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面影の月と星
今回の歌の作者、建礼門院右京大夫は、高倉天皇(たかくらてんのう)の中宮徳子(ちゅうぐうとくこ 後に建礼門院)に仕えたうら若い女性の名である。
右京大夫は例によって彼女の縁者の官名などで、同僚からは右京さまなどと呼ばれていたことであろう。
承安二年(一一七二)、徳子(平清盛女 たいらのきよもりのむすめ)は中宮となり、その御所には平家の公達(きんだち)や関係者が連日のように出入りし、時の権門の栄えを如実にみせていたであろう。
右京大夫が御所に出仕したのはまだ十代の半ば過ぎのころであったが、新参の慎み深さを保ちながらも交際は広く大胆なところもあった。
右京大夫の家は文化的な名門でもあった。母は琴の名手として知られた夕霧。
父・伊行(これゆき)は和様の書法(世尊寺流 せそんじりゅう)の大家であり、『源氏物語』の最初の注釈書を書いた人でもある。
右京大夫はおそらく和歌と琴の巧者をもって出仕していたのであろう。
右京大夫は小松家と呼ばれる平重盛(しげもり)家の人々と親しかったようだ。
五節(ごせち)の舞姫の試楽(しがく =予行演習)の日には親しい男性に櫛をおねだりする風習がみとめられていた。
右京大夫は早々に平宗盛(むねもり)に櫛をねだり、和歌の贈答をしているし、時にはまた、重盛の嫡男・維盛(これもり)の瀟洒(しょうしゃ)な衣装に照り映える美貌に心を奪われたり、三男の清経(きよつね)の恋に口をはさんでたしなめられたり、少しのおせっかいも楽しみの一つになっていたらしい。

そんな宮仕えのくらしの中で、右京大夫がいつしか深い恋仲になっていったのは維盛のすぐ下の弟・資盛(すけもり)であった。
資盛といえば『平家物語』初巻の中に特筆された「殿下乗合(てんがののりあい)」の主人公、十三歳のまだ世間的な身分や礼儀もわきまえないやんちゃな少年貴公子の奢(おご)りの姿が語られている。
それから数年後、急に大人びた右京大夫は、ほかに心を動かすこともなく、年齢も近い二人の間には満ち足りた相思相愛の歳月が流れていったようだ。
しかしそうするうちにも、清盛の権勢にまかせた横暴への怒りは人心の離反を招くようになり、治承元年(一一七七)には鹿ケ谷(ししがたに)事件が起き、平家打倒の火の手は後白河法皇(ごしらかわほうおう)の身辺からも生まれそうな予感が走る。
山法師が神輿(しんよ=みこし)を振っての強訴(ごうそ)も激しくなり、地方でも平家によって任官された者と、土地の実力者とが衝突したりするようになっていった。
そのころ清盛の嫡男・重盛は病んでおり、その嫡男の維盛はこうした時局に対処する力をもってはいなかった。
そうした中で、資盛との恋も逢う日も間遠になってゆくが、貴族の女性として育った右京大夫は反平家という時代の動きに敏感であったとはいえない。
しかもそのころ、資盛には正室が定まるらしいという噂がきこえはじめた。もしや資盛に捨てられたのではという不安がつのる。
おもかげを心にこめてながむればしのびがたくも澄める月かな 右京大夫
(資盛さまはその後どうしておられるのか。その面影を心にこめて眺めていると、堪えがたいまでに澄み透ってゆく月の光よ)
やがて枯野の萩に時雨が走り、霜枯れの菊の花が衰えていくのを眺めながら、右京大夫は資盛との恋が円満であった年月を思いかえし、その一齣(ひとこま)一齣を歌に詠んで心をなぐさめるほかなかった。
資盛との恋が思わしくないまま、右京大夫は宮仕えも引退してしまう。

