CATEGORY

最新号紹介

6,7月号2025.05.01発売

日本美術の決定版!「The 国宝117」

閉じる
Travel
2025.05.20

赤い壁に無念の叫びが聞こえるか。大分県合元寺に宇都宮鎮房らの足跡を追う

この記事を書いた人

木と木がぶつかって。
カランカランと音が鳴る。

またしばらくして。
カランカラン。
まるでこっちだと、誰かが教えてくれたかのように。
かけられた絵馬が左右に揺れ動く。

小さな寺だ。
遠くからでも一目で分かる赤い壁。なかなかお目にかかれない外観である。
寺なのにどうしてと、思われるだろうか。

今回、訪れたのは、大分県中津市にある「合元寺(ごうがんじ)」。
JR中津駅から15分ほどの距離にある、西山浄土宗の寺である。

寺門をくぐり、境内を見渡すと。
残念ながら取材時は工事中であったが、それでもはっきりと分かる。どうやら、赤い壁は、寺の周りをぐるりと囲む外壁だけではなかったようだ。寺内の建物の壁も同じく赤。さすが「赤壁寺(あかかべでら)」といわれるだけのことはある。

合元寺

この赤壁。じつは最初からではない。
元は白い壁だったそうだ。
だが、ある出来事を境に、白い壁は血で滲み、赤く染まってしまったとか。その後、幾度、壁を白く塗り替えても次第に赤く染まっていく。そのため、思い切って「赤い壁」にしたと伝えられている。

一体、この寺で何があったのか。
今回は、日本の歴史に埋もれた、ある戦国武将らの「無念」の物語をご紹介しよう。
鎌倉時代より400年以上にわたって、豊前国一帯(福岡県東部、大分県の一部)を所領としていた「宇都宮鎮房(うつのみやしげふさ)」。
彼ら一族が、黒田孝高、長政父子によって滅亡の道を辿る話である。

老いも若きも。
男も女も。
関わるすべての人たちの胸に深く刻まれた「無念」。
そこには、聞き届けられなかった多くの祈りがあったのだ。

※冒頭の画像は「合元寺」です
※本記事の写真は、合元寺の許可を得て撮影しています
※本記事は「宇都宮鎮房」「黒田孝高」「豊臣秀吉」の表記で統一しています

黒田父子を悩ませた宇都宮鎮房とは?

戦国武将ら192名の言行をまとめた『名将言行録』。
その中で、こんな一節がある。

孝高の子長政は城井谷の城主宇都宮中務少輔鎮房と戦って、大いに敗走したのを、孝高は馬の岳の櫓(やぐら)に上ってみながら笑っていたが…(中略)…その通り長政は何ごともなく、引き返した。長政は敗軍を口惜しがって引きこもり、夜具をかぶって寝てしまった。
(岡谷繁実著『名将言行録』より一部抜粋)

ここで登場する「孝高」とは、豊臣秀吉の軍師として名高い「黒田孝高(如水)」のこと。「官兵衛」という通称の方が、より馴染みがあるかもしれない。そして「長政」とはその嫡男、「黒田長政」だ。

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の3人に仕え、「天才軍師」と名を馳せた孝高。だが、そんな孝高を苦しめた戦国武将がいる。先ほどの『名将言行録』の中で、黒田長政が敗戦した相手である「城井谷(きいだに)の城主」。鎌倉時代から続く名門、宇都宮氏一族の「宇都宮(城井)鎮房(うつのみやしげふさ、きいしげふさ)」だ。

「宇都宮鎮房」(中津大神宮、城井神社の境内より)

この「宇都宮鎮房」とは、一体、何者なのか。
少々長くなるが、まずはここから話を始めよう。

『宇都宮家系図』によると、宇都宮鎮房のルーツは藤原一族だ。あの藤原道長の兄である道兼が遠祖。ただ、九州の豊前国(福岡県、大分県の一部)の領地を得たのは、もう少しあとの時代となる。

