というのも、つい、先日。
最近なにかと話題の「ちいかわ」について、世代も職業もバラバラの人たちと話をしていた時のこと。
「かわいい」という言葉で思い浮かべるモノやヒトは、あまりブレないコトに気づいたのである。
「ちいかわ」に限らず。
それぞれが「かわいい」と思うモノやヒトに対して。
互いに「確かにねー」「わかるー」と共感の嵐。
だが、「カッコいい」についてだと、途端に話が変わってくる。
「いや、わからん」
「ないない」
単に私たちの心が狭いのか、ゆとりがないのか。
あるいは、遠慮がないだけかもしれないが。
なぜか、互いの意見を否定しがちに。
そこで、考えてみた。
「かわいい」に比べると、「カッコいい」の定義は恐らく広いのだろうと。
そして、わたしは。
「カッコいい」の中でも「地味カッコいい」のが好みなのだと(聞いてねー)。
確かに、聞いてないよね。あたいの好みなんて。
っていうか、わざわざ知りたくもないよね。あたいの好みなんて。
でもね。
今回の記事のテーマ発表となるから、説明を省くワケにはいかないのだよ。
とかく「カッコいい」という定義の範囲は、想像よりも遥かに広い。
惚れ惚れするほど仕草が、カッコいいとか。
自分の道を突き進む生き方が、カッコいいとか。
窮地の状況で助けにくる登場の仕方が、カッコいいとか。
この場面でそれ言う?って腰砕けるほどの言葉が、カッコいいとか。
まあ、人の数ほど。
いや、それ以上に、「カッコいい」は多種多様。
そして、その中でも。
わたしの好みは、かなり明確。
決して派手さはないが、地味なカッコよさに痺れるのだと。
遅ればせながら、そう、気付いたのである。
ということで。
今回は、戦国武将たちが巻き起こす数ある名場面から。
あえて「地味カッコいい」場面をセレクト。
「戦国武将爆笑エピソード集(地味カッコいい編)」と題して、皆さまにお届けしたい。
さても、どのような人たちがご登場するのやら。
「ないない」というお声が挙がらないコトを祈るのみ。
それでは、早速、ご紹介しよう。
※本記事は「上杉謙信」「立花宗茂」「豊臣秀吉」の表記で統一しています
違う意味で動けない……?上杉謙信
最初の方はというと。
コチラは、戦国エピ「怪異編」以来となる、久しぶりのご登場。
「越後の龍」こと、上杉謙信……。
いや、正確には「上杉謙信with上杉勢の皆さん」である。
珍しく、今回は団体でのご登場である。
その代表の方として「上杉謙信」の簡単な説明から。
「謙信」と名乗るのは、入道(仏道に入る)後の話。ついでにいうと「上杉」姓も、途中からである。これは、上杉憲政から上杉姓と関東管領職(室町幕府の職名で鎌倉公方の補佐役)を譲られたのがきっかけだ。元は越後国(新潟県)守護代で「春日山城」城主であった父「長尾為景」の「長尾」姓である。
その上、姓だけでなく。
じつは、名も「景虎」や「政虎」、さらには「輝虎」とコロコロ変わっている。ゆえに、様々な書籍には、長尾景虎やら上杉輝虎やらと別人のような名前が出てくるが、同一人物である。ここでは一番有名な「上杉謙信」と取り巻きの「上杉勢」で表記する。
時代的にみると。
上杉謙信は織田信長や武田信玄と同時期の武将だ。
武田信玄よりは5年ほど遅く、織田信長よりは4年ほど早くに没している。享年49。現代の感覚からすれば、短すぎる一生であろう。
権威や伝統に重きを置き、毘沙門天の熱烈な信仰者である一方、かなりの酒豪としても有名。和歌などを好み、文化人としての顔を持つ。戦国の世では珍しく生涯独身を通し、謙信の死後はふたりの養子の跡目争い(御館の乱)で混乱が続いた。

さて、そんな謙信の地味カッコいい場面についてだが。