回想に残る雪の朝のことだ。資盛が前ぶれもなく突然訪ねてきたことがあった。
いきなり戸を引きあけて入ってきた資盛の姿の何と鮮やかなことであったか。
枯野色の織物の狩衣(かりぎぬ)に濃い紅の衣。紫の織物の指貫(さしぬき)を召して目を見張るほどの美しさ。
特に用事があったわけではなく、右京に逢いたい一心だけが見えた一瞬だった。
その日の嬉しさが鮮やかに蘇る。けれどそれももう昔のことだ。
みるままに雲ははれゆく月かげも心にかかる人ゆゑになほ 右京大夫
(資盛さまのことを思いつつ空を眺めていると、むらむらと雲が動き月があらわれたが、その月光さえ、いっそうあの方のことを思う心をなぐさめてはくれない)
資盛との恋ははじめから無かったこととして諦めようと心に決める。しかしなお資盛の面影は深く右京大夫の心に住みついていた。
しかも、こんな時、時代は大きく動いた。治承三年(一一七九)、平家の大黒柱だった重盛が亡くなると、その翌年には源頼政(みなもとのよりまさ)が以仁王(もちひとおう)を奉じて反平家の旗を揚げた。これを契機に源平争乱の時代が始まる。
平家一門が都を捨て西海に船を浮かべ九州を目指すのは、寿永二年(一一八三)七月のことである。
こうしたあわただしい状況の中、ある日、世間にかくれるようにして資盛がやってきたことがあった。
右京大夫はその時、嬉しいというより、資盛が急速に大人びた凜々しさを身に持ち、平家を支える中核にいる若武者としての風貌を具えていることに気づいた。
資盛はすでに遠くない死の覚悟を抱いて、一期一会の言葉を交わすべく逢いにきたのだ。

資盛の言葉を聞こう。
「このように平家が追われる世になったからは、私が戦場で死ぬであろうことは疑いもありません。
あなたとの長いおつき合いの中で、お察し下さった私の立場や人生に少しの哀れは感じて下さっていたと思います。
どうぞこれからは私の亡きのちを弔う心を持って下さい。
今の私は、平家の栄華の中で育った公達などではありません。ただ、今を生きている命一つを持っているだけの人間です。
“死”という真実にたどりつく道を知ってしまえば、わずか二十年ほどの人生に知った“もののあはれ”の情にも長くこだわることなどできません。
都に残してゆくあなたやそのほかの人々のことも、思いはじめたらきりもないこと。
非情のようですが、私はどこの浦里にあろうとも、一切文などを書こうとは思いません。
それはあなたを疎かに思ってのことではありません。
これからの私は平家の運命に殉ずるほかないと決心したのです。
とはいえ、時にはあなたと過ごした月日を恋しく思い出さずにはいられないでしょう」
その後二人は、静かな長い抱擁ののち、永遠に別れることとなった。
右京大夫の人生の中で、いままでにない親身ないとしさ、哀しさをもって、資盛という命を抱きしめ、この人の人生に殉ずる愛を自覚したのではなかろうか。
資盛の亡きあと、右京大夫はゆかりの地をめぐりつつ、旅をした。
比叡(ひえい)の麓に泊まった夜、雨とも雪とも定めがたい空模様であったが、夜半になり空を見ると、澄んだ浅葱(あさぎ)の快晴の大空。
そこに大小の星が箔を押したように全面にかがやいていた。
絢爛としながらさびしく、心のうちに秘めていたことばが、思いきり発散したような星空に、ふしぎな味わいを感じさせられた。
月をこそながめなれしか星の夜のふかきあはれを今宵しりぬる 右京大夫
月をながめつつ物思いをすることに馴れ親しんだ年月ではあった。けれど満天の星月夜の、身に滲む無音の世界に対(む)きあい、しみじみと生の深淵にとどくような思いをした右京大夫であった。

馬場あき子 歌人。1928年東京生まれ。学生時代に歌誌『まひる野』同人となり、1978年、歌誌『かりん』を立ち上げる。歌集のほかに、造詣の深い中世文学や能の研究や評論に多くの著作がある。読売文学賞、毎日芸術賞、斎藤茂吉短歌文学賞、朝日賞、日本芸術院賞、紫綬褒章など受賞歴多数。『和樂』にて「和歌で読み解く日本のこころ」連載中。映画『幾春かけて老いゆかん 歌人 馬場あき子の日々』。

