その地に、今なお現存するのが。
長崎奉行所の判決記録『犯科帳』だ。
寛文6(1666)年から慶応3(1867)年の幕末まで。
およそ200年間の記録で、全部で145冊ほどになるという。
当時の膨大な資料が、原爆の被害を受けた長崎に残っているのは、
まさに奇跡と言っていいだろう。
『犯科帳 長崎奉行の記録』(森永種夫著)によると。
前後通じて犯科帳に記録された犯罪の数は、約8200余件。
そのうち一番多い犯罪はというと。
──「抜荷(ぬけに)」
今でいう「密貿易」のことである。
当時の長崎では。
一攫千金を夢見る有象無象が。
甘い花蜜に群がる蝶のように。
引き寄せられては、散っていったのである。
それにしても、彼らはどうして長崎に魅せられたのか。
理由はとてもシンプルだ。
鎖国政策のとられた江戸時代にあって。
この長崎が、唯一、異国(一部)に開かれた貿易港であったからだ。
今回は、そんな「抜荷」についてのあれやこれやをご紹介する記事である。
まさしく「長崎ドリーム」を信じたい輩と、是が非でも阻止したい「長崎奉行所」との仁義なき攻防戦。
彼らの間で、一体、どのような駆け引きが行われていたのか。
それでは、早速、ご紹介しよう。
「抜荷」が許せない理由とは?
「抜荷」とは、幕府により正規に輸入された品物である「正荷(せいか)」に対する言葉だ。現在でいうところの「密貿易」や「密輸」に当たる。
江戸に献上するものや各藩主らから注文された品物は「除物(のけもの)」と呼ばれ、正荷からこれらを除いた品物が商人たちの売買の対象となった。落札された品物には「手板(ていた)」が付けられ、落札者の名前や品名が確認できたという。そして、この手板のない品物が、どうやら「抜荷」と疑われたようだ。
当時は「鎖国政策」が進められていた世である。
キリスト教布教からのヨーロッパ諸国の日本侵略への警戒、また貿易利潤の独占を目的に、幕府は異国との接触を極限まで制限した。そんな中で最終的に貿易を許されたのが、オランダと中国(唐)である。

オランダとは、慶長14(1609)年に正式に国交を締結。
当初は日本のどの港に入港してもよいと寛大な通達がなされ、長崎の平戸にオランダ商館が開かれた。だが、寛永13(1636)年、幕府は鎖国政策の一環として中島川下流の洲に人口島「出島(でじま)」を築造。その数年後、平戸のオランダ商館はこの出島に強制的に移され、厳格な管理下に置かれることに。
一方、中国への対応は、もう少しあとのこと。
貞享2(1685)年の「定高(じょうだか)貿易法」により、中国船は毎年銀6000貫、オランダ船は銀3000貫と、それぞれの国の貿易高の上限が定められた。
これ以降、抜荷が多くなったこともあり、元禄2(1689)年、今度は「唐人屋敷」を造成。場所は、オランダ商館が移された出島近くである。そして、それまで市内に居住していた中国人らを「唐人屋敷」へと押し込んだのである。

「出島」と「唐人屋敷」への一極集中だなんて。
「抜荷」に対する意気込みがとてつもなくスゴイのだが。
確かに落ち着いて考えれば、それもそのはず。
当時の抜荷は、いわば国の独占的利益を横取りする重大犯罪。特に鎖国時代では「抜荷」の持つ意味や犯行の重大性が、現代と比して遥かに重かった。ゆえに、幕府が「断固として許すまじ」と、執念のようなどす黒い使命感を持つのも当然といえるだろう。
あらゆるヒト、モノを監視せよ!
そんな幕府の命を受け、実質的に抜荷阻止の役割を担ったのが「長崎奉行所」である。
彼らとて人の子。抜荷の誘惑もあっただろう。そんな己の欲望を封じて、長崎奉行所はあらゆる手段を講じた。具体的には、来航直後より「ヒト」と「モノ」にピタッと張り付き、徹底的に監視したのである。
入港の一苦労
スウェーデンの博物学者で医学博士でもあったツュンベリー。
彼はオランダ東インド会社の外科医として、安永4(1775)年8月に長崎に到着。翌年の12月まで滞在している。
そんな彼が著した旅行記『江戸参府随行記』によると。
入港さえも、なかなかスムーズに進まず。長崎港よりも手前の島付近で、奉行所より検使や通詞(つうじ、通訳)らが小船で近付き、オランダ船であるか「旗合わせ」で確認。続いて、名簿と照らし合わせての人員点呼、船中の積荷の検査など、幾つかの手続きを経て。問題がなければ、やっと曳き船に曳かれて長崎港に入港できたとか。

