Culture
2021.08.12

主君・信長の女遊びを止めろ!妻女誘拐の姥を海に沈めた柴田勝家の過激な諫言方法とは?

この記事を書いた人

はじめに。
これは、主君の「色欲」と闘った、ある1人の男の物語だ。

我ながらカッコいい書き出しに、ちょっぴり酔いそうな感じ。そんな恥ずかしげもない自画自賛の中で、はたと気付く。いや、待てよ。よくよく考えれば。闘いの相手は「色欲」。いわば、主君の煩悩なのである。

大それた書き出しに加え、大真面目な体で、それも企画1本が立つほどの内容かと問われれば……。不本意ながら、あえて沈黙を貫こう。時には、人間、見ないフリがいい時だってある。内容に合わない壮大な書き出しで煽っても、そこは完全スルーと決め込んだ。

ただ、1つ救いがあるとすれば。
我が和樂webでは、「馬鹿馬鹿しいことを真剣に」がモットー。主君の色欲コントロール論を、真剣に考えるのも悪くない。なら、じゃんじゃん弾けちゃおうぜというのが、今回の記事の趣旨である。

さて、趣旨の説明はこれくらいにして。

時は戦国の世。
下剋上により、いつ立場が入れ替わってもおかしくない、そんな時代。彗星の如く、その名を世間に一気に広めた武将がいた。織田信長である。

一族内部の争いを経て、尾張国(愛知県)を統一。永禄3(1560)年の「桶狭間の戦い」では、当時の有力武将である今川義元を破って、大金星。これを機に勢力を拡大し、天下統一に向けてひた走る。

そんな急上昇中の彼が、今回の記事でいうとことろの「主君」。つまりは、繰り返しとなるが、「主君の色欲」の「主君」にあたる人物が「織田信長」なのである。

えっ?
信長なの?

これには、予想を外された方が大半なのではないだろうか。というのも、色欲とくれば真っ先に思い浮かべる方が、他にいるからだ。その名も「豊臣秀吉」。「戦国時代の色欲王」のイメージでガッチリと固められた天下人である。だが、今回は当てが外れたようだ。

とすれば、「主君の色欲」と闘った家臣って……。
じつは、コチラの方、もう既に他の戦国記事にて何度かご登場頂いている常連さん。その名も、「柴田勝家」。ズバリ昭和のリーマンそのもの、我らが愛すべきオッサンである。

それでは、気を取り直して。
個人名を入れ、先ほどの書き出しをもう一度。

はじめに。
これは、織田信長の「色欲」と闘った、柴田勝家の物語だ。

残念ながら、先ほどのカッコ良さは一瞬で蒸発。読みたいんだか、読みたくないんだか、よく分からん感じのテイストである。

一体、どんな話となるのやら。
早速、ご紹介していこう。

※冒頭の記事は、歌川豊国(1世)画 「嫗山姥」 東京都立中央図書館特別文庫室所蔵 出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)となります
この記事は、「織田信長」「柴田勝家」「豊臣秀吉」の表記で統一して書かれています

信長を恐れない強心臓の持ち主

もう既に、柴田勝家については、ご存知の方も多いはず。

織田信長の宿老として、北陸方面を任された重鎮。信長の死後は、豊臣秀吉と対立し、信長の次期ポストを争って敗れた人物でもある。加えて、信長の妹とされる「お市の方」と再婚した武将としても有名だ。

そんな勝家だが、根っからの「信長」崇拝者かといわれれば、そうでもない。一族の中で争いが絶えなかった織田家。信長の父である「信秀」の死で、それはより一層、顕在化する。

もともと、勝家は織田家の家臣である。ただ、じつは、当初は信長の弟である「信行」に仕えていた。加えて、信長が家督を継承したのちも、信行の反逆に加担し、一時は信長と戦ったことさえも。結果的に信行側は敗れ、勝家は信長より許されたという経緯があるのだ。

そんな過去があれば、なおさら。
主君である信長には、異を唱え難いものではないだろうか。だって、勝家には、1度信長を裏切った「負い目」がある。だから余計に……ってヤツ。凡人の一般的な感覚からすれば、信長には盲目的に服従しておいた方が無難と、つい考えてしまう。

しかし、である。
勝家はそんな計算も一切せず。なんてたって、根っからの「熱き昭和のリーマン」なのだから。自分の志を曲げず、NOと言えない日本人らしからぬ、歯切れの良さがウリ。信長にだって、皮肉を交えて、言っちゃう言っちゃう。なんなら、主君と行動を別にすることも。