出典は、192名の名将の言行をまとめた『名将言行録』より。
時代はというと、バッチリ「永禄四年、輝虎は小田原蓮池まで攻め入って」と記されていることから、永禄4(1561)年の小田原城攻めであろう。
当時、既に越後国(新潟県)の地盤を固め、外征に目を向けていた謙信。
永禄4(1561)年には、関東や越後の軍兵を指揮して北条氏康の小田原城へ。当時、小田原城の北側には蓮池があったというから、その辺りまで攻め入ったと推測できる。
ちなみに『名将言行録』で取り上げられている部分は非常に短い。
軍記物の『松隣夜話(しょうりんやわ)』でも同じ場面が描かれているため、そちらで一部を補完しながら進めよう。
『松隣夜話』によると。
謙信は側近らを従え、小田原城の蓮池付近まで進んだという。どうやら、城内から兵が出てきたところを一気に攻め入って勝負に出ようと考えていたようだ。
だが、しかし。
小田原城内からは誰ひとり出て来ず。依然、北条軍に変化なし。
そこで、謙信はというと。
池の両端に馬をつなぎ、弁当を取り寄せて茶を飲んでいた。
(岡谷繁実著『名将言行録』より一部抜粋)
もう、ここからですよ。皆さん。
この余裕。わかります?
いつ城兵が出てくるやもしれぬという緊迫した場面で、弁当に茶。
やはりね、ダイソン思うんですよ。大事なのは「口」じゃないって。
ムダな言葉を発することなく、己の行動だけで示す度量のデカさ。この一文だけでも、どう見たって「地味カッコいい」じゃないっすか。
もちろん、これには続きがある。
弁当食べて、ハイ終わりというワケではない。
なんと、小田原城内から……。
そこに城兵が出丸から鉄砲十丁ほどならべて、三十間ぐらいの距離から、三度まで撃ちかけたが、左の袖、鎧の鼻などにあたっただけで、毛筋一本ほどの差で体の方は無事であった。(同上より一部抜粋)
『松隣夜話』では「金澤」という者が小田原城内から鉄砲を撃ったと記している。
三十間とは、今でいうと55m弱くらいだろうか。その距離から鉄砲10丁で、謙信のいる場所を狙って3度も撃ったというのである。

まさかの絶体絶命のピンチ到来である。
さっきまでの弁当&茶のほっこりムードはどこへやら。
それにしても、いきなり狙われたというのも驚きだが。強調したいのはそこではない。遠くから放たれた鉄砲の弾が、左の袖やら鎧の鼻にって……。
……。
いや、それはもう。
完全に被弾してもうてるやないかい。
「毛筋一本ほどの差」っていうけど。ほぼ命中と同じではないのか。
そんな目に遭った当の本人、謙信はというと。
さあ、ここで。
やってきました。ダイソンのイチ押し場面。
では、皆さま、心の準備をなさいませ。
カッケー謙信の様子が、コチラ。
輝虎は少しも動ぜず、ゆるゆる茶を三服も飲んで、いかにも悠々閑々たるようすでいたので……(同上より一部抜粋)
「茶」だぜ?
ここにきて「茶」。
繰り返すが、弾丸飛び交うなかでの「茶」。
あろうことか、謙信は少しも動揺せず。
なんと、長々と茶をすすっていたのである。
ホントさ。この男、あまりにもカッコよすぎやしないか?
確かに、謙信の動きに派手さはない。
だが、鎧に被弾してもなお、悠々な雰囲気をまとい続けることができる、その余裕。それって、なかなか見せられるものじゃない。逆をいえば、溢れんばかりの自信があるってコト。
さらに、である。
既に心奪われたってのに。ダメ押しの場面がコチラ。
左右にいた兵士も髪の毛に触れるほど近々と弾丸が飛んできたが、頭をさげて避ける者さえいなかった。(同上より一部抜粋)
いやねえ。それがまた。
謙信だけではないのよ。
左右にいた兵士らも、頭を下げて弾を避けないなんて。
じわじわくる、この「カッコよさ」の浸透感。わかります?