平家滅亡後、源頼朝は全国に「守護」と「地頭」を置く。平氏の地盤であった九州には、特に東国の有力御家人を送り込んだ。その中の1人が下野国(栃木県)の宇都宮信房。彼は逃げた義経一派の捜索の命を受け、その功より地頭職などに就き、さらに平家方の板井種遠の跡地など幾つかの所領を与えられた。その場所こそ豊前国一帯(福岡県東部、大分県の一部)、のちに黒田父子の領地となる場所である。ちなみに、宇都宮信房は、その中の地名である「城井(きい)」にちなんで、「城井氏」と名乗ったという。

その後、宇都宮氏一族は周辺にまたがって土着。
鎌倉時代初期から豊前国一帯を所領し、それは16代(諸説あり)当主、宇都宮鎮房の代まで400年以上続く。なお、鎮房の本拠地は豊前国築城郡(ついきぐん)寒田郷(さわだごう)にある大平城。現在の福岡県築上郡筑後町付近とされている。

ただ、時代は戦国の世。
九州の地にも、下剋上の風が吹き荒れる。本州では織田信長の亡き後、豊臣秀吉が天下統一へと突き進む一方、九州は未だ群雄割拠の時代。大友氏や龍造寺氏、島津氏などの勢力争いが激化していく。この乱世を、宇都宮鎮房は秋月種実(あきづきたねざね)らと共に島津氏側について乗り越えようとしたのだが、島津氏の九州統一を目前にして、大友氏に泣きつかれた秀吉がまさかのストップをかけたのである。

そして、今度は。
関白そして太政大臣となった秀吉の天下統一の矛先が、九州へと向かう。

そんな九州征伐の先陣となったのが黒田孝高である。
天正14(1586)年、孝高は吉川元春、小早川隆景ら毛利軍団と共に島津氏攻略を開始。反大友派らの戦国武将を次々と秀吉側に引き込み、説得が不可能とわかれば、今度は武力で制圧。北九州周辺の城をターゲットに、小倉城など攻め落としていく。

落合芳幾 「太平記英勇伝」「九十五」「室田勘解由次宦孝高」 東京都立中央図書館特別文庫室所蔵 出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)

さらに、翌年の天正15(1587)年。
今度は秀吉自らが九州入り。20万余り(諸説あり)の大軍で絶大な力を見せつけ、宇都宮氏と共に島津氏側についていた秋月種実を降伏させる。これを境に、秀吉に盾突く者はほぼおらず。もちろん、宇都宮鎮房もその1人。ここに来てようやく豊臣秀吉の真の姿を理解したのだろう。

『城井軍記』には、以下のように記されている。

城井の城主、宇都宮鎮房は折節、大病にて子息、弥三郎朝房(ともふさ)を名代として秀吉公へ拝謁す云々
(松山譲 著『城井・宇都宮氏の滅亡 : 黒田藩外史』より一部抜粋)

秀吉に臣従するほかはない。それは分かっている。だが、自ら頭を下げることまでして忍従する気はない。そんな宇都宮鎮房の真意が見え隠れする。
結果的に、鎮房は病気を理由にして、息子の朝房を秀吉に拝謁させたのである。

同年5月、遂には島津家当主であった島津義久も剃髪し、秀吉に降伏。
こうして、秀吉の九州征伐は成し遂げられたのであった。

さて、問題は。
九州征伐の論功行賞についてである。
誰に功績を認め、相応の賞を与えるのか。

じつは、これが宇都宮鎮房にとって運命の分かれ道となる。
当然、鎮房の願いは本領安堵。今まで400年以上続いた先祖からの土地を是が非でも守りたい。たとえ範囲が狭くなっても構わない。この場所にさえいられるのであれば。そんな願いも虚しく、豊前国6郡は無情にも黒田孝高の所領となったのである。

そして、鎮房に届いたのは。
「転封」の朱印状。
つまり、所領の場所が変わるということ。転勤のようなものである。

新たに与えられた所領はというと。
諸説あるも、『城井合戦記』によれば伊予国今治(愛媛県今治市)。

宇都宮鎮房は、先祖代々の土地を守ることができなかったのである。

中津城の惨劇はなぜ起こった?

