Culture

2026.09.06

「悪人こそ救われる」ってどういうこと?親鸞が90年かけてたどり着いた答え

人は迷いながら生きています。それは今も昔も西洋も東洋も変わらないものです。歴史書には『人の思い』までは書かれていません。しかし当時の宗教を通してみると、当時の人々が何に悩んでいたのかが垣間見えてきます。
文・樽瀬川

今回紹介するのは、浄土真宗(じょうどしんしゅう)の開祖・親鸞(しんらん)についてです。「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と阿弥陀如来を称え、阿弥陀如来によって救われるという浄土教の教えを説き、「善人をもって往生を遂ぐ。いわんや悪人をや」という究極とも言える平等の思想を持っていました。

ではその思想を得るまで、どのような生涯を送ったのでしょうか。

親鸞の半生

親鸞が生まれたのは、平清盛(たいらの きよもり)がブイブイ言っていた、平家全盛期。承安3(1173)年とされています。父は日野有範(ひの ありのり)という貴族で、皇后に仕えていました。当時の天皇は高倉(たかくら)天皇で、皇后は清盛の娘・徳子(のりこ / とくし)です。

親鸞は幼い頃から何度か名前が変わるのですが、この記事では「親鸞」で統一します。

親鸞の出家

幼い親鸞が数え9歳になった治承5(1181)年、青蓮院(しょうれんいん)に入り、出家します。この年、京都周辺では大飢饉があったことが理由のひとつになったと考えられます。そしてその後、比叡山延暦寺(ひえいざん えんりゃくじ)で約20年間修行をしたと言われています。

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吉田初三郎『比叡山延暦寺名所図絵』 出典:京都府立京都学・歴彩館 歴史資料アーカイブ

青蓮院も比叡山も天台宗(てんだいしゅう)のお寺です。厳しい修行によって悟りを目指す天台宗で長年修行を続けましたが、親鸞はその修行がしっくり来なかったようです。

法然との出会い

建仁元(1201)年、数え29歳で親鸞は比叡山を下山し、聖徳太子が建立したと言われる頂法寺(ちょうほうじ)の六角堂に百日籠りをします。そこで聖徳太子が夢に現れて「法然(ほうねん)に会いに行きなさい」と告げられます。

法然は親鸞の40歳年上の僧侶で、親鸞と同じく比叡山で修行をし、その後浄土宗の開祖となった人です。親鸞は、早速法然の元へ行きその教えを学びました。

『法然上人像』 出典: 慶應義塾(センチュリー赤尾コレクション)

親鸞が特に感銘を受けたのが、阿弥陀如来を信じ、ひたすら念仏を称える『専修念仏(せんじゅ ねんぶつ)』の教えでした。法然の元で修行をし、徐々に一目置かれるようになります。

浄土宗の受難

しかし、本来なら厳しい修行を経て極楽へたどり着くという考えを持つ他の宗派からは、ただ念仏を唱えるだけで極楽へ行けると説く浄土宗の教えは、よこしまなものに見えたのでしょう。朝廷に念仏を止める命令を出すよう訴えが入るようになります。

そして建永2(1207)年2月、浄土宗は後鳥羽上皇の怒りに触れます。原因は後鳥羽上皇に仕えていたふたりの女房(高位の侍女)が、後鳥羽上皇の留守中に浄土宗に入信し出家してしまった事件です。しかもその女房たちは僧侶と密通していたという噂が流れたことが、後鳥羽上皇の激しい怒りの原因でした。

女房たちの出家に関わった僧侶は死罪。法然と親鸞は僧籍を剥奪されて強制的に還俗した上で流罪に処され、法然は土佐国(とさのくに/現・高知県)へ、親鸞は越後国(えちごのくに/現・新潟県)に流されました。これが「承元(じょうげん)の法難(ほうなん)」と呼ばれる事件です。

