不思議な体験をすることがある。
特に、わたしの記事の場合。
取り扱うテーマの多くが、歴史や神社仏閣にまつわるものだからか。
うっかり軽い気持ちで、その扱いを間違えてしまうと。
急に掲載媒体のサイトが閉鎖され(大手出版社なのに……)、突然、職を失ったり。
企画を出しただけで、1分後にエクセルの大事なネタ帳が壊れて見れなくなったりと。
色々と大変な目に遭うことに。
「後悔、先に立たず」と言うが。
どうやら、この世には。
書いてはいけない、世間に出してはいけないモノがあるのだろう。
その一方で。
アポ取りから当日の天候まで、取材がトントン拍子に進むこともある。
偶然、関連するヒトやモノにばったりと出会うコトだって。
そんな場合は、逆のバージョン。
ああ、是非とも世に出たいんだな、知って欲しいんだなと。
何かに訴えかけられているような気がするのだ。
そして今回の「悲劇の豪商『伊藤小左衛門(いとうこざえもん)』の人生を辿る旅」の記事は、まさに後者。
なにしろ別件で訪れた地で、思わぬ出会いに導かれたからだ。
それが冒頭の画像、長崎県壱岐島にある「お宝地蔵」である。
「伊藤小左衛門」と壱岐島の「お宝地蔵」……?
両者に、一体、何の関係が?
というか、そもそも「伊藤小左衛門」って何者?
まずは、その問いからお答えしよう。
「伊藤小左衛門」とは、江戸時代初期の博多商人である。
ただ、厳密にいえば。「小左衛門」と名乗る人間はひとりではない。後継者が襲名するため、複数の「伊藤小左衛門」がいるワケで。実際は「初代」「2代」……と区別し、諱(いみな)もそれぞれ異なる。
今回取り上げるのは、2代目伊藤小左衛門、伊藤吉直(よしなお)だ。
じつに、この2代目小左衛門だが。
「悲劇」という言葉とセットになることが多い。
というのも、豪商として成功し、誰もが羨むほどの生活を送りながら。国禁である「抜荷(ぬけに、密貿易)」をした罪で捕縛。当の本人は磔刑(たっけい)、息子らも含め厳罰に処されたからである。
一瞬にして転落した2代目小左衛門。
今回は、そんな彼の波乱万丈な人生を辿る記事となる。
ちなみに、先ほどご紹介した壱岐島の「お宝地蔵」もそうだが。彼の人生には、他にも様々な疑問がついて回る。
2代目「伊藤小左衛門」の謎多き人生。
長崎、壱岐、博多と、縁(ゆかり)ある場所も含めて。早速、ご紹介しよう。
※壱岐島の「お宝地蔵」は、新道商工振興会の許可を得て使用しています
※「萬四郎神社」は櫛田神社の許可を得て使用しています
※「清水寺の梵鐘」は清水寺(長崎市)の許可を得て撮影、使用しています
※「伊藤小左衛門の墓」は妙楽寺(福岡市)の許可を得て撮影、使用しています
謎めいた豪商「伊藤小左衛門」のリッチな生活
博多商人といえば。
一般的に思い浮かべるのは「島井宗室(しまいそうしつ)」や「神屋宗湛(かみやそうたん)」の名であろう。
だが、彼らは豊臣秀吉と懇意の商人だったこともあり、秀吉の死と共に表舞台から姿を消していく。代わりに新興の博多商人らが台頭。そのひとりが、今回の記事で取り上げる「伊藤小左衛門」である。
残念ながら、伊藤一族の資料はあまり残っていない。
江戸時代の博多をまとめた郷土資料『博多津要録』にも「伊藤小左衛門」の目録はあるのに、大事な中身がほぼない。これからして不思議な話なのだが。一説には、粕屋郡青柳村(現在の福岡県古賀市)や筑前木屋瀬(現在の北九州市)出身だともいわれているが、出自すら不明。
また、どのような商売だったのか、財を増やした時期などの資料も乏しい。恐らく異国の商人に対して高利で金を貸す「投銀(なげがね)」や鉄の取引などで財を成したと推測されるが、まだまだ謎に包まれている部分が多いという。
その一方で、確かな情報もある。
それは、伊藤一族がかなりリッチだったというコト。
そんなわけで。まずは「どれほどの豪商であったか」が分かる場所を訪ねることに。
それが、長崎市にある真言宗の寺院「長崎山 清水寺」だ。