宇都宮鎮房の決断は早かった。
秀吉の「転封」の朱印状を、まさかの「返上」。
つまり、秀吉の決定に対して不服を表明したのである。

本領も安堵されず、新領地も拒否。
こうなると、鎮房は八方塞がりの状態となる。ここで秀吉が、そうかそうかと、優しくあやしてくれるワケもなく。なんてったって、彼は秀吉に拝謁さえもしていないのだ。鎮房に残るは、新領地を与えられ九州入りした戦国武将らの家臣になるという選択肢である。

事実、宇都宮鎮房は大平城を出れば行く当てもなかった。新たに小倉城主となった「毛利勝信」に秀吉への取りなしを依頼し、勝信より新たな領地の一部である田河郡赤郷(福岡県田川郡)を貸し与えられる始末。その場所に一時的に移ったのである。勝信は、そんな宇都宮家臣団をスカウトしていたようだ。このまま埒が明かなければ、鎮房は気乗りしない選択肢を真剣に検討せざるを得なくなる。

この絶妙のタイミングで。
肥後国(熊本県)の国人(在地の武士)らの不満が爆発。50人以上の国人らが、新たに肥後国の領主となり検地を断行した「佐々成政(さっさなりまさ)」に一斉蜂起したのである。

大事件の勃発に、九州の名だたる戦国武将らは再度集結。秀吉の命で蜂起鎮圧のために肥後国へ向かうことに。もちろん黒田孝高も、長政を豊前国に置いて出陣。

黒田孝高像(中津城前)

まさに孝高不在となった絶好の機会。
宇都宮鎮房は、この好機を逃さなかった。
天正15(1587)年10月、まさかの黒田父子の領地である豊前国で、国人らが次々と蜂起。宇都宮鎮房もかつての居城である大平城を奪還し、約85日ぶりに舞い戻る。こうして、鎮房は黒田父子、ひいては豊臣秀吉に反旗を翻したのである。

ここで、最初の『名将言行録』の場面に戻るというワケだ。
血気盛んな20歳の黒田長政は、父の孝高なしに宇都宮鎮房との戦いに出陣した。重臣らが孝高の帰りを待ってからと忠告したにもかかわらず、結果からいえば、黒田軍の大事な先手、二番手を討ち取られ、大敗。多くの兵を失った。俗にいう「岩丸山合戦」である。そりゃ長政も夜具をかぶって、ふて寝したい気分であろう。「無念」の一言に尽きる。

その後、意外にも。
宇都宮鎮房の攻防は約3ヶ月続く。だが、その間に次々と蜂起した国人らの城が落城。さすがの鎮房もここまでと思ったのであろう。最終的に鎮房は毛利勝信や小早川隆景、外交に長けた僧の安国寺恵瓊(あんこくじえけい)らを通じて黒田孝高と和睦。本領安堵されるも、人質として嫡子である朝房、そして娘の鶴姫(千代姫とも)を黒田父子に差し出したのである。

鎮房の息子、娘は黒田氏側の人質となるのだが。
どこかで監禁するワケでもなく。男性であれば一武将としての待遇を受けるのが一般的であった。女性も同様だが、一説によると鶴姫は黒田長政に嫁いで中津城へ迎えられたとも。ただ、黒田氏側は長政に正室がいたと否定しており、側室だった可能性もある。ちなみに、朝房は18歳、鶴姫は14才といわれている。

さて、両者は和睦をして一件落着。
悲劇なんて起きないんじゃないのと思われたかもしれない。
今度は場所を移して話を進めよう。
中津市のシンボルとなっている「中津城」だ。

JR中津駅からだと徒歩で20分ほどの距離にある中津城。遠くの方からでも城の天守閣が見えて分かりやすい。民家を抜けると大きな木がお出迎え。そのバックにあるのが中津城だ。割と小さな城で、それもシックな黒。外国人観光客に受けやすい外観であろう。