もちろん、入港後も監視は続く。
『江戸参府随行記』には、当時の様子が記されている。
密貿易のために、…(中略)…特に暗闇につつまれた夜間で、かつ日本の役人が誰も乗船していないときは、一定の距離をおいて大きな監視船が何艘も、我々の船のまわりを囲む。さらに、たくさんの小舟が配備され、夜間の一時間ごとに、船のすぐ近くを漕ぎ回る。
(C・P・ツュンベリー著『江戸参府随行記』より一部抜粋)
役人の船が絶えず巡回し、民間の船は近付くことすらできず。
一方、受け入れる長崎の住民らも大変であった。
船を岸に繋ぐ場合は、帆やかじなどの船具はすべて取り外し、村役人へ預ける必要があったとか。これは船が抜荷で使用されないためである。まさに鉄壁の監視・管理体制が敷かれていたといえる。
探せ、探せ、探しまくれ!
抜荷防止対策のなかでも。
特に、積み荷の検査には力を入れていたようだ。
当時は、関税が課されておらず。ツュンベリーは「ごく少数の国だけに見られる、誠に幸運な恩典」と表現している。
だが、一方で、禁制品の持ち込みには非常に厳格な態度が貫かれていたとか。「ギリシア神話のアルゴス(体に多くの眼を持つ巨人)の眼が使われているほど」と記していることから、検査の場面での長崎奉行所の言動は容赦がなかったのだろう。

船上で、さらには上陸後と、複数にわたり検査がなされた。
ポケットに手を入れ、衣服の上から撫でる……なんて、そんな優しいモノではない。「身分の低い者は時に急所まで探られる。奴隷は髪の毛の中まで調べられる」というツュンベリーの不満からも、かなり徹底的な禁制品の捜索がなされたようだ。
それだけなら、まだマシな方なのだろう。
ツュンベリーによれば。日本に持ってきても悲惨な結末、つまり「損壊」されるモノもあったようだ。
寝具はたびたび切り裂かれ、中の羽毛をかき廻される。バター入り容器や砂糖菓子の壺は、鉄の棒をなかに差し込んでみる。チーズには四角の穴をくりぬき、そこから長い鉄串を入れて隅々まで刺してみる。日本人の疑い深さは、バタビアから持ってきた卵を一つ二つ取り出し、それを割ってみるところまで及んでいる。
(同上より一部抜粋)
いや、単純に。
切り裂かれたらぺしゃんこになって、寝心地よくないし。
チーズなんて、鉄串が刺された箇所から腐ってしまいそうな勢いである。せっかく荒波越えて運搬した卵まで割られる始末。
異国の人たちもさぞや困ったことだろう。
恐るべし、長崎奉行所の執念である。
接触できる人間を少なくせよ
もちろん、これだけでは終わらない。
さらには、日本側にも規制がなされた。オランダ商館の人や唐人など、異国の人たちと接触できる「ヒト」を制限したのである。ここでは一部だけご紹介しよう。
例えば、出島の場合。
出島の治安の責任を負っていた「出島乙名(おとな)」が挙げられる。
この「乙名」とは地役人のことで、今でいう「町長」のような存在だ。出島乙名は、オランダ人の相談に乗ったり、通行許可証の発行、水門の鍵の管理、建物の修繕の指揮など幅広い業務を任されていた。元禄9(1696)年より2名体制になったという。