「長崎山 清水寺」の創建は元和9(1623)年。
京都の清水寺の僧侶「慶順(けいじゅん)」が開創。名前のせいか、どことなく似ている気がしたが、なるほどと納得。全体的に、アーチ型の石門や黄檗(おうばく)様式を取り入れた本堂など見どころの多い寺である。
そんな長崎独特の異国めいた雰囲気に目を奪われながら。
お目当ての長崎市指定有形文化財の「清水寺の梵鐘」を探すと、説明版を発見。
これによると「博多の豪商伊藤小左衛門尉吉次の財政的援助を受けて、京都三条釜座伊豆守藤原朝臣真次の鋳造した梵鐘1口を設置した」となっている。

いきなり登場の「伊藤小左衛門吉次」とは……?
彼こそが、初代「伊藤小左衛門」。博多商人としての礎を築いた人物である。
そして、彼が寄進した梵鐘は。
石門のすぐ横の鐘楼に安置されているという。早速向かうも、なぜだかカメラマンは困り顔。というのも、梵鐘が鐘楼の中にすっぽりと納まっていて、写真撮影はおろか、外から見ることさえできなかったのである。
だが、そこはやはり……。
ご住職のご厚意に助けられ、幸運にも鐘楼の中へと入れていただけることに。
それでは、ご覧いただこう。
コチラが初代小左衛門が寄進したとされる「清水寺の梵鐘」である。

寛永19(1642)年に設置され、のちの太平洋戦争の際での金属回収も免除。そのため長崎に現存する国産品の梵鐘の中では最古だとか。
下から見上げると。
かなりの厚さがあり、なんともご立派。
380年以上も時が経つとは思えないほどである。
まさしく初代伊藤小左衛門の財力をまざまざと見せつけられた瞬間。と同時に、初代にして既に博多商人として成功していたのだと理解したのである。
だが、伊藤一族の勢いはこれで止まらず。
さらに飛躍するのが、2代目小左衛門。財だけでなく地位や名誉も手に入れることに。
そのきっかけとなったのが、正保4(1647)年に起きたポルトガル船入港の事件である。
当時は、江戸幕府が鎖国政策に向け、次々と法令を打ち出していた頃。
寛永16(1639)年にはポルトガル船の来航を禁止。これにて鎖国政策は完成し、鍋島藩(佐賀県)と黒田藩(福岡県)が唯一の貿易港である長崎の警備に当たることに。

そんな状況の中で。
来航禁止となっていたポルトガル船が貿易再開を求めて長崎港へ。それも運悪く、黒田藩が長崎警備の当番の年であったとか。この緊急事態に黒田藩と佐賀藩は大慌て。長崎奉行所を交えて協議した結果、万が一の場合にはポルトガル船を「焼き打ち」して追い返すコトになったという。
なんとも……原始的な戦法だが。
ここで大量に必要となるのが「藁(わら)束」。火のついた藁束を船に投げ込むためである。
地理的に長崎港に近い鍋島藩は、準備も楽勝。
ただ、黒田藩はというと。短期間で長崎に準備するのはほぼ不可能。とはいえ、近年、騒動を起こしたばかりの黒田藩からすれば、さすがに言い訳もできず。当時の藩主「忠之」は、引責のため自害する覚悟で、陣羽織の中に火薬をしのばせていたとも。
この窮地を救ったのが、ふたりの博多商人。
大賀宗伯(おおがそうはく)と、かの2代目小左衛門である。
彼らは即刻、長崎の古い農家を買い取り、藁束を用意。なんとも間一髪セーフとなった黒田藩は、両名を「五十人扶持(※「一人扶持」が年間に米一石八斗(約4.5俵)を支給)」と厚遇したのである。