コチラの中津城。
築城が始まったのは、天正16(1588)年1月。
山国川の支流である中津川の河口に位置し、北には海、西には川。堀の水位は干満の影響を受けて上下したという。当時の中津城は城郭もない平城だったようで、現在の天守閣は昭和39(1964)年に建設されたものである。

中津城

天正16(1587)年4月20日。
この中津城に宇都宮鎮房が訪れる。
黒田孝高は不在で、対応したのは長政だ。
なんでまた訪問なんて、とため息が出る。このまま何事も起きずに終わってくれればいいものを。そう思わずにはいられない。

それにしても、である。
なぜ、宇都宮鎮房はわざわざ黒田氏の中津城を訪れたのか。

これには、2つの説がある。
『黒田家譜』に書かれた黒田氏側の説明はというと。

孝高肥後發向の後、城井中務案内もなく手勢二百ばかりつれて、長政へ一禮の爲とて不圖中津の城に出来る。長政是を聞て、まことに一禮ならば、父子おなじく在城の時、日限をうかゞひ、小勢にて参上すべきに、案内もなく俄におしかけ来る事、ますゝ無禮の至りなり
(貝原益軒 編著『黒田家譜』より一部抜粋)

黒田孝高が再び肥後国へ向かった隙を狙って、宇都宮鎮房が突然、中津城へと現れた。それも目的は「一礼のため」だという。ただ挨拶するのに、わざわざ200人ほどの手勢を引き連れてきたとのこと。この『黒田家譜』では、相手方の宇都宮氏に仕掛ける気があったと、何気にアピールしている。なんなら、こちらがやられる前にやる、仕方なく相手を封じるしかなかったと、そんな言い訳めいた雰囲気さえ感じる内容だ。

一方で、宇都宮氏側の説明はというと。
『城井軍記』に書かれた内容は、先ほどの説明と真逆だ。

鎮房約を履み、中津川に至る。相従ふ者は松田小吉、渡辺右京進、同与十郎、神崎三郎右衛門、則松和泉守(中略)など四五人なり
(則松弘明 著『鎮西宇都宮氏の歴史』より一部抜粋)

「約を履み」とは、約束の履行を意味する。宇都宮鎮房は、どうやら黒田父子との約束があって中津城を訪れたようだ。確かに、鎮房からすれば、我が娘が中津城にいるのだ。娘に会えばよい、酒宴を開くから来てほしいといわれれば、断る口実もない。表面上は和睦をして平和的に解決している。鎌倉時代から続く名門、宇都宮鎮房だからこそ、武士道の精神を重んじ、さすがに騙し討ちはないと思ったのだろう。

のらりくらりと延期したところで。
さすがに一度は中津城へと行くしかあるまい。
鎮房は覚悟を決めた。

なお、家臣団は近くの「合元寺」に留め置かれ、鎮房と共に城内へと入ることができなかったという(諸説あり)。お供は、小姓の「松田小吉」1人のみ。あまりにも心細い状況だが、致し方ない。
こうして、宇都宮鎮房は中津城内へと足を踏み入れたのである。

中津城

ここからは、想像通りの展開が待っている。
結論をいえば、宇都宮鎮房は黒田長政とその家臣らによって惨殺される。とうとう血生臭い事件が起こるのだ。

ただ、実際に中津城内でどのように殺されたのかは、正直なところ分からない。
城内はいわば密室。どのような場面で、具体的に鎮房が討ち取られたかは諸説ある。

一般的な説として有名なのは『黒田家譜』に書かれている内容だろう。
ただ、先ほどの鎮房が中津城を訪れる理由もそうだが、『黒田家譜』は少々偏ったきらいがある。
というのも、『黒田家譜』は、福岡藩3代藩主の黒田光之の命により、儒学者の貝原益軒(かいばらえきけん)が編纂したもの。完成は元禄元(1688)年で、事件から100年ほどしか経っていないが、なんせ勝者側の立場で書かれた書物であることを予めお断りしておこう。

