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招く尾花
松虫も鳴きやみぬなる秋の野に誰よぶとてか花みにも来む 伊勢
よぶとしも声は聞こえで花すすき忍びに招く袖も見ゆめり 中宮温子
醍醐天皇が貫之(つらゆき)らに命じて編(あ)ませた『古今集(こきんしゅう)』の歌人に伊勢という女性がいる。
天皇の父・宇多院の中宮温子に仕えた女房であるが、歌才に恵まれ多くの秀作を残している。
後世の定家は『百人一首』の中に「難波潟(なにわがた)みじかき蘆(あし)のふしのまもあはでこの世をすぐしてよとや」を採っている。
「水辺に茂る蘆の草茎にある短い節の間ほどさえ恋しいのに、あなたと逢(あ)わずに一夜をすごせというのですか」という歌で、こんな歌が届いた男はどれほど嬉(うれ)しく思ったであろう。

伊勢は、はじめ藤原基経(ふじわらもとつね)の次男・仲平(なかひら)との恋に破れ故郷大和に引退したが、温子に呼び戻され再び出仕するようになると、今度は仲平の兄・時平(ときひら)に言い寄られた。
だがこの度は応じなかった。すでにこの時、宇多院に愛されていたのではないかという憶測もされている。
やがて伊勢は院の皇子を生んだ。そして西の京桂川に近い別邸に引退しつつましく皇子を育んでいたが、やがて皇子は夭逝(ようせい)してしまった。
宇多院の後宮はかなり華やかで、中宮温子のほか女御(にょうご)藤原胤子(いんし)、橘義子(たちばなのぎし)、菅原衍子(すがわらのえんし)、橘房子(ぼうし)、更衣(こうい)源貞子(みなもとのていし)、京極御息所(きょうごくのみやすんどころ)藤原褒子(ほうし)、そして伊勢など、多彩な顔ぶれであった。
しかも女性間の争いはなく、譲位後に院は三年に及ぶ山修行をされたが、女性たちは昔のままのかたちで院のお帰りをお待ちしていたという。
中宮温子のはからいがあったであろう。
話は伊勢が桂の地にあった秋のことだ。
「花野の虫の声は少なくなったけれど参上なさい」というお誘いが中宮から届いた。
伊勢は少し拗(す)ねた返事をする。
松虫も鳴きやみぬなる秋の野に誰(たれ)よぶとてか花みにも来む 伊勢
よぶとしも声は聞こえで花すすき忍びに招く袖も見ゆめり 中宮
人も着ぬ尾花が袖も招かればいとどあだなる名をやたちなむ 伊勢
わが招く袖とも知らで花すすき色かはるとぞ思ひわびつる 中宮

伊勢はこの贈答の詞書(ことばがき)で、中宮の人柄を優美で上品なお方と褒め、世にたとえるものもない程のすばらしい風雅を解する方だと称(たた)えている。
贈答は微妙で実に面白い。
つまり、伊勢を愛人としている人は中宮の夫、帝その人なのだ。
伊勢の歌「松虫も鳴いていないような花野の風情では、中宮様のお招きでもいやですわ」
中宮の歌「呼ぶといってもあなたは声などに耳をかさず、すすきのかげにほんとは招く袖が見えているのでしょ」
伊勢の歌「尾花の袖が招くなんて比喩(ひゆ)ですわ。本当かと思って参ったなら色やかなものにすぐ靡(なび)く徒(あだ)なものと思われるでしょう」
中宮の歌「何てことでしょう。私が招いているとも知らずそなたは。これでは長らく心をかわし合った契(ちぎ)りもすすきが枯れるように枯れてしまいそうね」
中宮も人が悪い。帝をだしにして伊勢をからかうとは。
伊勢はもちろん急いで参上し笑い合ったことだろう。

馬場あき子 歌人。1928年東京生まれ。学生時代に歌誌『まひる野』同人となり、1978年、歌誌『かりん』を立ち上げる。歌集のほかに、造詣の深い中世文学や能の研究や評論に多くの著作がある。読売文学賞、毎日芸術賞、斎藤茂吉短歌文学賞、朝日賞、日本芸術院賞、紫綬褒章など受賞歴多数。『和樂』にて「和歌で読み解く日本のこころ」連載中。映画『幾春かけて老いゆかん 歌人 馬場あき子の日々』。