こうして、財も地位も手に入れた2代目小左衛門。
黒田藩の御用商人となり、「伊藤小判」を発行するまでとなったのである。
そんな当時の様子が分かる資料が幾つか残されている。
まず、ご紹介するのが『オランダ商館長日記』。オランダは、江戸時代に日本と交易がなされた数少ない国のひとつ。そのオランダ商館の長が、代々書き継いだ公務日誌に、なんと2代目小左衛門が登場するというのである。
書き手は、慶安4(1651)年8月に商館長として来日した「アドリアーン・ファン・デル・ブルフ」。
彼の日記「1652年8月29日」の中に、こんな記述がある。
乙名から、博多の領主が島を見物し…(中略)…右訪問者の中に博多の商人伊藤小左衛門殿という人が居り、最も低い家臣たちの下に坐っていた。彼は毎年一〇、〇〇〇匁を消費する身分で、通詞や乙名の話では銀七、〇〇〇、〇〇〇匁以上の資本を持っている豪商であるが、當國では賤しい武士の下風に立つことを知らせるため、ここに記す。
(オランダ東インド会社長崎商館編『長崎オランダ商館の日記 第3輯』より一部抜粋)
これを信じるなら、なんとも生々しいマネーの情報である。
2代目小左衛門は、毎年、銀10貫を消費。資産は銀7,000貫以上というではないか。
当時は銀1,000貫以上の資産があれば「豪商」といわれていたようで。2代目小左衛門は、間違いなく豪商のさらに上。もはや大富豪の類といえるだろう。

他にも、長崎の屋敷についての記述もある。
当時、博多商人たちは、鎖国政策により貿易港となった「長崎」に支店を出すケースが多かった。2代目小左衛門も長崎の五島町近くに屋敷を持っていたようだ。
『日本工業史』によると。
その屋敷になにやら驚くべき仕掛けがあるという。それがコチラ。
徳川氏の世となりても玻璃を製造するものなかりしかはことの外珍重せられしこそさればかの寛文中長崎の巨商伊藤小左衛門(元筑前博多の商人)がビイドロにて巨大の箱を製し金魚を浮べて天井につるしたるが如き…
(横井時冬著『日本工業史 : 全』より一部抜粋)
ガラス製品が大変珍重されていた江戸時代。寛文年間(1661~1673年)の前半で活躍した豪商「伊藤小左衛門」は、ガラスで巨大な箱を作り、金魚を入れて屋敷の天井から吊るしたという話があるそうだ。

ふむ。
なかなかイメージしにくいが。
巨大な金魚鉢のようなモノを天井から吊り下げたのか。はたまた天井をガラス張りにして金魚を泳がせていたのか。どちらにせよ、豪商の趣味は全くもって理解し難いの一言に尽きる。
とはいえ、珍しさは群を抜いていただろう。
屋敷ひとつとっても、強大な権勢を誇った2代目小左衛門。
だが、それが永遠に続く保証もなく。
じつのところ、あと少しで。彼の時代があっけなく終わろうとしていたのである。
「寛文抜荷事件」と萬四郎神社のナゾ
さて、次に縁のある場所として訪れたのは、博多区内のとある神社。
博多駅から地下鉄箱崎線に乗り「呉服町駅」で下車。歩いて5分ほどの距離にある「萬四郎神社(まんしろうじんじゃ)」である。

背後にそびえる高層ビルとは対照的に、神社の敷地は非常に狭い。とても小さなお社である。
目の前にはオフィス街のオアシスのような「浜口公園」があり、ほのぼのとした空間が広がっている。なんでも、この浜口公園のある場所は伊藤小左衛門の館跡だとか。
実際に公園の中を歩くと。
小さな石柱を発見。刻まれた文字の中に「伊藤小左衛門」の名が。どうやらこの付近に2代目小左衛門の大きな邸宅があったようだ。

だからこの場所を訪れたのかと。
そう思われたかもしれないが、目的地はあくまで「萬四郎神社」である。
コチラの神社の御利益は「商売繁盛(博多繁昌)」と……。なぜだか「子供息災」。子どもの健康や成長というコトだろう。
もちろん、御利益が多いのは非常に有難いことなのだが。「商売繁盛」と「子供息災」という御利益の組み合わせが珍しいからなのか、どうにも据わり心地が悪いような違和感を抱いてしまう。

ちなみに萬四郎神社は、同じ博多区内にある「櫛田神社(くしだじんじゃ)」の系列の神社だとか。
電話で問い合わせをすると、萬四郎神社の御祭神は「ゑびす様」であるという。だから商売繁盛なのかと納得しつつ、同時に萬四郎神社が「子供の神様」でもあるコトが分かったのである。
どうして「子供の神様」であるのか。
いや、それ以上に気になるのが、この神社の名前だ。
「萬四郎」とは、誰かの名のような気がするのだが。一体、名前の由来は何なのか。