まず、小姓の松田小吉は、太刀を持って別室に控えていたようだ。
そして、宇都宮鎮房はというと。
『黒田家譜』では「六尺」余りの大男と描かれている。恐らく身長は180㎝ほどか。かなりの怪力の持ち主だったとか。脇差しを腰に差し、1m弱の太刀を後ろに立てかけ座ったという。黒田長政との距離は「二間」。3.6mほどあったとか。

長政先酒を飲み手其盃を城井に賜はる。城井、長政と又助が方に目をくばりながら、盃を取て頂き、左の手に酒をうけ、右の手は脇差の柄の上にあり。又助さしより、わざと盃にあまるほど酒を盛こぼし…(中略)…野村太郎兵衛あつとこたへて肴を持出、直に城井が前に行、三方を城井になげかけ、つゝとよりて一太刀うつ、城井が左の額より目の下迄切付る
(貝原益軒 編著『黒田家譜』より一部抜粋)

計画的な犯行だ。
酒を注ぎ過ぎてわざとこぼし、次に肴を載せた三方(供物などを載せる台)を投げつけて、一太刀浴びせる。書物によって最初に鎮房を斬りつけた人物が変わるが、ここでは「野村太郎兵衛」となっている。野村太郎兵衛(曽我太郎兵衛)とは、黒田節で有名な「母里太兵衛(ぼりたへえ、もりたへえ)」の弟である。まず彼の最初の一撃で、鎮房は額から目の下まで傷を負う。

落合芳幾 「太平記三十六番相撲」「第廿貮之番ヒ」「母里多兵衛」 東京都立中央図書館特別文庫室所蔵 出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)

長政側にをかれし刀をぬき、隙間もなく打付らる。利劒にてつよく切られしにや、左の肩より兩乳の間をわり、後の大骨かけて、右の横腹まで切付られければ、さしもに猛き中務も、忽うつふしに成てぞ臥たりける
(同上より一部抜粋)

二の太刀は黒田長政。
左肩から両乳の間を抜け、右の横腹まで。さすがにこれが致命傷となったようで、鎮房はたちまちうつ伏せに倒れたとなっている。

だが、これだけでは終わらない。

太郎兵衛刀を横たへ、片手をつきて、日比の御本望にて候。今一太刀遊ばし候へと申ければ、長政立上がり、聲をかけ切給へば、後より腰のつがひを切はなさる
(同上より一部抜粋)

宇都宮鎮房に一度大敗した黒田軍。よほどの恨みがあったのか。それとも、血気盛んな若輩者だったからか。野村太郎兵衛に誘われて、長政は息絶えた鎮房の死体をさらに斬りつけている。目を覆いたくなるような場面だろう。

一方で。
鎮房の謀殺は「酒宴中」ではなく「入浴中」という異説もある。

赤松文二郎 編『扇城遺聞 : 郡誌後材』によると。
そもそも暗殺する目的で、銅板に無数の穴をあけて準備していたという黒田長政。まずは入浴でもと勧められ、鎮房は殺意を察することができず、そのまま入浴。その最中に、伏兵20人余りに槍で刺され殺されたという内容だ。
出典元は、宇都宮氏一族の家臣、芳賀一族の享保3(1718)年の記録からである。

実際にどうだったのか、証拠はない。
ただ、殺害方法は違えど。
宇都宮鎮房が謀殺されたことは変わりない。

死を前にして、鎮房は何を思ったのか。
城に残してきた父、人質の息子と娘、合元寺にいる家臣たち。
このあとに待つ彼らの悲劇を予測できたからこそ。
彼の「無念」の深さは、計り知れないのである。

合元寺に残る激戦の爪痕

──主君が謀殺された

この衝撃的な知らせを、宇都宮鎮房の家臣団はどのような気持ちで聞いたのだろうか。

我が命に代えてまで主君を必ず守り抜く。
そう誓った相手がむざむざと、それも騙されて殺されたのだ。
宇都宮鎮房も「無念」だったに違いないが、家臣らの「無念」ほど強いものはないだろう。

