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2023.11.06

7歳で嫁いだ豊臣家は滅亡。家康の孫、千姫を待つ過酷な運命

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戦国時代、政略結婚はまさに生き残りをかけた勝負の一手。一族を繁栄させるか、断絶させるかに繋がることもあった時代です。それが天下の豊臣家と徳川家であればなおさらのこと。その両家にとって最後の一手となったのが、今回紹介する千姫です。大河ドラマ「どうする家康」では、あどけない笑顔が可愛い20歳の原菜乃華さんが演じます。7歳で秀吉の二男、豊臣秀頼(とよとみひでより)に嫁ぐことになり、過酷な運命を背負うこととなった千姫の生涯をご紹介します。

家康を祖父に、二代将軍・秀忠を父に持った千姫

慶長2(1597)年伏見城で、徳川秀忠(とくがわひでただ)と江(ごう)の間に長女が誕生します。それが千姫です。祖父はのちの天下人、徳川家康であり、父は二代将軍となる秀忠ですから、まさに正真正銘のお姫様でした。ゆえに、待ち受けていた運命も波乱の人生。秀吉は、自分に死期が迫ると、豊臣家存続のため、嫡男・秀頼と千姫の婚姻を家康に約束させます。それほどまでに、家康の力は豊臣家にとって脅威となっていたのでしょう。

徳川家と豊臣家の戦いが時代を大きく動かした

秀吉が命じた朝鮮出兵で、諸大名が疲弊し、家康の存在感が増す中、慶長3(1598)年8月に秀吉が没すると、政治の実権を家康が握ることになります。それを良しとしない茶々(淀殿)や豊臣家の重臣たちに不満が渦巻き、遂に慶長5(1600)年9月15日、石田三成(いしだみつなり)を中心とした西軍と家康を中心とした東軍による関ヶ原の戦いが起こります。しかしこの決戦は1日で東軍が勝利を収め、覇権は家康のものとなりました。慶長8(1603)年2月には、家康が征夷大将軍に任命され、江戸幕府を開きます。時代は徳川家の天下へと大きく移り変わっていきますが、茶々は内大臣となった秀頼に豊臣家の存続を託し、家康の臣下に入ることを拒否。秀吉恩顧の大名の存在もあり、家康にとって、大坂城の茶々を懐柔することは重要案件の一つでした。

7歳で江戸城を離れ、大坂城で暮らすことに

そこで家康は、両家の緩衝役として、この年の7月、千姫を秀頼の元へ嫁がせます。どんなに可愛い孫娘だろうと、戦略の一つとなってしまう悲しい時代でした。このことで茶々は、家康はあくまで秀頼が成人するまでの後見人であるとして、納得します。しかし、その見通しの甘さが自らを滅亡の道へと導いていったのでした。

母・江、娘・千姫と二代にわたる政略結婚

秀吉の側室であった茶々は、千姫の母である江の実の姉です。この複雑な関係も後に千姫を苦しめることになります。江にとっては、我が幼子を敵にもなりかねない大坂城へと嫁がせることは心配でなりませんでした。家康のいる伏見城まで江も同行しますが、大坂城入りには同行せず、義母となる自分の姉、茶々には会わなかったといいます。それほど、複雑な心境だったのではないでしょうか。この江もまた、波乱の人生を歩んでいた女性でした。秀吉の養女となっていた江は、徳川家との縁戚関係を強めるべく、秀吉の命によって秀忠に嫁いだのです。これがすでに3度目の結婚であり、1度目の結婚は秀吉に離縁させられ、2度目の結婚では夫を病気で亡くしています。江も千姫も因縁深い母子だとは思わずにいられません。

▼母・江についてはコチラ

姉の茶々は自害へ。二代目将軍・徳川秀忠の正室「江」の数奇な人生

千姫にとって、大阪城での束の間の幸せ

4歳上の秀頼と千姫は、従兄妹でもあることから、仲は良好であり、大坂城の暮らしは穏やかなものだったようです。しかしそんな二人の関係に影響を及ぼす出来事が起こります。慶長10(1605)年、千姫の父である秀忠が、二代将軍に任命されたのです。徳川家が将軍として政権を世襲することを、天下に知らしめるものでした。この時、家康は寧々(高台院)を通じて、秀頼に秀忠のいる伏見城と家康のいる二条城を訪問するよう伝えます。しかし、茶々は態度を硬化させ、家康との関係は、ますます悪化していきました。

