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UFOか? 南蛮の漂着船か?
未確認飛行物体いわゆるUFOは、スマホで動画撮影が簡単にできるようになった現在、話題になることが増えました。大半は気球やドローンの見誤りや、プラズマなどの自然現象として立証できますが、米国では解明できない目撃情報に対して公聴会を開き、安全保障上の脅威として真剣に議論することもあるそうです。
もし科学が発達していない江戸時代にUFOが現われたら——不可解極まりないミステリーだったでしょう。そして、実際に「出現した」と報じたかわら版があったのです。それが『鹿島郡京舎の浜 漂流船のかわら板ずり』で、「うつろ舟の蛮女」という名でも知られています。
アイキャッチ画像(このページの一番上)に掲載したのが、かわら版が伝える「うつろ舟の蛮女」と、彼女が乗った舟です。ご覧の通り私たちがよく知る、上部がドームのアダムスキー型UFOに似ていますね。
かわら版はこう記しています。
去る亥年の2月、この絵のような舟が鹿島郡 京舎の浜の沖に現われ、8月の嵐で浜に漂着した
舟には女がひとり乗っており、年齢は19〜20歳ほどだった
身長は約180cm、顔色は青白く、眉毛や髪は赤黒かった
「鹿島郡 京舎の浜」とは現在の茨城県神栖市(かみすし)舎利浜、「亥年2月」は享和3(1803)年2月22日と比定されます。なぜ年月日が特定できるかというと、曲亭馬琴ら12人の文人が編纂した奇談集『兎園小説』(とえんしょうせつ)もこの事件を詳報し、そこに享和3年2月22日と日付が書かれていたからです。
しかし、現代人の私たちは写真や動画でUFOを知っているゆえに、アダムスキー型の未確認飛行物体が海に不時着したのではないかと考えますが、江戸時代の人々に宇宙から空飛ぶ円盤がやって来たなどという概念はありませんでした。
実のところ京舎の浜の人々は、この女性は蛮国(欧州)の王の娘ではないかと推測したと、『弘賢随筆』(ひろかたずいひつ/故実家・屋代弘賢[1758~1841]著)にあります。すでに寛政4(1792)年、ロシアの船が蝦夷地(えぞち/北海道の旧称)に来航し、幕府が外国の侵略を警戒していたことは広く知れ渡っていたでしょう。異国船と考えるのは自然の流れだったはずです。

公儀に報告すると面倒に巻き込まれて厄介だと思った漁師たちは、再び女性を舟に乗せ、沖へ流してしまったといいます(『弘賢随筆』)。
今となってはUFOなのか、外国の漂着船だったのか、真相は不明です。もちろん、この事件を報じたかわら版自体がデッチあげだった可能性も否定できません。しかし、200年以上経った現在でも真偽を解き明かすことができない、謎のかわら版であるのも確かなのです。
犬の霊に取り憑かれた若者が駕籠に乗り…
一方、「うつろ舟」と同じ不可解な怪異でありながら、フェイクニュース以外の何者でもないのが『犬の霊 ふしぎの次第』です。見出しに「当七月五日上方へ来ル」、文末に「天保十」とありますから、天保10(1839)年7月5日に大坂で起きた出来事を報じたとわかります。