また、言語が通じない彼らにとって最も重要だったのが「オランダ通詞」。今でいう通訳である。通詞は幾つかの階級に分かれており、世襲制の職だったという。その他にも私的な通訳集団である「内通詞」も貿易期間中は勤務していたようだ。
さらに独特なのが「探番(さぐりばん)」。出島に出入りする人たちが商品の持ち出し、持ち込みをしないように表の門で監視する役割だ。その名の通り、懐や袖に手を入れて探ったからだとか。
出島を例に出したが、唐人屋敷も同様。
唐人屋敷乙名がいて、唐通事(唐人に対しては言葉だけでなくすべての事柄と言う意味で「通事」となる)がいて、探番もいる。
こうして異国の彼らと接触できる「ヒト」を制限するコトで、抜荷のチャンスを徹底的に減らしたのである。
心に揺さぶりをかけて阻止せよ!
それでも、である。
ほとほと人間というやつは困ったもので。
抜荷が不可能な状況であったとしても、自ら潜在能力を解放し「不可能」を「可能」にすることも。
要は、人のやる気、意欲、モチベーション次第なワケで。
だったら、それを削げばいいではないかと講じられたのが、心理戦である。
まずは、犯罪抑止のための「厳罰化」だ。
これは、現代でも議論される内容だろう。身も蓋もない言い方だが、トラウマになるくらいの恐怖、そんな刑罰を定めておけば、心理的に犯罪が抑止されるだろうという発想である。
手っ取り早いのが「見せしめ」だ。
コチラは「獄門」。いわゆるさらし首だ。実際に『犯科帳』の内容を見ていると、抜荷の罪で「獄門」となった者もちらほら。さすがにこれは効き目がありそうだ。

もちろん、これだけでは不十分である。
厳罰化と併せて、抜荷を密告する「密訴」、自ら罪を認めて自首する「自訴」の奨励だ。
密訴の場合は褒美を与え、自訴の場合は刑罰を軽減。場合によっては、自訴により、主犯格の方が刑罰が軽くなるという逆転現象まであったとか。
一方で。
異国の人たちへの心理戦はというと。
目を覆いたくなるようなリアルタイムな処刑である。
誤解されそうだが、あくまで処刑されるのは日本側の人たちだ。オランダ商館の人や唐人らは抜荷に加担しても、命までは取られない。せいぜい罰金と国外追放などの出禁である。
つまり、わざわざ出島や唐人屋敷の前で日本人を処刑するコトによって、異国の人たちに抜荷の重大さを再認識させるという狙いなのだ。
ドイツの医者で植物学者でもあったケンペル。
先ほどのツュンベリーより、80年ほど早い元禄3(1690)年に日本へ来航。彼が長崎に滞在している期間中に、実際に出島の前で処刑が行われている。ケンペル研究の第一人者が著した『ケンペル 礼節の国に来たりて』( B・M・ボダルト=ベイリー著)によれば、以下のような記述がある。
ケンペルが日本に滞在した二年間に、五十人以上の日本人が処刑された。…(中略)…密輸がどんなに危険な行為であるかということをオランダ人に警告するため、一六九一年十二月オランダ人同席のもと、出島で密輸をしていた日本人二名の処刑が行われた。一人はオランダ人から樟脳わずか一ポンド購入しただけであり、もう一人は彼のために元手を貸してあげただけであった。
( B・M・ボダルト=ベイリー著『ケンペル 礼節の国に来たりて』より一部抜粋)
ここでいう「樟脳(しょうのう)」とは、現在も防虫剤に使われる、特異な芳香のある板状結晶のコト。医学分野ではカンフルともいう。
むむ。
それにしても、これはさすがに。えげつないのひと言。
オランダ商館の人たちからすれば、たまったものではなかっただろう。自分たちが持ち込んだ品のせいで、人間が目の前で処刑される。そんな悪夢よりも悲惨な光景はなかなか忘れられず。この心理的圧迫に耐えうるのは困難だったに違いない。
どのような手段でも、必ず抜荷を阻止するという強い思い。
たとえそれが事後であっても構わないという潔さ。それほどまでに長崎奉行所の意気込みは強かったのである。
抜荷せずにはいられない……異国の人たち
これほどの策を講じたのだから、抜荷は撲滅した……はず……。
と言いたいところではあるが。やはりというかなんというか。人の欲望は尽きぬワケで。結果的に抜荷は一向に減らず。
というのも、抜荷はなにも日本側にだけ利益があるものでもない。甘い汁を吸うのは異国側も同じコト。なにしろ幕府の目を盗んで持ち込み、こそっと売るだけで莫大な財を成すことができたのだ。それに、たとえ犯罪が明らかになったとしても、日本人のように命までは取られない。だったらと、軽い気持ちで抜荷に手を出すのは想像に難くない。
ただ、異国の彼らにとってもクリアすべき大きな壁がある。
それは、自国の船から出島や唐人屋敷へ品物を持ち出せるかというコト。
持ち出しさえできれば、あとは時間もたっぷりある。ゆっくり買い手を探せばよい。
さても、どうやって持ち出すか。
そんな彼らが考えた方法がコチラ。
「衣服の中に入れての持ち込み」である。
まあ、誰もが最初に考えつく安直な方法なのだろう。
これに関して、ツュンベリーは『江戸参府随行記』にて、驚くべき内容を記している。
すると船長は、銀モールの縁どりがある絹の青い上着をはおった。それは非常にゆったりとして幅広く、腹部あたりに大きなクッションが付いていた。この上着は長いあいだ、密輸品をこっそりと持ち込むために常用されていた。船長は上着を一杯にふくらませて、船から商館へ日に三往復するのが常であった。そしてあまりに重い物を持って頻繁に上陸するので、船員二人が両腕を支えねばならないほどであった。
(C・P・ツュンベリー著『江戸参府随行記』より一部抜粋)