僧であり妻帯者

ここで、親鸞の変わったエピソードを紹介します。実は親鸞は妻帯していました。当時の仏教では、僧は独身を貫くもので、女性と肉体関係を持つことは禁じられていました。

しかし法然は「阿弥陀如来は僧だろうが僧でなかろうが救ってくださる」と説いていたといいます。法然は妻帯をしていたわけではありませんが、親鸞はこの教えを元に、のちに恵信尼(えしんに)と呼ばれる女性と結婚し、子をもうけました。

田中佐一郎『恵信尼』 出典:愛知県美術館

恵信尼との結婚時期がいつかははっきりとはわかりませんが、越後の流罪にも同行し、その後の生涯も共に歩んでいきます。

京への帰還から坂東へ

流罪から5年近く経った建暦元(1211)年11月、法然と親鸞はついに京都に帰ることを許されました。法然が京都に着いたと聞き、親鸞も師匠と会いたいと願っていましたが、この時期の越後国は豪雪で身動きが取れません。春を待っていましたが、翌建暦2(1212)年1月に法然は80歳で亡くなってしまいました。

その直後の親鸞の動向は定かではありません。越後国にとどまったとも、京都へ戻ったとも言われています。

再び親鸞が動き出すのは建保2(1214)年。42歳となった親鸞は布教活動のために関東地方へと向かいました。そして常陸国(ひたちのくに/現・茨城県)に拠点を置き、約20年間を布教活動に専念しました。

60代になると京都へ戻り、今度は著作の執筆活動に精を出します。そこから30年近く、数々の書籍を著し、弘長2(1262)年に90歳で亡くなりました。

親鸞の教え

親鸞は亡くなるまで、数々の著作を残しましたが、その代表作が『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』と呼ばれるものです。正式名称は『顕浄土真実教行証文類(けんじょうど しんじつ きょうぎょうしょうもんるい)』といいます。

全六巻の浄土真宗の聖典です。内容は、法然の論文『選択集(せんちゃくしゅう/せんじゃくしゅう)』の解説書です。親鸞直筆の本は現在は国宝となっています。

『教行信証』の解説だけで多くの本が江戸時代から作られているほどなので、ひと口にどんな内容かを語るのは難しいのですが……。序文にはこのように書かれています。

他力本願について

難思(なんじ)の弘誓(ぐぜい)は難度海(なんどかい)を度する大船

菩薩の誓いは、おおよそ人が考えようとしても考えることができない境地のものです。「願をたてる」という行為は、それに見合う修行をしなければならないものですが、阿弥陀如来は「この世に生きとし生けるものを救う」などという途方もない願をたてています。

『阿弥陀如来像』 ColBaseから加工

ならば自分で修行するよりも、この阿弥陀如来がたてた誓願に乗っかろう。この阿弥陀如来の誓願こそが難度海……、人間の果てしない苦しみや迷いに満ちた人生を渡る大船になる……という、まさに「他力本願」を説明する言葉です。

無礙(むげ)の光明(こうみょう)は無明(むみょう)の闇を破する慧日(えにち)なり

これは浄土教の教えの本質にあたる部分です。人は孤独を感じる時、たとえ実際には周りに多くの人がいたとしても孤独を感じています。しかし浄土教は「闇の中にいる必要はない」「自分は孤独だと閉じこもっている暗闇を破れば、世界が広がるよ」と説いています。

本来なら世界を広げ、明るい光の中に行くには厳しい修行が必要でしょう。しかし浄土教の教えではその孤独を破る光が「光明」。すなわち阿弥陀如来の誓願です。その光は遮られることのない太陽(慧日)なのだ……というふうに書かれています。

悪人正機について

ひとしく苦悩の群萌(ぐんもう)を救済し、世雄(せおう)の悲、まさしく逆謗闡提(ぎゃくぼう せんだい)をめぐまんとおぼす

群萌とは悩める人々のこと、世雄とは仏のことです。逆謗闡提の「逆」は「五逆(ごぎゃく)」という仏教で最も重い五つの罪、「父殺し」「母殺し」「悟りを開いた聖者を殺す」「仏の体を傷つけ、血を流させる」「教団の和を乱し、分裂させること」です。