小林清親筆 「敎導立志基 卅二 信長」 「教導立志基」「信長」 東京都立中央図書館特別文庫室所蔵 出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)

そんな勝家の剛毅な気質を示すエピソードがある。

既に信長は上洛し、畿内を平定したのちのこと。
元亀元(1570)年。姻戚である北近江(滋賀県)の浅井長政(あざいながまさ)が寝返り、あろうことか信長に挙兵。越前(福井県)の朝倉義景(あさくらよしかげ)と連合軍を組織し、信長は彼らと戦うことに。これが6月に起こった「姉川の戦い」である。

そして、9月。
浅井・朝倉連合軍は、大津、松本、醍醐、山科あたりを放火。京都に攻め入るとの情報が錯綜する。これには、野田(大阪府)に着陣していた信長も驚き、急遽陣を引き払って、23日に京都に帰還。

休む間もなく、信長は、すぐさま浅井・朝倉連合軍と対峙すべく出立しようとする。そんな焦り気味の信長を諫めたのが、柴田勝家だった。信長が討死したなどの噂で京都市中は混乱に陥っている。それ故、今しばらくは京都にとどまり、将軍家を守護して無事な姿を民衆にしっかりと見せてはどうかと。

これに対して。
信長は、なんと、勝家を責め立てる。
「不調法だ」と。
不調法とは、簡単にいえば、手際が悪いとか粗相などというニュアンスの言葉。確かに、「瓶割柴田」の異名を持つ勝家ならば、逆に、「殿、遅すぎますぞ」とか言いそうな感じ。信長もそう期待したのだろうか。

敵を逃さぬよう立ち向かうのが武士として当然。信長は、この考え方を改めず、勝家を老いぼれ扱いまでするのである。

それでも、勝家は。
目先の利益にとらわれることなく。あくまで冷静沈着に。主君の信長を、このように諫めている。

「『…職場ではもうろくしたような不調法はいたしません。ただし、四畳半敷の数寄屋に入って茶なども飲むときなどは不調法はいたしますが』といって帰ってしまった。信長も返答に困り、ことばなく通りすぎていった。勝家はそれより引き返して『若い殿が勇みたたれるのに調子をあわせて、わしらのような年寄りがいっしょになって飛びまわれば、それこそ耄者(しれもの)だ。軍は始末が大事なもの』といって、手勢を引き連れ…」
(岡谷繁実著『名将言行録』より一部抜粋)

信長のペースになど乗ることなく、勝家は我が道を行くスタイルを維持。一切、主君に忖度なし。これを見る限り、勝家は、過去の出来事をキレイさっぱりと忘れているようだ。短気で残虐とのイメージが強い信長をも全く恐れず。

誰が相手でも。
柴田勝家は、ハッキリと物申す「強心臓」の持ち主といえるだろう。

主君への諫言のポイントは「潔さ」?

さて、柴田勝家の予習が済んだところで。
話を進めよう。「織田信長の『色欲』と闘った、柴田勝家の物語」を。

まずは、物語の前提となる織田信長の「色欲」について。
どうして、この事実が発覚したのか。つまり、勝家が感付いた理由は何だったのかが気になるところ。

ちなみに、いつ頃の話かというと。『名将言行録』には、具体的な年月は記されていない。ただ、勝家が北陸方面隊として越前を平定し、「北ノ庄城(福井県)」に居を構えたのちの話であるから、天正3(1575)年9月以降だということになるだろう。

結論からいえば。
勝家の治める北ノ庄城下で、ある事件が起こる。これがきっかけだ。

その事件とは、「妻女の誘拐」。
関係するのは、ある1人の女。年は60歳くらいで、姿形が美しい姥(うば)だとか。彼女は大勢を引き連れて、妻女を狙っては脅迫し京都へと連れていく。この悪行を繰り返していたというのである。

この噂を耳にした勝家は、早速、問題の姥を連行させる。初めて対面する勝家と姥。そして、改めて事情を問いただすと。到底、信じられないような話が、姥の口から語られることに。

「わたくしは信長公に召し使われる者です。殿のお気に入りそうな妻女がおれば、この国とは限らず、どこの国でもみつけしだい、連れてまいれとの仰せによってやっていることです。うそだと思われるのでしたら、人をつかわして信長公にお訴え下さい」
(同上より一部抜粋)

つまり、姥は「妻女あっせんサービス」の業者で。
それを命じたのは、主君である織田信長、その人だったというのである。

ちなみに、これを聞いた勝家はというと。

「姥のいっていることは本当だと思った」
(同上より一部抜粋)