いや、完全にやりすぎだろ。
クッションつけてるって。
両脇をふたりに支えられるって。
どんだけ品物を持ち込んでいるんだと呆れかけて。ふと、我が身を思い出した。
確かに、うむ。格安航空機のピーチに乗るとき……。
機内持ち込み重量の上限に引っ掛かった場合に、彼らと同じコトをしているではないか。財布やらスマホやら文庫本などポケットに入れまくって……。さすがに、心が痛くなってきた。批判するのはここまでにしておこう。
実際のところ。
これらはまだ序の口の話で。ツュンベリーによると、数年前には下士官が鸚鵡(オウム)をズボンの中に隠したとか。まさに心臓に毛が生えたような強者である。もちろん、検査中に鳥が喋り出して即アウト。そりゃ見つかって当然と思いきや……。ふと、我が身を思い出した。
えっ?まさか、ダイソン?
確かに……さすがに……それはやったことがないと。ひとり安心したのである(そりゃそうだろ)。

だが、この方法も永遠に取りうるワケがない。
だって、これらがまかり通るのは、船長やオランダ商館長の検査免除の特権があってこそ。検査されてしまえば、抜け道はほぼなくなるのだ。
そして、ツュンベリーが来航した安永4(1775)年。
彼は、上陸に際して「愉快な気分にはなれなかった」と記している。
なぜかって?
そうなのだ。とうとう、長崎奉行所も気付いたのだ。
じつは、オランダ商館側に新しい通達を突き付けたというのである。その内容は、主に「船長」に対してのモノだった。船長並びに商館長も検査を受けるコト、船長は今後、他の乗組員と同じ衣服を着用するコト、さらには船長は全滞在期間中、2回以上船に行ってはならないとされたのである。
事の発端は、明和9(1772)年に起きた「ブルグ号遭難事件」である。
オランダ東インド会社のブルグ号は日本への航海途中に、運悪く暴風雨に遭って大量に浸水。当時の船長らは沈没すると判断して、火をつけずにそのまま乗り捨てた。つまりブルグ号を放棄したのである。
だが、予想に反してブルグ号は沈まず。
なんなら力強く薩摩沖を漂流し、その後、日本人が発見。こうして長崎港に曳航されたというワケだ。もちろん、長崎奉行所は待ってましたとばかりに、ブルグ号を隅々まで捜索。その結果、船長ら上級士官の名前が記された多数の箱を発見したのだが、その中身がヤバかった。大半が禁制の密輸品で、特に日本から固く持ち込みを禁じられていた「広東人参らしきモノ」もあって、日本側を大激怒させたのである。