そして「謗」は仏の教えを非難し攻撃すること、「闡提」は仏教の教えを信じないこと。これらの罪を犯した人を、仏教は「救いようのない悪人だ」としてきました。

しかし、阿弥陀如来がこの世に生きとし生けるすべての者を救うというのなら、このような悪人にも救いの手を差し伸べるのだ。浄土教とはそのような者のための教えであるというような意味です。

これは親鸞が掲げた「悪人正機(あくにん しょうき)」の考えそのものとなります。「善人をもって往生を遂ぐ。いわんや悪人をや」という言葉は、「悪人の救済こそが、阿弥陀如来の誓願なのだ」という意味なのです。そしてその悪人が救われる方法が「他力本願」という言葉に集約されています。

親鸞が救いたかったもの

「他力本願」というと、自分がやるべきことを他人に丸投げして、やったことにしてしまう……という良くない考えだというイメージがあります。しかし、いざ仏教によって救われようとしたときに、生死に関わるような厳しい修行をやり遂げられる人などどれほどいるでしょうか。

親鸞は比叡山での修行に疑問を持ち、山から下りた人です。しかも当時の仏教ではタブーとされる妻帯をし、子どもまでいます。「自分はひとつの修行も成し遂げられない。成し遂げられないのはなぜか……」と、深く考えた時に、親鸞は「自分自身の本質が悪人だからだ」と定義しました。

もちろん親鸞は誰かを殺したこともなければ、何かを盗んだり、人を傷つけたりしたこともありません。ここでいう悪人は現代的な「犯罪者」という意味の悪人ではありません。

修行ができないのならば、阿弥陀如来の誓願(他力)に頼るしかない。すると「他力に頼るような自分は悪人なのだ」ということになる。しかし悪人は自分で修行ができない。だからこそ、他力に頼らざるを得ない。そのような人間の深い業を突いた言葉なのです。

親鸞の死後の浄土真宗

偉大な指導者が亡くなった後、その教えの解釈の違いによりいろんな宗派に分かれることが多々あります。時には本人の教えとはかけ離れた言葉でひとり歩きしてしまうこともあり、それを嘆いた親鸞の直弟子が親鸞の言葉として書き残したのが『歎異抄(たんにしょう)』です。

著者は諸説ありますが、現在のところ最有力候補が、親鸞の晩年の直弟子である唯円(ゆいえん)です。その後、室町時代の浄土真宗の僧・蓮如(れんにょ)によって書写され、広く知られるようになりました。

『歎異抄』は比較的平易な言葉で書かれているため、親鸞の思想に触れる入門書としてもよく読まれています。そしてそこには誰もが抱く「どうして自分には悪いことばかり起きるのか」「どうして自分は何をしても上手くいかないんだ」といったネガティブな感情に対して手を差し伸べる言葉が散りばめられています。

こうして親鸞の教えに触れてみると、案外親鸞って普通の人だったのかもしれない……と私は思いました。「まず自分が救われたい」という思いがどこかにあったのかな……と感じます。

僧侶なのに厳しい修行を成し遂げず、妻帯して子までなす……そんな矛盾だらけで深い業を背負った自分が救われた姿を見せれば、みんなも「自分も救われるのかもしれない」という希望を持つ。自分が実践して見せれば、みんなも「自分もできるかもしれない」と一歩踏み出してくれるだろう。そんなふうに考えていたんじゃないかな、と個人的に思いました。

そういう人だったからこそ、800年も経って時代や価値観が変わっても、普遍的な「悩める人々」に対して手を差し伸べているような言葉として、親鸞の教えが残っているのでしょうね。

アイキャッチ画像
田中佐一郎『親鸞』 出典:愛知県美術館

参考文献
石田慶和『親鸞『教行信証』を読む』(響流選書)
山口謠司監修『眠れなくなるほど面白い図解歎異抄』(日本文芸社)

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樽瀬川

神奈川県横浜市出身。地元の歴史をなんとなく調べていたら、知らぬ間にドップリと沼に漬かっていた。一見ニッチに見えても魅力的な鎌倉の歴史と文化を広めたい。
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