じつは「萬四郎」とは。
「小四郎」と「万之助(萬之助)」というふたりの兄弟の名を合せたものである。
「小四郎」とは、2代目小左衛門の三男で、4歳もしくは5歳の男児。そして「万之助」の方は四男。コチラは3歳の男児である。
彼らの名がつけられた理由。
それは、2代目小左衛門が転落するきっかけとなった「寛文抜荷事件」に端を発する。
神社の前に設置された「博多旧市街」の看板にはこんな内容が。
寛文7年(1667年)、幕府の鎖国政策に反して朝鮮と密貿易を行った罪により、博多商人伊藤小左衛門とその一族は処刑されました。当社は、父小左衛門に連座して処刑されたという小四郎と萬之助兄弟の幼い魂を祀ったと伝えられ、商売繁昌や子供の健やかな成長にご利益のある神様として信仰されています。
(「博多旧市街」の説明版より一部抜粋)

なるほど。幼い子どもが処刑されたからかと。
そう納得しそうになったが、無論、これがすべて事実とは限らない。
確かに、寛文7(1667)年に「抜荷」、いわゆる密貿易が発覚し、大きく世間を騒がせた。
船を仕立てて密貿易を行う「抜船(ぬけふね)」によるもので、密輸団のひとりを召使いの者が長崎奉行所に訴えたことから発覚。組織的な犯行として、博多、長崎、対馬の多くの商人らが芋づる式に捕縛されたのである。
ただ、世間では様々な噂が流れた。
対馬で船が難破し、その船から朝鮮へ密輸する武具が発見されたとか。博多の伊藤小左衛門宅へ金を借りに来た男が、会ってくれない伊藤一族に立腹して密輸を訴えたとか。なかには、10月15日の長男の婚礼の日に宴席で捕縛され、博多ではこの日に婚礼を挙げないという、随分とドラマティックな展開のものもある。
恐らく「寛文抜荷事件」が後世に伝わる中で、発覚に至る経緯も面白おかしくフィクションが盛り込まれたのだろう。
長崎奉行所の判決記録である『犯科帳』によると。
この大掛かりな密貿易は1回限りではなく、寛文2(1662)年より5年間で7件、未遂3件が起きていたという。
そして、この一味に資金を提供していたのが、先ほどから人生を辿ってきた黒田藩の御用商人、2代目伊藤小左衛門。まさに彼である。

7件の密貿易うち2件に関わったと認定されているが。
恐らく摘発されていないものも少なからずあるだろう。もちろん2代目小左衛門にも言い分はあるはずだ。彼からすれば、鉄を中心とする金属類の売買、朝鮮への武具搬出などこれまでの商売を単に続けていただけのコト。突然、鎖国政策を推し進めたのは江戸幕府の方である。一方的に異国との貿易が禁じられたからといって、自身の商売を変えるつもりは毛頭ない。そんな考えだったのではないだろうか。
とはいえ、捕縛されてはどうにもならず。
当時の抜荷は国の独占的利益を横取りする重大犯罪。見せしめ的な意味もあって厳罰に処されることが多かった。
加えて、2代目小左衛門と黒田藩には深い結びつきがあり、一歩間違えれば黒田藩自体が密貿易に関与していたと疑われる状況だったのである。
黒田藩からすれば、自分の火の粉を払うので精一杯。
いかに黒田藩3代藩主光之の信頼が厚かったとしても、江戸幕府の意向を無視するコトはできず。
結果的に捕縛された94名のうち、死罪が37名、追放が50名、赦免が7名。
2代目伊藤小左衛門は長崎の西坂で磔刑。長男の甚十郎、次男の市三郎らは斬首。もちろん家屋敷など所領や財産は没収(闕所、けっしょ)された。厳罰を避けるコトなど到底できなかったのである。
そんな伊藤一族の墓は。
博多の「石城山 妙楽寺」にある。
初代小左衛門の墓は立派な墓石であったが。
2代目小左衛門らは処罰されたこともあり、一族としてまとめられているようだ。