謀殺された当時、家臣団がどこにいたかは諸説ある。
『黒田家譜』では鎮房と共に中津城内に入ったとされるが、寺の説明では合元寺に留め置かれたとされている。恐らく黒田氏側に案内された通り、家臣たちは合元寺で主君の帰りを待っていた可能性が高い。

それではと。
再び、冒頭でご紹介した「合元寺」へと向かう。
中津城からの距離は600mほど。歩くと10分弱かかる。
異変を知った彼らは、どのような気持ちでこの道を駆けていったのか。いや、既に黒田軍に包囲され、主君の元へと馳せ参じることができない者もいただろう。彼らの焦燥はいかほどか。想像しただけで胸の奥が締め付けられる。

民家の中でひときわ目立つ赤い壁が見えてきた。
合元寺だ。
元々、この場所には「智光庵」と呼ばれるお堂があったそうだ。寺の説明では、天正15(1587)年、姫路から空誉上人が迎えられ、改築増幅したのが合元寺の起源だという。

合元寺

境内に入ってから、ふと思った。
彼らは、この結末を想像していただろうか。
よもや、主君が中津城内の館で。それも宇都宮鎮房と小姓の松田小吉という2人に対し、長政率いる黒田勢がよってたかって襲撃するとは。

一瞬、その可能性が頭の片隅によぎったかもしれない。
だが、しかし。
それを打ち消すほどの「信義」、たとえ乱世であっても武士道に対する最低限の礼儀はあるはずだ。そう、信じていただろう。
逆に、ここでいらぬ騒ぎを起こせば、主君の身が危うくなるかもしれぬ。そんな気持ちもあったのかもしれない。

それは、合元寺の家臣だけでなく。
襲撃の間際まで鎮房のそばにいた松田小吉も同じに違いない。
だが、裏切られた。
目の前で。いや、障子を隔てた先で。
彼は、主君に起きた惨劇を最初に知った人物だ。そして、ひとり勇猛果敢に戦った。

その状況が推測できる書物がある。
宇都宮氏一族を祀る神社の宮司が大正9(1920)年に編纂した『境内末社の記』(非売品)。ここに書かれているのは、宇都宮氏側からみた家臣らの最期である。参考として一部抜粋しよう。

松田小吉
…(中略)…事変を真っ先に聞付け、預り持たる公の帯剣、鵜喰丸(うくいまる)を提げて、是は心得ずと立ち上り、奥の間目がけて一散に馳入らむとせしを、敵の両人立ち塞がるを、邪魔ひろぐなとその場に切り伏せ、駆け行く向かふに、二人三人立ち向かふを、小吉は獅子の荒れたる如く、右に切り伏せ左に突き入り、瞬く間に八、九人を斬り倒しければ、敵の大勢口々に、若者なりと侮りて不覚を取るなと戒めつつ、群がり来りて追っ取り巻くを、物ともせず十八人まで薙斃(なぎたお)し、目指すは長政一人なりと怒り猛びて飛び掛りしも、力疲れ眼暗みて、多勢に不勢、取り包まれて終に敢なく討死せり。時に十八。
(松山譲 著『城井・宇都宮氏の滅亡 : 黒田藩外史』より一部抜粋)

宇都宮鎮房が供にと選んだだけあって、恐らく腕の立つ者だったのだろう。鎮房の怒号、いや、絶叫を聞いたのかもしれない。そんな状況もあってか、1人でも多く、そして黒田長政の元までなんとしても向かうのだと、18人(19人とも)もなぎ倒したという。

もちろん、彼だけではない。
多くの家臣らが駆け付けようとし、黒田勢と戦って討ち死にしていった。なかには、深手を負いそのまま自ら死を選んだ者もいるようだ。

そんな壮絶な戦いの痕が合元寺に残っているという。
「刀の痕はね、庫裡(くり)の大黒柱にあってね」と寺の方が教えてくれた。

庫裡とは、寺の台所や住職の居所などを指す。
どうやら刀痕は大黒柱、それも右側に残っているとか。修繕工事中ではあったが、工事関係者の方が防護シートをめくって見せてくれた。

