3月、横井ら門人の招きに応じ、宣長は息子の春庭と大平を連れて名古屋にやってきます。この機会に新たに21人が入門しました。その中には元藩士で、板木彫刻で生計を立てていた植松有信(うえまつ ありのぶ)もいました。植松は板木彫刻師として『古事記伝』刊行に携わります。ほかにも『古事記伝』の版下書きを手伝った藩士もいて、できあがった板木をのちに永楽屋が購入し、出版しました」

『古事記伝』全44巻を宣長が39年かけて書き上げ、刊行するまでにはいろいろなドラマがあった。まず、版下(版木に貼る下書き)を書いてきた宣長の長男・春庭が目を悪くし、完全に失明。これによって第二帙(ちつ)の出版が大幅に遅れてしまう。著者である宣長も、資金を出せなくなった千秋も享和元(1801)年に死去。板木を彫っていた有信は、文化10(1813)年に亡くなっている。

千秋が資金を出せなくなった後は永楽屋が出版を引き受け、文政5(1822)年に『古事記伝』全44巻を刊行した。関係者全員「天晴れ~!」である。

松阪の宣長を訪れた蔦重

ところで寛政7(1795)年3月25日、江戸からある人物が宣長を訪ねている。それは蔦屋重三郎その人であった。
「本居宣長記念館」のHPでは、蔦重がわざわざ江戸から伊勢まで宣長を訪ねた理由を次のように述べている。

 なぜ蔦重は宣長の所に来たのだろう。おそらく、宣長の本を江戸でも販売することへの挨拶だったと思われる。当時急成長していた名古屋の書林、中でも永楽屋東四郎、その永楽屋の主力商品が『古事記伝』など宣長本であったことは周知の事実。そちらへの接近にあわせて、著者にも会っておこうかということだろう。
 実際にこの後、『玉勝間(たまかつま)』や『出雲国造神寿後釈(いずものくにのみやつこかんよごとこうしゃく)』が蔦重経由で江戸に広まっていった。

蔦重は一生のうち、ほとんど旅をしなかったといわれている。その極めて数少ない旅の一つが宣長訪問だと思うと、とても感慨深い。

『北斎漫画』と永楽屋東四郎

『北斎漫画』は人物描写から風景、行事はては妖怪、幽霊に至るまで、この世のありとあらゆるものをスケッチした葛飾北斎の画集である。3900余点が木版摺和装本全15編に収められている。その生き生きとしたデッサンは後にヨーロッパに渡って印象派と呼ばれる画家たちに大きな影響を与え、ジャポニスムの源流となった。コミカルでユーモラスなタッチの絵柄は今も多くの人々に愛されている。この「北斎漫画」を生み出したのも実は名古屋だった。

その生涯に転居93回という引っ越し魔だった北斎は、ペンネームを変えるのも得意だった。生涯で30回近く改名したらしい。そして旅好きであった。80歳を過ぎてから江戸と信州の小布施(おぶせ)間約250キロを徒歩で4往復した健脚ぶりを発揮している。このように超人ぶりを発揮した北斎が、文化9(1812)年、関西旅行の途中に名古屋を訪れている。

津田さん「当時の北斎はこの時すでに、狂歌や読本の売れっ子イラストレーターとして大変人気がありました。名古屋では牧墨僊(まき ぼくせん 本名は信盈)という尾張藩士の家に泊まっていますが、この時、墨僊は北斎に弟子入りしたのではないでしょうか。墨僊自身も絵描きで、若い頃は喜多川歌麿に師事していたようです。彼の家や名古屋のまちがよほど居心地がよかったのか半年ほど滞在して、その間、北斎は300枚あまりの絵を描いており、この時の絵が後に『北斎漫画』として永楽屋と江戸の角丸屋甚助(かどまるや じんすけ)から刊行されました。最初は絵のお手本がほしいと乞われても、『絵に師匠などいない』と断っていた北斎ですが、説得されてその気になったのでしょうね。当時は狂歌が武士や町人の間でも流行っており、北斎は尾張と三河の狂歌愛好家たちが出した狂歌の本に挿絵を描いています。また、自分の詠んだ狂歌に添えてさらっと挿絵を描くことに憧れていた人も多かったのでしょう。ですから絵のお手本として「北斎漫画」はとても人気がありました」

「北斎漫画」は最初1巻だけの予定だったが、大人気となり、2巻以降は10編まで角丸屋が、11編からは永楽屋が主体となって発刊。その後明治11(1878)年に、永楽屋東四郎から15編を刊行した。著者・北斎はすでに亡く、永楽屋は4代目東四郎の代になっていた。

葛飾北斎「北斎漫画」十編 名古屋市博物館蔵

現代も生き続ける『北斎漫画』の版木

『北斎漫画』の版木は約150年もの歳月を経て、今は京都の芸艸堂(うんそうどう)の版木蔵で眠っている。芸艸堂は木版画・書籍の版元で、明治時代になって永楽屋が手放した板木を、購入先の吉川弘文館から買い入れたのだという。板木には堅くてゆがみの少ない桜の木を使用。芸艸堂では合計700枚を超えるという板木を何度も摺っては現代まで刊行し続けている。まさに時を越えた大ロングセラーだ。