迷うことなく確信。
いや、それはそれで、どうかと思う。少しは、主君を信じて、姥を疑ってやれよ。

ただ、長年仕えていることを考慮すると、勝家は、信長の言動をある程度は理解しているはずである。とすれば、我が主君ならさもありなん、と納得といったところだろうか。

太平記英勇伝」「十三」「柴田修理進勝家」 東京都立中央図書館特別文庫室所蔵 出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)

さて。
ここからが、家臣としての「真価」が問われるところ。

もし、主君が誤った道に進むのならば。
一切考えることなくそのまま受け入れ、ひたすら主君に従うべきなのか。それとも、自らの身など案じることなく、異を唱えるべきなのか。「自分の将来」OR「主君の将来」。どちらを優先させるのか。その結論が迫られる。

次に、導く結論が決まったところで。
今度は、手段も考えなければならない。主君に異を唱えるのならば、それこそ、失敗はしたくない。間違った解釈により、成敗されれば目も当てられない。重要なのは、真意を確実に相手に伝えるコト。特に、逆上する主君であれば要注意。主君の気質を踏まえた上で、練りに練った作戦が必要となる。

ちなみに、勝家はというと。

「信長公が前代未聞の行動をしておられるのだから、この機会に直さねばと思って」
「信長公ほどの賢君を無道の者にするのは、その罪は重い」
(同上より一部抜粋)

いいねえ。やはり、ここは愛すべきオッサン、勝家である。議論の余地なく、即刻、信長の問題行動を直させると決意したようだ。それにしても、信長を「賢君」だなんて。いや、そこは、否定してもいいはずだろうに。

次に、手段。
主君である信長に、どうすれば己の行動を理解させることができるのか。

「一行十余人を捕らえ、全員を海に沈めてしまった」
(同上より一部抜粋)

えっ? あっ?
それ、手段?
ってか、既に、姥一味は海の底ってコト?
なんだか、とってもスピーディー。迅速さは好まれるが、早過ぎ、やり過ぎ、過激過ぎの三拍子である。

確かに、一行の所業は極悪非道といえるだろう。しかし、議論の余地すらないのも、これまた、振り切れていると言わざるを得ない。そこには、「問答無用」との断固たる勝家の意志が透けて見える。これって、もしや「毒を以て毒を制す」的な発想なのか。

こうして。
勝家は、いけしゃあしゃあと、主君である信長に報告。

「『御名を汚し、女探しで諸国をまわっておりましたので、罰しました。しかしながら、このことはご自分でご吟味のうえお仕置きなさってしかるべきことでございます』と申すと、信長はすっかり毒気を抜かれて、『そちの仕置きは神妙であった。今後そのような者があれば、こちらに知らせよ』…(中略)…これより信長は、妻女狩りなどはすっぱりと思いとどまった」
(同上より一部抜粋)

そりゃ、主君も毒気を抜かれるよって感じ。

それにしても、柴田勝家の能力には、ホントに感心する。彼のスゴさは、あの信長に対して、自省を促すことができるという点だ。ここにきて、事実確認もしない。主君に対して恥をかかす真似もしない。ただただ、潔い。けれど、それだけではない。直接的な言葉がなくとも、己の行動で自分の意見はしっかりと伝える。「人の上に立つ者が、簡単に道を外れるな」と。

こうして、主君の色欲をコントロールすることに成功した柴田勝家。

人は皆、類まれなる勝家の分別に感心したという。

最後に。
ここからは、私個人の考えだと、予めお断りしておこう。

勝家が問答無用で、姥一味を抹殺したのには、1つの狙いがあるのではないだろうか。彼らの言い分も聞かず、事実確認もせず、信長の指示さえも確認することなく。勝家の独断で、即刻、抹殺。

つまり、これは口封じである。
大事な主君の名を汚さぬよう。たとえ事実だとしても、決して証拠を残さない。一味のみならず、信長の問題行動までも、この世から抹殺しようとしたとも取れる。

信長のためなら。
自らの手を汚すことも厭わない。

そんな勝家の思いを知っていたからこそ。「お市の方」は、豊臣秀吉ではなく勝家に嫁ぎ、最期まで傍を離れなかったのだろう。

織田信長の「色欲」と闘った、柴田勝家の物語。

その原動力となるのは。
「大切な主君をお守りする」という、熱い気持ちだった。

参考文献
『名将言行録』 岡谷繁実著  講談社 2019年8月など
『信長公記』 太田牛一著 株式会社角川 2019年9月
『虚像の織田信長』 渡邊大門編 柏書房 2020年2月