『犯科帳(長崎奉行所の判決記録)』などの記録を見る限り。
伊藤一族で処刑されたのは小左衛門と長男、次男の3人。どうやら妻や幼い子どもたちは含まれておらず、密かに生き残ったようだ。
複数の書籍によれば、実際に「小左衛門の子孫」と言い伝えのある人物が大宰府市に存在するという。その家には三男、四男の位牌があり、刻まれた没年は延宝6(1678)年、元禄10(1697)年。推測にはなるが、黒田藩がうまく助命を取り計らったのかもしれない。
それにしても、依然、分からないことがある。
「萬四郎神社」という名前のナゾだ。
どうして、処刑されていないであろう子らの名前をつけたのか。
ここからは、個人的な見解になるが。
「萬四郎神社」は、じつのところは伊藤小左衛門へのある種の弔いのための神社……なのではないだろうか。
抜荷という罪を犯しはしたが。2代目小左衛門は随分と博多の町では慕われていたとか。そんな彼の魂がせめて安らかに眠れるようにと、町人らはお社を建てた。だが、表立って犯罪人とされる名前を出すワケにはいかず。わざわざ「処刑されたという子どもの名前」を出して、ひっそりとお祀りした。そんな裏事情が隠されている気がするのである。
と同時に。
ふたりの子らは生きている。無事なのだと。
そんな強烈なメッセージを、2代目小左衛門に伝えたかったのかもしれない。
「彼らの子が息災でありますように」という願いが転じて、現在では「子供の神様」となった……。そんな解釈もできるのかもしれない。
萬四郎神社の境内には、ゑびす様と共に。
長年、小左衛門に仕えていたとされる老狐を祀る「稲荷大明神」の祠がある。

豪商から一転、処刑された2代目小左衛門。
老狐は、彼の人生をどのような気持ちで見ていたのだろうか。
一方で。
後年になって、2代目小左衛門に対して後悔の念を持つ人も。
黒田藩3代藩主「光之」である。
黒田藩の大事な御用商人であり、2代目藩主「忠之」を助けた大恩人の2代目小左衛門。
そんな彼に下る処刑、闕所という処分を、光之はただ黙認するしかなかった。
己の決断を悔やんだのだろう。何度も「我が治世の過ちのひとつ」として、2代目小左衛門の名を出していたという。
時代や立場で物事の捉え方は大きく変わる。
生きる時代が違えば。
2代目小左衛門は英雄になっていただろうか。
そんな彼の人生もまた見たいものである。
壱岐島の「お宝地蔵」のナゾ
こうして、ようやく2代目伊藤小左衛門の人生を書き終えたところで。
冒頭の話に戻ろうではないか。
これまでのところ。
2代目伊藤小左衛門について、正直、気にはなっていたが。
書いたら書いたで長くなりそうだとか、複数の地域を取材しなきゃならんなとか。白状すると、意欲よりも手間がねえ……と少々腰が引け気味だったのも事実。
だが、今年の初夏に長崎県壱岐島を訪れた時のコト。
せっかくだからと空き時間を使って壱岐島を回ることに。壱岐島は非常に小さな島で、島内を1周しても40キロほど。時間にして1時間半くらいである。有名スポットのひとつ、猿の横顔に見えるという高さ45mの奇岩「猿岩(さるいわ)」などを満喫しつつ。寄れるところを網羅して壱岐島の中心地、賑やかな繁華街のある郷ノ浦へ。

その道中で、派手な赤いのぼりを発見。
時間の関係もあってその時はスルーしたのだが、どうにも気になって仕方ない。翌朝、徒歩で行ける距離だったので、早速、訪ねてみた。
ふむふむ。
「お宝地蔵大菩薩」だなんて。
なんという素敵なネーミング。なんだか、すっごく。銭の……いや、マネーの……一緒か。とにかくカネの匂いがぷんぷんして。まさに今のダイソンが欲するところではないか。
それにしても。
まあ、赤いのぼりが晴天の青空に映えるコト。
心の中でワイキャイしながら、階段をのぼろうとしたところで。
目が点に。

別名「小左衛門地蔵」?
えっ。まさか……。
言葉が思うように出ない。
いや、さすがに……。
でも、やっぱり……。
「小左衛門地蔵」って。
あの「伊藤小左衛門」?
書きたいなと密かに狙っていた、豪商の「2代目小左衛門」?
なんだか旅先で知り合いに会ったような。そんな感覚に近いものがある。妙にテンションが上がって、どうにも振り切れてしまったようだ。
3度ほど深呼吸をして。
冷静になってから、改めて説明版をみると。
「黒田藩お抱えの海賊」という言葉が。
まあまあな言われように、思わずニヤリ。