その結果、もれなく船長も検査対象に。
そして、遂に。新しいお達しの下、あの船長が上着を脱ぐ羽目に。
その直後の反応がコチラ。
そして今や憤懣やるかたないおもいで、最後のよるべである上着を脱がざるを得ないのである。何も知らない大勢の日本人が、今年の中肉の船長を見て、ただ驚いている様子は少なからず滑稽であった。日本人はこの時まで、いつも見てきたように船長はでっぷりとした肥満体であると思い込んでいたからである。
(同上より一部抜粋)
もう、どんだけなんだと……言葉を失くすが。
当事者側にいたツュンベリーは、こう振り返っている。
取り締まりが厳しくなった原因は、オランダ商館側にあると。
まさにその通り。
あの手この手で抜け道を探っていた彼らが、やり過ぎたのである。
だが、取り締まりが厳しくなっても。果敢に出島への持ち込みに挑戦する者は後を絶たなかったようだ。
抜荷せずにはいられない……日本人
もちろん、抜荷を語る上で忘れてはならないのが。
日本側の「抜荷せずにはいられない」人たちだ。コチラにも触れねばなるまい。
『犯科帳』には、様々な方法で抜荷を試みた人たちの無残な結果が記録されている。当時、出島や唐人屋敷に出入りできた遊女を使った男、自力で泳いで異国船へと向かったが途中で溺れた男など……挙げたらキリがないほど。
そんな「一攫千金を夢見る有象無象」の中から。
とっておきの事件をひとつ。サクッとご紹介して本記事の締めとしよう。
安永8(1778)年のコト。江戸時代の中でも、ちょうどツュンベリーが来航した時代の話である。
主犯は、遠見番の孫之進。
ちなみに、江戸幕府が外国船を見張るため、沿岸各地の要所に設けた番所を遠見番所という。孫之進はそこに務める男である。
そんな彼の家は、なんと唐人屋敷から目と鼻の先にあったとか。

もうこの情報だけで、既にイヤな予感しかしないのだが。
その後、孫之進は唐通事らを仲間に引き入れて、ある程度の人員を確保。そして、彼らと共に、家の床下に穴を掘り始めたのである。
掘って、掘って、掘りまくって。
とうとう、唐人屋敷の堀にまでトンネルは到達。
孫之進は、このトンネルを通じて唐人屋敷へ。唐人らと物々交換で麝香(じゃこう、香料の一種)を手に入れたのである。だが、やはり天は味方せず。夢にまで見た麝香は、まさかの偽物。唐人らに一杯喰わされる結果に。
そうこうするうちに、女房に地下トンネルの存在が発覚。
まあ、家の床下だからね、さもありなんというところか。この女房、なんと大説教。「役目が役目だというのになんという恐ろしいことをして」と、孫之進は諫められ、大反省。改心をして穴口を埋めたという。
だが、しかし。
あの、えもいわれぬ高揚感が忘れられず。
偽物とはいえ、唐人屋敷からの持ち出しは成功したのだ。もっともっと。そんな欲望に支配されてしまったのだろう。孫之進は再び穴口を掘り開けて、再びトンネルで唐人屋敷へ。また物々交換に手を染めたのである。
ただ、いつかは必ず。
悪事はバレるワケで。
その後、孫之進ら一味は捕縛され、長崎奉行所より出された判決はというと。
孫之進は、引き廻しの上獄門。
他の仲間らは壱岐国への流罪など。
こうして、誰ひとりとして幸せな結末を迎えるコトはできなかったのである。
最後に。
因果応報。
自業自得。
「抜荷」とくれば、様々な四字熟語が頭に浮かぶが。
やはり、締めは、雲散霧消で。
「抜荷」という長崎ドリームに手を出すと。
これまでの人生、そしてこれらかの未来が跡形もなく消えてしまう。
まるで雲や霧が消えるように。
すべてが無に帰すのである。
撮影/大村健太
参考文献
『江戸参府随行記』 C・P・ツュンベリー著 平凡社 1994年11月
『ケンペルやシーボルトたちが見た九州、そしてニッポン』 宮崎克則編 海鳥社 2009年8月
『ケンペル 礼節の国に来たりて』 B・M・ボダルト=ベイリー著 ミネルヴァ書房2009年9月
『犯科帳 長崎奉行の記録』 森永種夫著 株式会社岩波書店 2018年10月
『長崎丸山遊郭 江戸時代のワンダーランド』 赤瀬浩著 株式会社講談社 2021年8月

