Culture

2026.09.30

天下一統を目指す豊臣秀吉を支えた、調略の参謀・黒田官兵衛

竹中半兵衛亡き後、羽柴秀吉を支える唯一の参謀として、天下取りを後押ししたといわれる黒田官兵衛。放送中の大河ドラマ『豊臣兄弟!』では、倉悠貴さんが好演しています。史実の官兵衛の役割は、本能寺の変を境に変わっていきました。竹中半兵衛と同様に、常に秀吉の傍らにいて、的確な進言を行う役割から、徐々に秀吉とは別行動をとり、ときに現場指揮官を支え、また敵との交渉や調略に臨むケースが増えていきます。本記事では、秀吉の天下一統(いっとう)で果たした官兵衛の役割と、官兵衛が常に何を重んじていたのかを探ってみましょう。

備中猿掛城

「このような遠方まで、何度もご足労をおかけし、痛み入ります」

毛利家の外交を担当する僧侶、安国寺恵瓊(あんこくじえけい)が、備中(びっちゅう、現、岡山県西部)の猿掛(さるかけ)城(倉敷市/矢掛町)麓(ふもと)に建つ、館の広間に入ってきたふたりに声をかけます。天正12年(1584)9月半ばのことでした。

「やあ、恵瓊殿。おお、今日は小早川(こばやかわ)殿もご同席でしたか。お久しゅうございます」

そう親しげに応えて、恵瓊の前の床几(しょうぎ)に腰掛けたのは、羽柴秀吉より毛利家との交渉役を任せられた蜂須賀正勝(はちすかまさかつ)でした。正勝の隣では、黒田官兵衛が立ったまま、

「これは、小早川殿。御無沙汰しております。先の和睦の折には多大なるお心づかい、かたじけのうございました」

と、深々と頭を下げました。小早川隆景(たかかげ)は微笑し、官兵衛に床机に腰掛けるよううながします。板の間に座るのではなく、床机が用意されているのは、足の悪い官兵衛への、毛利家の配慮であったでしょう。この日、毛利家の重鎮・小早川隆景が同席しているのは、交渉が大詰めを迎えていることを意味していました。

官兵衛と正勝は毛利家との国境画定交渉のため、これまでに数度、猿掛城を訪れています。
2年前の天正10年(1582)4月、羽柴秀吉率いる3万の軍勢が、猿掛城のおよそ10km東にある毛利方の備中高松城(岡山市)を囲み、援軍にきた毛利家当主・輝元(てるもと)の3万の軍勢と対峙(たいじ)します。このとき、輝元が最初に本陣を置いたのが、猿掛城でした。秀吉は織田信長の出馬をあおぎ、いよいよ毛利と織田の決戦が行われようとしたときに、京都で信長が命を落とします。明智光秀(あけちみつひで)による、本能寺の変でした。秀吉は信長の死を伏せたまま、毛利と和睦し、急ぎ上方に戻って明智を討つことに成功。しかし毛利との国境が未決定なままであったため、蜂須賀正勝と黒田官兵衛を派遣して、国境画定の交渉を進めさせていたのです。

黒田家家紋「藤巴(ふじどもえ)」

高松城水攻め

「ときに、高松城にはいま、宇喜多(うきた)殿が陣屋を構えているそうですな」

安国寺恵瓊が目の前に座る蜂須賀正勝に、のんびりとした口調で話しかけます。陣屋とは、城よりも簡素な宿営施設のこと。備前(びぜん、現、岡山県東部)を領する宇喜多家は、もともと毛利に従属していましたが、天正7年(1579)に織田に鞍替えし、高松城を攻める秀吉に協力した経緯がありました。恵瓊は高松城を宇喜多が押さえていることを、毛利は快く思っていない、と言いたいのでしょうか。正勝は、恵瓊の言葉の裏にひそむ感情を察しつつ、気づかないそぶりで受け流します。

