姉は豊臣、妹は徳川。姉妹が敵味方に分かれた戦(いくさ)で、和平に奔走した初が見た結末とは?
大坂の陣とは?
大坂の陣は、関ケ原の戦いから15年後の豊臣vs徳川の最終決戦。この戦で敵と味方に別れたのが、北近江(現在の滋賀県北部)の大名浅井長政(あざいながまさ)と織田信長(おだのぶなが)の妹お市(いち)の方との間に生まれた茶々(ちゃちゃ)・初・江(ごう)の浅井三姉妹です。
長女の茶々は豊臣秀吉(とよとみひでよし)の側室となって息子の秀頼(ひでより)を生み、大坂城で権勢を振るった女性。淀殿(よどどの)という別名でも知られています。三女の江は、徳川幕府の2代将軍秀忠(ひでただ)に嫁いでいました。
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秀吉の死後、関ケ原の戦いに勝利した家康が征夷大将軍となり、江戸に幕府を開いたのは慶長8(1603)年。このとき、大坂城には太閤秀吉の後継ぎである秀頼が、まだ11歳と幼いながらに健在でした。家康は、秀頼をないがしろにするつもりはないと淀殿をなだめるかのように、秀忠と江の間に生まれた7歳の千姫(せんひめ)を秀頼に嫁がせています。
関ケ原の戦いで家康に味方した者のなかにも、秀吉に取り立てられて出世した豊臣恩顧の武将たちが多数います。敗れても生き残り、新たな仕官先を探している浪人たちもいました。
秀頼が成人したとき、豊臣がまた政権を握るのか、それとも一大名に下るのか。その去就が注目されていたのです。
豊臣と徳川の緊張が高まったのは、秀頼が21歳になった慶長19(1614)年のこと。秀吉が建てて、その後火災で焼失した方広寺の大仏殿を秀頼が再建したのがきっかけでした。家康が、方広寺の鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」の文字を指して、家康の名前をふたつに分けて徳川家を呪い、豊臣家の繁栄を願っていると苦言を呈したのです。豊臣の忠臣片桐且元(かたぎりかつもと)が弁明に出向き、大坂に持ち帰った案は次の3つでした。
1.秀頼も諸大名のように江戸に参勤すること
2.淀殿を人質として江戸に差し出すこと
3.大坂城を出て別の領地に移る「国替え」をすること
秀頼と淀殿は「このいずれかに応じるべき」と言う片桐且元を激しく非難、交渉決裂とみた家康は諸大名らに出陣を要請します。大坂城では浪人を大量に雇い入れて、籠城の構えをとりました。
慶長19(1614)年、大坂冬の陣です。

『大坂城仕寄之圖』出典:国立国会図書館デジタルコレクションより、一部をトリミング
淀殿の妹・初による和平交渉
豊臣勢は約10万、徳川勢は約20万。兵の数では圧倒されていましたが、何重もの堀と城壁に囲まれた大坂城は、徳川勢の猛攻によく耐えました。家康も、はなから豊臣を攻め滅ぼそうと決めていたわけではなく、秀頼が一大名として徳川に従うならそれでよいと考えていたかもしれません。
大坂城を離れるか、淀殿を人質として差し出すか?
戦いの間に、家康の側近の本多正純(ほんだまさずみ)、秀頼の側近の大野治長(おおのはるなが)などが面会し、和睦の協議が持たれています。しかし、豊臣方も「国替えをするのであれば、雇った浪人たちに褒賞を出せるよう領地を増やしてほしい」と要求するなどして、条件がなかなかまとまりませんでした。
そこで、豊臣方の交渉役に選ばれたのが、淀殿の妹の初です。
初の結婚相手は、秀吉に仕えていた京極高次(きょうごくたかつぐ)という武将です。関ケ原の戦いでは家康方の東軍について、若狭小浜(現在の福井県南西部)の大名になりました。大坂の陣のころにはその夫もすでに亡く、初は髪を落として仏門に入り常高院(じょうこういん)と名乗っていましたが、姉の淀殿とは親しく交流を続けていました。また、夫との間に実の子どもを授からなかった初は、秀忠と妹の江との間に生まれた初姫(はつひめ)を養女としてもらい受けていました。つまり初は徳川方の元大名夫人でありながら、大坂城に入って淀殿と直接話をすることができる人物、淀殿が信頼して交渉を任せることのできる人物でもあったのです。
一方の徳川方からは、家康が信頼して戦場にも伴っていた側室の阿茶局(あちゃのつぼね)が交渉役に選ばれました。
▼この阿茶局も侮れない人
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女性が交渉役となった珍しい和議は、初姫と結婚した京極家の後継ぎ、京極忠高(ただたか)の陣中で開かれました。そして話し合いの末、冬の陣は次のような条件で停戦の運びとなりました。
1.秀頼、淀殿が大坂城に残る代わりに、大坂城は本丸を残して二の丸、三の丸は破却する
2.淀殿を人質にしない代わりに、豊臣家臣の大野治長と織田有楽(おだうらく)が身内を人質に出す
大坂城を離れたくない、人質として江戸に下るのも嫌だという淀殿の意向を、徳川が汲んだようにも見えます。
姉の力になれるならばと、初が危険を覚悟して戦地まで赴いて交渉した内容です。
しかし皮肉なことに、この和睦の条件が結果として、豊臣を滅ぼすことへとつながりました。