刀痕を観察するのに腰をかがめて見るとちょうどであったから、腰の上くらいの高さだろうか。大黒柱の端に深く刻まれた刀の痕跡。それも1つではない。さらには大黒柱の中央に走る線も見える。

「あれ。左もある」
カメラマンの指摘で、再度観察すると、大黒柱の左端にも何ヵ所か刀痕が見えた。

庫裡の大黒柱につけられた刀痕(合元寺)

死に物狂いで奮戦した鎮房の家臣たち。
一方で、黒田氏側もここで取り逃してはいけないと、やはり攻め手の彼らも必死だったのだろう。どちらにせよ、当時の合元寺は一瞬にして戦場化し、数多くの亡骸が積み重なったはずだ。だからこそ、白い壁も赤く染まったと後世に伝わった。

ちなみに、激戦となったのは天正16(1587)年4月20日だが、先ほどご紹介した『境内末社の記』によれば、後日に憤死した家臣もいたそうだ(諸説あり)。
名は安広権太夫。当時、宇都宮鎮房と共に中津へ向かわず、城井谷の居城にいた家臣の1人である。黒田長政は鎮房を謀殺後、合元寺はもとより、城井谷の館なども一気に攻め、宇都宮氏一族を滅亡させた。

多くの家臣らが討ち取られたが、なかには生き残った者もいるとか。この安広権太夫もその1人だという。同年4月26日、襲撃が終わったあとのことである。彼は中津城近くまで来て憤死。その様子がコチラだ。参考として一部抜粋しよう。

時節を窺ひ、主君の仇を報せむと思ひしも、元来血気無双の勇者なれば、こらへ兼て事変の後七日、即ち四月二十六日、中津に馳行き、怒猪の勢にて猛り狂ひ、忿怒の罵声を連発して、腹掻切り臓腑を握み出して、敵城に打ち散らし憤死す。生年三十八。憤怒の死相亡せず、人恐れて近寄る者なし。
(同上より一部抜粋)

主君を守り切れず、さらには、共に討ち死にもできず。
彼にあるのは、嘆き悲しむなどの安っぽい感情などではない。
そこには、煮え滾る怒りのみ。仇討ちができぬのならば、せめて……己の臓器を掴み出し敵城に打ち散らし、主君の死を抗議する。見事なまでの猛り狂う憤死である。生き延びたとしても、あえて壮絶な死に方をする。そんな主君の弔い方をした者もいたようだ。

寺の説明では、合元寺で戦死した家臣らを合葬。
境内の「延命地蔵菩薩堂」に祀って菩提を弔ったという。
いかなる死に方であっても、主君と共に。

「延命地蔵菩薩堂」(合元寺)

カランカラン。
カランカラン。
乾いた風が吹く。誰かに呼ばれたように、音の鳴る方へと足が向いた。
寺門を抜けたすぐ左手。延命地蔵菩薩堂だろう。ゆっくりと近付いてみる。

周りには、たくさんの絵馬がかけられていた。
時折風に揺れ、境内に木の音が響く。
絵馬には様々な願い事が書かれていた。どうやら九州では、かなり有名のようだ。聞くと、「おねがい地蔵尊」と呼ばれ、かの福沢諭吉が長崎に遊学する際に、学業成就を祈願したという地蔵尊なのだとか。参拝する方が多いのも頷ける。

堂内は少し暗かった。
外からだと、辛うじて仏像のお姿が見える。
一礼をして、そろりと中に入った。
横に3人並べるかどうかくらいの幅しかない、小さなお堂だ。

「延命地蔵菩薩堂」(合元寺)

目を上げると、真正面。
「延命地蔵」という文字が見えた。

──穏やかだ

意外なほどに、心のざわつきが静かになった。
境内を回りながら、つい、宇都宮鎮房の家臣たちのことを考えていたからか。悲壮なまでの討ち死にへの覚悟、主君を失った無念。それらが私を追い込み、無意識に眉間に三重の皺が刻まれていたのだが。