豊臣家滅亡へ。千姫の願いむなしく、秀頼は、茶々と共に自害

慶長16(1611)年3月、二条城の家康を秀頼が訪問し、二人は対面します。この会見には豊臣恩顧の大名、加藤清正(かとうきよまさ)と浅野幸長(あさのよしなが)が付き添い、家康を牽制しましたが、その年に清正が、慶長18(1613)年に幸長が亡くなり、豊臣家は一気に勢力を失います。しかし、一向に徳川家に従わない茶々と秀頼に痺れを切らした家康は、慶長19(1614)年、諸国の大名に大坂攻めを宣告し、遂に大坂冬の陣が勃発します。膠着状態が続く中、茶々の妹であり、江の姉である初(常光院)により講和が打診されます。これを機に、一旦は豊臣側も条件として出された大坂城の堀の埋め立てを承諾します。しかし、その後も家康と豊臣家の関係は修復されず、23歳となっていた秀頼も豊臣家の威信をかけ、戦う姿勢を強めます。慶長20(1615)年、大坂夏の陣で、徳川方の攻撃により大坂城はついに落城しました。徳川家臣によって大坂城を脱出させられた千姫ですが、夫・秀頼と義母・茶々の救済を懇願したそうです。しかし、その願いもむなしく秀頼と茶々は大坂城で自害しました。この時、千姫は19歳。最初の結婚は、両家の因縁の戦いにより、悲しく辛いものとなったのです

一目ぼれから運命の出会い。本多忠刻との婚姻へ

しかし、運命の歯車は思わぬ方向に動きます。翌年、千姫は、伊勢桑名城主本多忠刻(ほんだただとき)と再婚するのです。これは、救出された時に護衛にあたっていた忠刻に、千姫が一目ぼれしたとの逸話もあります(諸説あり)。ただ、忠刻の祖父は、徳川四天王の本多忠勝であり、母は家康の長男、信康の娘であったことから、家康にとっても心置きなく千姫を任せられる相手だったのでしょう。また、忠刻は美男として伝わっており、美男美女カップルとして、桑名城から姫路城に移ったのちに一男一女をもうけるなど、二人の仲も良好でした。。

姫路城イメージ
これはきっと、危険な状況で恋に落ちやすい「吊り橋効果」だけではなかったのでしょうね!

夫、母を亡くした千姫は、深い悲しみの中、出家

しかし、姫路城での千姫の幸せは、長くは続きませんでした。長男が3歳で夭折、寛永3(1626)年には忠刻も31歳の若さで病死してしまいます。この年に母、江も亡くなるなど、息子や夫、母を失った千姫の悲しみはどれほどのものだったでしょう。周囲は、まだ30歳であった千姫に、前田家との縁組を持ち出します。しかし、愛する者たちへの想いが強かったのでしょうか。千姫は、婚姻を受け入れず、出家し、天樹院と号し、江戸城内の竹橋御殿で暮らします。7歳で秀頼に嫁いでから、20年以上にわたる波乱の日々から脱し、ようやく心静かに暮らせる日々が訪れたのかもしれません。戦国時代の波乱を母娘、二代にわたり生き抜いた千姫は、寛文6(1666)年、71歳で生涯を閉じました。

アイキャッチ:メトロポリタン美術館より

参考文献:『徳川秀忠』 山本博文 吉川弘文館『お江 戦国の姫から徳川の妻へ』 小和田哲夫著 角川学芸出版 『戦国政略結婚史 浅井三姉妹が生きた時代』 高野澄著 洋泉社

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旅行業から編集プロダクションへ転職。その後フリーランスとなり、旅、カルチャー、食などをフィールドに。最近では家庭菜園と城巡りにはまっている。寅さんのように旅をしながら生きられたら最高だと思う、根っからの自由人。

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人生の総ては必然と信じる不動明王ファン。経歴に節操がなさすぎて不思議がられることがよくあるが、一期は夢よ、ただ狂へ。熱しやすく冷めにくく、息切れするよ、と周囲が呆れるような劫火の情熱を平気で10年単位で保てる高性能魔法瓶。日本刀剣は永遠の恋人。愛ハムスターに日々齧られるのが本業。