とっても静かなんだけども、「謙信with上杉勢」の圧倒的な余裕がね。「地味カッコいい」の渋滞なんてものじゃない。もう完全に道路封鎖。
ただ、一方で。
ちょっとばかし意地悪なダイソンは、こう思う。
謙信はどうだか知らないが。ホントに全員に余裕があったのかって。
ひょっとすると。
いや、周囲の兵らの中には、絶対、ビビりまくって動けなかった者が少なからずいたはずだと。
だって。
弁当中に被弾だぜ。
恐らく食べ物を喉に詰まらせた者が若干名、ビビってちょいチビリした者が同じく若干名、体勢そのままで失神した者がやはり同じく若干名……。
まあ、挙げたらキリがないが。
逆に彼らからすれば、全軍静止で良かったなと。
老婆心ながら胸をなでおろしたのである。
単独出版狙ってる……?立花宗茂
次にご紹介するのは、コチラ。
あの豊臣秀吉が「東の本多・西の宗茂」と称賛した戦国武将。
筑後(福岡県)柳河(柳川)藩主の「立花宗茂(たちばなむねしげ)」である。

立花宗茂の人生を語る上で、絶対に外せないのが「ふたりの父」。
共に九州の戦国大名「大友氏」の家臣であった男たちだ。
実父は「高橋鎮種(しげたね)」、養父で義父でもあるのが「戸次艦連(べっきあきつら、へつぎ、とつぎ)」。前者は「高橋紹運(じょううん)」、後者は「立花道雪(どうせつ)」という名の方が有名であろう。
じつは、宗茂は高橋鎮種の大切な嫡男である。
だが、その豪傑な資質を見抜いた立花道雪が、是非とも養子にしたいと懇願。もちろん男児がいなかったコトもあるのだが。二度と見出すことができぬほどの逸材と惚れ込み、何度断られても宗茂を諦めきれなかったようだ。
──主家の大友氏、そして国のために
そんな道雪の思いが伝わり、実父の高橋鎮種は養子に出すコトを決意。こうして、嫡男の宗茂を手放すのである。
これはある意味、養父も実父も……。
全くもって「地味カッコいい」ではないか。
予想外の場面での「地味カッコいい」認定に心がざわついたところで。
サクッと話を進めよう。
今回ご紹介する逸話の出典は、同じく『名将言行録』より。
いつの頃の話かというと。
ヒントは、江戸時代初期の儒学者である「小瀬甫庵(おぜほあん)」。豊臣秀吉の一代記『太閤記』の著者のひとりだが、その執筆にまつわる話だとか。ちなみに小瀬甫庵の『太閤記』の成立は、寛永2(1625)年頃。そのため、これ以前の時期と考えられるだろう。
具体的な年代までは定かでないが。
小瀬甫庵がまさに『太閤記』の編集作業をしている最中でのコト。『名将言行録』にはこのような場面が記されている。
小瀬甫庵が『太閤記』を編集するとき、宗茂に「貴殿の記録を」と求めた。
(同上より一部抜粋)
どうやら小瀬甫庵は『太閤記』の中に、立花宗茂の功績を入れたかったようだ。
確かに、立花宗茂は勇猛果敢な諸将らも憧れるほどの存在。最後まで忠義を尽くし、数え切れぬ武勇を上げた男である。そこで、当人にダイレクトで、このような話を持ち掛けたのだろう。

ふむ。
己の功績を載せませんか……だなんて。そんな話を持ちかけられたら、フツーは嫌な気などしないであろう。承認欲求の強いタイプなら、ふたつ返事でといったところだろうか。
だが、立花宗茂は。
なんと、小瀬甫庵の申し出を拒否。断ったのである。
おっと。
こりゃ、カッケ……。
ちょ、ちょい、待てい。
パブロフの犬みたいに反射的に叫ぶんじゃねえ。