確かに壱岐や対馬は大陸により近い。
地理的に見て小左衛門の拠点があったのも頷ける。
とはいえ、こんな予想もしない場所で出会うとは、正直思いもしなかった。
動揺しつつも、さらに向かいにあった説明版を見て、自然と笑みが広がった。
なんでも、コチラのお地蔵様。
2代目伊藤小左衛門が寄進したというではないか。
小左衛門は仏心にも篤く、この地にあった宝積寺の山門に博多で作らせた2メートル余りの花崗石の地蔵尊を寄進した。これを人々は小左衛門地蔵尊と呼び家内安全、無病息災、商売繁盛の守り尊として敬い、霊験あらたかで御利益をもたらす地蔵尊として、三百年数十年を経た現在でも香華が絶えない。…(中略)…また、地元では昔からここにお参りするとお金持ちになるという言い伝えがある。
(「お宝地蔵の由来」/新道商工振興会より一部抜粋)
なるほど。
お参りするとお金持ちになる言い伝えだなんて。
だから「お宝地蔵」という名なのか。
だが、それだけではない。
じつは、この「お宝」という言葉は、二重の意味を持つようだ。
というのも、小左衛門は壱岐に密貿易の中継基地を置き、日本に帰国する前には必ず船を着けていたという。
なぜか。
「新道商工振興会」の説明によると。
海外で入手した珍宝の一部を密かに陸揚げしていたからだとか。それも、この「新道町内のある場所」に、その財宝を埋蔵したというのである。
ただ、具体的にどの場所なのかは不明。多くの人たちが探索したそうだが未だ発見されず。一説には、この地蔵尊の周囲の地中深く埋められている、なんて驚きの説もあるそうだ。

そんないわれがあったなんて。
ふむふむ頷きながら、お地蔵さまの真正面に立つ。
無心で暫く眺めてみた。300年以上も前からこの地を見守り続ける「お宝地蔵」さま。
なんとも優しいお顔つきである。
手を合わせながら、「お宝地蔵」という名を何度も口の中で転がしてみる。
これほどまでに、豪商「伊藤小左衛門」にピッタリ合う名も、そうないだろう。
嗚呼。
この出会いって。偶然か必然か。
一体、どっちなんだ?
いや、この際、もうどっちでもいい。
確かなコトは、この予想外の出会いが、わたしに大きな影響を与えたというコト。

これは絶対に。
そう、絶対に。
この機会を逃しちゃならん。
狂ったようにスマホを連打。奇跡的に繋がったカメラマンを呼び出したのはいうまでもない。
取材後記
最後に。
伊藤小左衛門の壮絶な人生を辿ろうと決意してから。
月日は流れ、企画の構想から取材、執筆まで。終了したのはじつに約半年後。
当初は2代目伊藤小左衛門を。
「転落人生」やら「悲惨な最期」やら。そういう仄暗い、ダークなイメージでしかとらえていなかった。
だが、縁ある場所を訪れて。
終わってみると、なぜだか清々しい気持に。
個人的には、彼は恐らく後悔などこれっぽっちもしていなかった……なんて。不思議と、そう思ってしまうのだ。
悲劇的な最期ですら。
逆に自慢するくらいのもので。
やりたいことをやって。悔いなく剛毅に生きたと。
短くても太い強烈な人生だったと。
ただ、日本が「鎖国」政策に突入しただけで。
結果的に国禁を犯しはしたが、それもまた時代とそぐわなかっただけのコト。
勝手な妄想かもしれないが。
そんなふうに笑って話しかけてくれている気がするのだ。
2代目小左衛門さま。
お眼鏡にかなうかどうかは分かりませんが。
ようやく書くことができました。
諸々のご協力ありがとうございました。
参考文献
『日本工業史 : 全』 横井時冬著 吉川半七 1898年10月
『長崎オランダ商館の日記 第3輯』 オランダ東インド会社長崎商館編 岩波書店 1958年
『博多の豪商』 武野要子著 葦書房 1980年4月
『伊藤小左衛門のすべて : 博多謎の豪商』 白水康三著 1987年3月
『博多に強くなろう 2』 福岡シティ銀行編 葦書房 1989年2月
『We love九州 : それは九州に始まった 3』 フジネットワークシステム九州編 海鳥社 1989年11月
『犯科帳 長崎奉行の記録』 森永種夫著 株式会社岩波書店 2018年10月