出羽国置賜郡(でわのくにおきたまぐん)米沢に住む19歳の巳之吉、身重の犬を容赦なく殺す
しばらくすると顔が犬となり、言葉も話さず「わんわん」と吠えるだけになった
出羽国置賜郡(現在の山形県米沢市)の巳之吉という若者が、犬の姿に変わってしまったというのです。
巳之吉の父親は殺した犬の霊に取り憑かれたと考えました。そこでお祓(はら)いをするため、伊勢と四国の霊場を回らせようと思い至り、巳之吉を駕籠(かご)に乗せて旅立たせました。伊勢から四国へ向かう途上、大坂に寄ったのを描いたのが、このかわら版です。
犬に堕ちた巳之吉は手に好物の魚の頭部を持ち、人間に吠えかかったと記されています。
かわら版研究の第一人者である大阪学院大学教授・森田健司は、「何かの興行の宣伝に使われたかわら版」と推理しています。おそらく「犬人間がやって来た」などといった見世物小屋の興行が立ち、集客のために呪いの物語を創作して、かわら版で告知したのだろうというわけです。しかし、小屋に見物に行くと大型の犬がいただけ——。
大衆も、偽物であるのは承知していたはずですが、それでも子どもが「見たい」とせがめば連れていった親もいたはずです。PR効果は決して低くなかったでしょう。
同時に無闇な殺生を戒める道徳的な意義も、あったのかもしれません。
女性の敵討はかわら版にとって最高の素材
元禄14(1701)年、四十七士が吉良上野介の屋敷に討ち入った赤穂事件以来、仇討(あだうち)はつねに大衆の心をつかむ出来事でしたが、成功率は極めて低く1%ほどだったと考えられ、実際に成し遂げると、とても評判になったそうです。
江戸時代の武士社会では敵討(かたきうち)が公認されてもいました。“お上”(この場合のお上は地方なら藩主、都市なら奉行所)の許可を得れば、私刑が法律で制度化されていたのです。
特に女性が敵に立ち向かうケースは珍しく、かわら版にとってはこれ以上ない興味深いテーマでした。天保6(1835)年に父の敵を討った女性「りよ」は、かわら版によって一躍ヒロインとなった人です。
りよの父は姫路藩江戸藩邸で出納(すいとう)を管理する事務方の武士・山本三右衛門。その父が、カネ目当ての中間(ちゅうげん/召使い)の亀蔵に殺されてしまいます。武士が奉公人の身である中間の手にかかり、命を落としたのは屈辱でした。りよと弟の宇兵衛は、叔父の山本九郎右衛門(父の弟)と共に復讐を誓います。
宇兵衛と九郎右衛門は、逃亡した亀蔵を探して諸国を巡りました。りよは女性の身なので江戸に残り、2人からの連絡を待ちました。
犯人探しは長引き、弟の宇兵衛は明日をも知れぬ境遇に嫌気がさして出奔。そんな中、何と亀蔵が江戸にいることを、りよが突き止めます。父が死んでから1年7カ月後のことでした。
りよはさっそく九郎右衛門に書状で報せ、江戸に戻った九郎右衛門は神田にあった火除地(火災の際の避難場所)の護持院ヶ原(ごじいんがはら)で、亀蔵を捕縛しました。

りよに至急来るように伝令が走った
りよが着いたとき辺りは日が暮れていた
九郎右衛門に縄を解かれた亀蔵にりよは刀を振り下ろし、何度も仇敵(きゅうてき)を切り裂いた
りよ、24歳。若き勇敢な女性の敵討は大評判となり、天保年間のできごとを記録した『天保雑記』には速報で11種類のかわら版が出たと記されています。
護持院ヶ原は敵討の江戸名所
護持院ヶ原では弘化3(1846)年にも敵討が起きています。仇を討ったのは熊倉伝十郎という若き武士と、その助っ人・小松典膳(てんぜん)。仇の対象は、時の江戸町奉行・鳥居耀蔵(とりい・ようぞう)の密偵。鳥居に匿われていたことから密偵の捜索は困難を極めたといいますが、鳥居が失脚すると発見され、護持院ヶ原で伝十郎と典膳に討たれたのです。
鳥居耀蔵は江戸の町人に悪評ぷんぷんの奉行でしたから、「鳥居の配下が敵討で復讐された」と喝采が浴びせられ、同時に護持院ヶ原はちょっとした江戸名所になったということです。
密通した妻と部下に亭主が復讐
最後に紹介するのは、復讐劇には違いないものの敵討とはちょっと異なるケースです。天保9(1838)年、伊予松山藩の家臣だった男・善男某(よしおなにがし?と読むのだろうか、つまり実名は不明)が、妻と部下に駆け落ちされことをきっかけに起きた事件です。
善男某は手下に妻を寝取られてしまったわけで、これは武士にとって最上級の不名誉であり、このような不義密通は私的制裁もお構いなしと、『公事方御定書』(くじかたおさだめがき/幕府の法令集)に示されていました。
善男某はやむを得ずの事を(藩の)老中に奏上し暇をもらった
男は仕事を投げうってでも、失踪した2人を探す旅に出ることを許されました。そして翌年の天保10(1839)年、大坂の中之島で2人を発見し、見事に恨みを晴らしました。かわら版には、男2人が斬り合う姿になす術もない妻が描かれています。

結局のところ、かわら版で評判を取るのは女性だったのでしょう。敵討に積極的な男勝りの女性を囃し立てる世相や、不倫に走る女性を許さない風潮などは、現代とまったく同じです。
今も昔も、大衆が求めるのは女性のスキャンダルなのでしょうか。
参考資料: 太陽コレクション『かわら版 新聞 江戸明治三百事件』平凡社/『奇妙な瓦版の世界』森田健司 青幻舎/『かわら版で読み解く江戸の大事件』森田健司 彩図社
アイキャッチ画像:鹿島郡京舎の浜 漂流船のかわら板ずり/船橋市西図書館所蔵