まずもって、ホントにカッコいいのか。これって。単純に判断するのは少し危険な気がしないでもない。
だって、江戸時代に突入してるんだぜ。時代は徳川一強の世である。
今更ねえ。前の天下人である「秀吉」の太閤記に登場させられてもねえ。
ひょっとしたら、宗茂はそんな思いだったかもしれないじゃないか。
さあ、ここで。
お待たせしました。立花宗茂のちょっとイイ話……いや、タイトルコールが違う……。失礼。改めて、立花宗茂の「地味カッコいい」場面をご紹介しよう。
それが、コチラ。
宗茂は笑って「拙者のしたことは天下の公論に基づいたもの。どうして名をあげるために、その功績を記録するようなことがあろうか」といって、何も与えなかった。
(同上より一部抜粋)
いいねえ。
「天下の公論」だなんて。
ホント、今の政治家に聞かせたい言葉である。
宗茂曰く、これまでの己の戦いは決して我欲に基づくものではない、わざわざ「名をあげる」必要などないのだと。
そしてね。
一番強調したい「地味カッコよさ」は、ここで「笑う」というコト。
怒るでもなく、諭すでもない。軽く笑う。嫌味な笑いじゃない。もちろん見下した笑いでもない。ただ、自然と出るフッとした微笑。もうこれって、地味カッコいいの極致じゃないっすか。
ただ、一方で。
ちょっとばかし意地悪なダイソンは、やっぱり思ってしまう。
秀吉の『太閤記』がイヤだったんじゃないかって。
どうせ記録するならば、立花宗茂の一代記にって。
それまで記録の取り置きを……。
だって『太閤記』には、著者の異なる様々なバージョンがあるが。
例えば『絵本太閤記』などはファンタジー要素強めの内容だったりして。あまり評判がよろしくない。
そういう意味で、結果的にはスルーで良かったなと。
老婆心ながら胸をなでおろしたのである。
最後に
本記事の締めとして。
最初にご紹介した「謙信with上杉勢の皆さん」のその後に触れておこう。
『名将言行録』では、謙信らの様子を見ていた小田原城内の兵らが「猛勇を褒めぬ者はいなかった」というオチで終わっている。
ただ、『松隣夜話』にはこの続きがある。
それが、コチラ
橋富大吉・苦桃伊予相寄る二備の足軽、鉄炮八十挺連ねて、右の出丸・井楼・矢倉を射閉ぢ、城内の前口を留めてより、謙信公御茶を取置かせ、本陣へ馬を入れ給ふ。
(黒川真道編『越後史集 天』より一部抜粋)
どうやら、謙信らが一方的に撃たれて終わるワケではなかったようだ。
逆に、上杉勢のふたつの部隊の足軽らが鉄砲80丁で反撃。倍返しどころではない……単純計算で8倍の攻撃である。
こうして、撃ちまくって。城の前口を一旦押えたところで。
そこで初めて。
謙信は茶を片付けさせて。
本陣へと戻ったという。
射撃されようが。
一瞬たりとも慌てることなく。
撃たれれば撃ち返す。
こうして、最後まで茶を飲み続けた謙信。
このラスト。
この自然体こそが「地味カッコいい」の真骨頂。
そうひとりつぶやいて。
わたしも茶をぐびりと飲み干したのである。
参考文献
『越後史集 天』 黒川真道編 越後史集刊行会 1916年
『名将言行録』 岡谷繁実著 講談社 2019年8月
『現代語訳 上井覚兼日記2』 新名一仁編 ムヒカ出版 2021年11月
『戦国武将列伝11 九州編』 新名一仁編 戎光祥出版 2023年7月
戦国武将爆笑エピソードはこちらにも!