「さよう。城のあたりの様子は、さほど変わっておりませぬようで。こちらに参る途中、近くを通るたびに、あの戦(いくさ)を思い出しますな」

ふたりのやりとりを横で聞きながら、官兵衛は、恵瓊が高松城の話を振ってきた真意を汲み取りました。恵瓊はおそらく、単に毛利の宇喜多に対する不快感を伝えたかったのではなく、「2年前の高松城和睦の際に、羽柴方が毛利から受けた恩を忘れてくれるなよ」と、国境画定交渉の大詰めにあたり、改めて念を押したのでしょう。官兵衛の脳裏に、当時の光景がよみがえります。

*   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *

「信長死す」。その第一報を、秀吉が備中高松城攻めの本陣で受け取ったのは、天正10年6月3日の深夜、本能寺の変の翌日のことでした。当時の上方(かみがた)からの情報伝達の速さにも驚かされますが、明智方が送ったはずの信長の死を知らせる密書が、毛利方に一通も届かなかったのは、秀吉の敷いた防諜(ぼうちょう)体制の高さを物語っているでしょう。

このとき、高松城は湖に浮かぶ孤島のような状態でした。低湿地で攻めにくい沼城(ぬまじろ)の利点を逆手にとり、秀吉は城を囲む堤防を築いて、川の水を流し込む水攻めを行ったからです。梅雨も手伝って、高松城の中心部を残し、周辺は水没。このプランを秀吉に進言したのが黒田官兵衛、また築堤及び川の流路を変える土木工事を指揮したのが、蜂須賀正勝であったといわれます。

毛利方は、沈みゆく高松城を前に手をこまねくよりほかなく、水面下では、安国寺恵瓊と黒田官兵衛による和睦交渉が進んでいました。そして恵瓊が、備中、美作(みまさか、現、岡山県北部)、伯耆(ほうき、現、鳥取県西部)3国の割譲(かつじょう)案を提示した矢先に、本能寺の変が起きたのです。

AIで再現した備中高松城水攻めのイメージ

和睦交渉

東から高松城を見下ろす石井山に本陣を置いていた秀吉は、仮小屋の一室で本能寺の変を知らせる書状を読むや、全身を震わせ、あたりかまわず大声で泣きわめきます。事態の深刻さに、側に控える弟の小一郎(秀長)、蜂須賀正勝らも、かける言葉がありません。秀吉がひとしきり泣いたのを見計らって、官兵衛が杖をつきながらゆっくりと近づき、目を赤くはらした秀吉の耳元にささやいたと、『黒田家譜(くろだかふ)』は記します。

「上様(信長)の訃報には言葉もありません。まことに残念なことで、深くお悔やみ申し上げます。しかし、かくなる上は、もはや天下を取るべきお方は、羽柴様より他におりませぬぞ」(意訳筆者)

このときに秀吉が一瞬見せた、驚愕と、恐れにも似た目の色を、官兵衛は生涯忘れませんでした。おそらく秀吉は、官兵衛に本心を見抜かれたことを悟ったのでしょう。
しかし、それもつかの間。秀吉は、次々と命令を下していきます。いまやるべきは、一刻も早く上方に戻り、信長の仇を討つこと。そのためには、毛利が信長の死を知る前に和睦を結び、反転する秀吉軍を、後方から毛利が襲うのを阻止しなくてはなりません。秀吉の切り換えの早さに感心しつつ、官兵衛は秀吉の指示で、夜明け前に安国寺恵瓊を呼び出し、高松城主の清水宗治(しみずむねはる)の切腹の代償に、城兵は助命すること、その後、速やかに誓紙(せいし、起請文)を交わして両軍が和睦し、国境画定は後日交渉することを提案、恵瓊はそれを毛利軍本陣に持ち帰りました。