芸艸堂が『北斎漫画』の版木を購入したのは明治44(1911)年だったという。その前に永楽屋は板木を手放しているわけだから、最後の巻を刊行してまもなくだったのだろうか。板木は江戸時代の本屋にとって財産である。ましてや大ヒットとなった『北斎漫画』の板木だ。それを手放さなければならないほどの事情が、当時の永楽屋にあったのだろう。津田さんがいうには、「刷り上がったものを見ると、初版と再版では線に違いが見られる」とのこと。板木が物語る謎もまた、興味深い。

葛飾北斎『北斎漫画』名古屋市博物館蔵

名古屋の人々を驚嘆させた“だるせん”北斎

北斎と名古屋との縁は『北斎漫画』のみにとどまらなかった。文化14(1817)年の名古屋滞在の折、北斎は人々があっと驚くパフォーマンスをやってのけた。群衆の面前で、百二十畳(縦約18m 横約10m)敷きの紙の上に巨大な達磨の絵を描いて見せたのだ。このイベントは『北斎漫画』のプロモーションとして、冒頭で尾張のジャーナリストとして紹介した高力猿猴庵が『北斎大画即書細図(ほくさいたいがそくしょさいず)』として絵入りで詳細に紹介している。

イベントの詳細は和樂webの葛飾北斎に関する記事の中でも紹介されているので、ぜひ読んでいただきたい。『北斎漫画』の北斎大先生の一大イベントとあって、見物人はおびただしい数にのぼったようだ。人々は大達磨の絵を描いた北斎を“だるせん(だるま先生)”と呼んだという。

実は北斎にとってこのパフォーマンスは初めてではない。文化元(1804)年には江戸で同様のイベントをやって大成功を収めている。これに気をよくした北斎は江戸の本屋と組んで、本所では馬を、両国では布袋(ほてい 七福神の1人として信仰されている)の大画を描いて大評判をとった。

名古屋のイベントは永楽屋か北斎か、どちらが最初に仕掛けたのかわからないが、すでに経験からパフォーマンス効果を実感していた北斎にとって、名古屋でも勝算はあったことだろう。そしてこれはあくまでも私の想像だが、自分を受け入れてくれた名古屋の人々を楽しませたいという思いもどこかにあったのではないか。

『江戸尾張文人交流録』(青木健著)には永楽屋佐助という人物が北斎の名古屋滞在中に版下絵を受け取りに通っていた際、「先生はいつお帰りですか」と北斎に尋ねると、「おれはもう江戸へは帰らぬよ。名古屋はとても良い所で食べ物や気候もよく合ってるから名古屋は死に場所だな」と答えたという。真偽のほどは定かでないが、確かに北斎にとって名古屋という土地は居心地の良い場所だったのだろう。ところが、この後まもなく伊勢へと旅立ってしまったらしい。引っ越し回数がギネスものの北斎ならではのエピソードかもしれない。

「東都ノ旅客 北斎戴斗(ほくさいたいと)筆」とあるが、戴斗とはこの時の北斎のペンネームである。 葛飾北斎「北斎大画即書引札」名古屋市博物館蔵

もし「永楽屋」が現代に生きていたら…

江戸時代の書店や出版の歴史を振り返ると、言論、表現の自由をめぐって幕府とのいたちごっこを見ているようで実に興味深い。そして、本が人を動かすメディアとして認識されていたことがよくわかる。

だが、本だけで店の経営を成り立たせるのは難しいこともあった。本屋では本以外に副業として生活雑貨や薬、呉服などいろいろな物を扱っていた。なんでも屋というわけではないが、本オンリーではなく、副業が当たり前だったのである。

出版に関していえば、いわゆる私家版というものがある。これは書店の流通に乗せることを考えない自費出版の同人誌のようなものだ。近年若者を中心に人気が出て来たZINEは、まさに私家版である。一般的な書店や出版社のイベントではなく、独立系と呼ばれる書店やZINEフェスティバル、文学フリマと呼ばれるイベントの中で販売されることが多い。その内容も短歌や俳句からエッセイ、あるいは写真集のようなものまでさまざまだ。

津田さんはいう。
「もし『永楽屋東四郎』が現代に生きていたらどんな経営の仕方をするか、とても興味深いですね」
それを考えることが本屋の未来につながるかもしれない。

【取材・写真提供】
名古屋市博物館
津田卓子さん(同博物館学芸員)

【参考文献など】
『名古屋の出版-江戸時代の本屋さん-』名古屋市博物館
『尾張出版文化史』太田正弘著 六甲出版
『江戸尾張文人交流録』青木健著 ゆまに書房
『江戸の本屋さん』今田洋三 NHKブックス
「本居宣長記念館」HP
美濃加茂市 坪内逍遥博士について
『江戸と京都の木版画』 桐山桂一著 『GRAPHICATION』和技を旅する23

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山寺の坊守(住職の配偶者)。いやというほど緑に囲まれて過ごしているので、たまに都会の空気に触れると狂喜する。書店でのバイトがきっかけでライターの道へ。趣味は知らない所へ行き、知らない人に会い、おいしいものを食べること。ライターは天職かもしれない。3年前から地元で本と古本の店「のきさき書店」を営む。岐阜県在住。
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