『大坂冬の陣図屏風(模本)』出典:ColBaseより、一部をトリミング
はだかの城と夏の陣
大坂城には、天然の川の流れを利用して城下町全体をぐるりと堀で囲んだ、惣構(そうがまえ)という外郭がありました。豊臣と徳川の話し合いでは、この惣構の堀を徳川方が埋めて、二の丸三の丸の堀は豊臣方で埋めることになっていたようです。ところが実際の作業が始まると、徳川方は惣構だけでなく、二の丸三の丸の堀まで埋め立ててしまったのです。豊臣方としては当然、おもしろくありません。
徳川方もまた、豊臣に不信を抱いていました。戦が終わっても、大坂城から浪人たちが減りません。それどころか、増え続けているという報告が届きます。
浪人たちにとって、秀頼は希望の星でした。豊臣の勝利に、自分たちの未来もかけていたのです。
やはり国替えに応じるか、浪人たちを城から出すか。
そう迫る家康に、初は必死の仲介をしました。「国替えには応じられない」という豊臣方の要望を伝え、それが拒絶されると今度は大坂城の淀殿と秀頼を訪ねて、「大坂城を明け渡すのなら、どこへなりと好きな領地に移って良い」という家康の言葉を伝え、国替えに応じるよう説得を試みてもいました。
しかし戦はもう、回避しきれませんでした。
慶長20(1615)年4月、旧暦の立夏を迎える頃に、家康は再び大軍を率いて大坂城を包囲しました。
大坂夏の陣です。
本丸だけになった大坂城は、もはや難攻不落の城ではありません。
5月8日、激しい攻撃を受けて落城するその間際に、秀頼の妻の千姫が城を出されて父秀忠の陣へと帰されました。秀頼と淀殿の助命を請う手紙を携えていましたが、その後も攻撃が止むことはなく、淀殿と秀頼は燃え盛る城の中で自害したと伝えられています。
この日、命からがら大坂城を脱出した女中のひとりが、足をケガして武士に背負われながら城を離れる初を目撃しています。自らの命を危険にさらしても、ぎりぎりのときまで伝言役になろうと城にとどまっていたのかもしれません。

『徳川治蹟年間紀事・二代台徳院殿秀忠公』著:大蘇芳年 出典:国立国会図書館デジタルコレクション
敵と味方に分かれても
戦国時代の姫君たちは、政略結婚が当たり前でした。いつ敵対してもおかしくない関係だからこそ、親族同士を婚姻させて同盟の証としていたのです。ひとたび関係が変われば、親子や夫婦、兄弟姉妹が敵と味方に分かれることもありました。茶々(淀殿)・初・江の三姉妹も、まさにそのような状況で幼少期に父との別れを経験しています。
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援軍なし、補給なし、逃げ場なし!浅井長政を襲った織田信長の「じわじわ包囲網」小谷城の戦い
京都にある養源院は、淀殿が父の浅井長政を供養するために建てた寺院です。大坂の陣の翌元和2(1616)年、江がこの寺で、淀殿と秀頼の弔いをしたという記録があります。
その後、一度落雷による火災で焼失しましたが、江の強い願いにより元和7年(1621年)に再建されました。
たとえ敵と味方に分かれても、姉妹の心には切れない絆があったのでしょう。
アイキャッチ:歌川広重「Titmouse and Camellias (right), Sparrow and Wild Roses (center), and Black-naped Oriole and Cherry Blossoms (left)」出典:メトロポリタン美術館
参考書籍:
『関ケ原から大坂の陣へ』著:小和田哲男(新人物往来社)
『戦国三姉妹物語』著:小和田哲男(角川選書)
『豊臣家の女たち』著:福田千鶴(岩波新書)
『淀殿』著:福田千鶴(ミネルヴァ書房)
『大坂の陣全史』著:渡邊大門(草思社)
『戦況図録大坂の陣』(新人物往来社)
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)