それが、瞬時に消えた。

優しいお顔だ。
すべてを受け止める、その泰然としたお姿に、しばし時を忘れた。

「延命地蔵菩薩」(合元寺)

どうか、彼らの無念も消えますように。
そう願わざるを得ない。

今回は、宇都宮鎮房、そして家臣らの足跡を辿り、中津城、合元寺を取材した。
だが、これで終わりではない。
この物語は、そして取材はまだ続く。
私には、どうしても行かなければならない場所があるのだ。

もう1つの知られざる宇都宮氏一族の悲劇。
それはまた、次の機会にご紹介したい。

取材後記

無念の思いで散った宇都宮鎮房。
じつに鎮房は、領民からの信頼も厚かったようだ。
福岡県築上郡の須佐神社には、彼が奉納した銘文がある。天正11(1583)年、領民のために疫病退散の祈願をした際のものだという。

先祖からの土地を守るという宇都宮鎮房の信念が、一連の悲劇を招いた。
誰かのせいではない。
妥協するか、それとも、自身のそして一族の誇りを懸けて戦うか。
選択は1回限り。
それは、乱世では当然にして避けられなかった状況だともいえるのだ。

それにしても、である。
今回の勝者は、やはり豊臣秀吉か……。
と言いたいところだが、じつはそうでもない。
その後、まさかの秀吉も宇都宮鎮房の死を後悔することになる。

秀吉といえば、朝鮮出兵(「文禄・慶長の役」)が有名だ。
じつは、この大事な戦の前に、秀吉は「艾蓬(がいほう)の射」という儀式を行おうとしたという。これは、桑の弓と蓬(よもぎ)で作った矢を使って行う儀式で、出陣前の祓いや疾病凶作の祓い、はたまな外敵退散の祈りなど、ここぞという場面で使う秘法の儀式。実際に元寇の際にも行われた記録がある。

ただ、これには落とし穴があった。
この「艾蓬(がいほう)の射」は誰にでもできるものではない。藤原氏から宇都宮氏に伝わる門外不出の秘法で、その上、一子相伝。宇都宮氏一族の嫡男以外にできる者はいなかったのである。

もちろん、困ったのは秀吉本人。
宇都宮氏一族の正統は断たれている。というか、滅亡させた本人の自業自得といえなくもないが。
記録では、備前に配流した宇都宮氏一族を探し出し、「艾蓬(がいほう)の射」を行わせたとあるが、どれほどの効果があったかは不明だ。

歴史を振り返ると。
朝鮮出兵が成功だったとの評価はなされない。戦国武将らはら異国の地で疲弊し、豊臣秀吉への求心力がダダ下がりになったのは明らか。

秀吉本人も、大いに「無念」といえる結果となったのである。

▼次回につづく
侍女と共に磔にされた姫──宇都宮氏一族「もう1つの無念」を追い、福岡・宇賀貴船神社へ

撮影/大村健太
参考文献
『黒田如水伝』 金子堅太郎 著 博文館 1916年
『宇都宮落城記(美夜古郷土叢書 第1輯)』 玉江彦太郎 著 美夜古文化編集部 1955年
『扇城遺聞 : 郡誌後材』 赤松文二郎 編 名著出版 1974年
『黒田家譜』 貝原益軒 編著 歴史図書社 1980年8月
『豊前地方誌』 渡辺晴見 著 葦書房 1981年11月
『城井・宇都宮氏の滅亡 : 黒田藩外史』 松山譲 著 ライオンズマガジン社 1983年11月
『豊前史の一断面 : 黒田・宇都宮両氏の闘争史』 深川俊男 著 深川俊男 1984年
『豊前一戸城物語 : 戦国中間史』 溝淵芳正 編著 耶馬渓町郷土史研究会 1985年5月
『豊前宇都宮興亡史』 小川武志 著 海鳥社 1988年2月
『名将言行録』 岡谷繁実 著 講談社 2019年8月

基本情報

名称:合元寺
住所:大分県中津市寺町973
公式webサイト:なし