結果、毛利軍首脳は提案を承諾。6月4日正午頃に清水宗治が、両軍が見守る中、高松城から漕ぎ出した舟の上で自刃。その日のうちに誓紙が交わされ、翌5日中に両軍は撤退することになります。秀吉軍の最後尾、殿(しんがり)を務めるのが官兵衛でした。ところが5日、毛利軍本陣に激震が走ります。本能寺の変の知らせが、ようやく届いたためでした。このとき、最後尾の官兵衛の隊はまだ撤退しておらず、安国寺恵瓊が非公式に官兵衛に面会を申し入れた可能性があります。

小早川左衛門佐

「織田前右府(さきのうふ)様の本能寺の件、つい先ほど耳にして、仰天(ぎょうてん)いたした次第。心よりお見舞いを申し上げます。前右府様は、ご無事でありましょうや」

官兵衛の陣を訪れた恵瓊は、開口一番、探りを入れました。官兵衛とともに応対にあたった蜂須賀正勝は、信長の死を毛利方に伏せていた手前、一瞬、言葉に詰まります。

「ご心配賜り、感謝申し上げます。わが主君の安否は、わかりませぬ。いまわれらがなすべきは、一刻も早く上方に戻り、主君に弓引く賊を討ち果たすこと。それゆえ、出立(しゅったつ)を急ぎます」

代わりに官兵衛が応えると、恵瓊が重ねて問いました。

「本能寺の件、羽柴殿はご承知の上でわれらには隠し、和睦交渉を急がれた、ということですな?」
「いかにも」
「なんと!」

悪びれない官兵衛の返事に、恵瓊が色をなすと、意外そうな声で官兵衛が続けます。

「交渉の場で、毛利家より本能寺の件についてお尋ねがなきゆえ、あえてお伝えいたしませんでした。仮に、恵瓊殿がわれらの立場であったなら、訊かれてもいない重大事をお話しされますかな?」

恵瓊の後ろで、やりとりに黙って耳を傾けていた男が、突然愉快そうに笑い声を上げました。

「恵瓊殿。これはわれらの負け、じゃな」

「あっ」と恵瓊があわてて男の後方に下がり、

「ご紹介が遅れて申し訳ありませぬ。こちらは小早川左衛門佐(さえもんのすけ)殿でございます」

今度は、官兵衛や蜂須賀正勝が驚く番でした。小早川左衛門佐隆景といえば、毛利家当主輝元の叔父で、兄の吉川元春(きっかわもとはる)とともに、輝元を支える最重要人物。元春が山陰道方面、隆景が山陽道方面を押さえ、「毛利の両川(りょうせん)」と呼ばれています。中国地方を制した毛利元就(もとなり)の智謀を、もっとも色濃く受け継ぐのは、元就三男の隆景であるとも評されていました。和睦済みとはいえ、敵陣を小人数の供だけで気軽に訪れるような立場ではありません。

「黒田殿、蜂須賀殿。このたびの高松城攻めのお手並み、見事でありましたな。ご両所の名は、これまでに何度も耳にしておりましたが、とりわけここ一両日の、前右府様のご災難を伏せたまま和睦を成し遂げられた手腕は、つくづく天晴れと感服し、ぜひ一度お顔を拝見したくなり申した」

隆景は笑顔で話しながらも、その目は射るように、官兵衛に向けられていました。隆景は続けます。

秀吉への貸し

「ときに黒田殿。いまや本能寺の一件は、われら毛利の知るところとなり申した。家中には、大事を隠して交渉を進めた羽柴方は信用ならぬと、和睦を反故(ほご)にし、羽柴勢の背後を衝くべしと息巻く者も少なくない。万一、そのような事態となれば、いかがされるおつもりですかな」

「なんと、誓紙を交わしたばかりというのに」と蜂須賀が声を上げるのを、官兵衛が軽く手で制します。

「毛利の方々がわれらを信用ならぬと申されるのも、無理からぬこと。その万一に備えて、それがしが殿(しんがり)を務めております。無論、僅かなわが手勢では、毛利勢を迎えれば、ひとたまりもありませぬ。しかし黒田の兵が最後の一人まで粘り、いささかでも時を稼ぐことができれば、羽柴様は上方に馳せ戻り、賊を討ち果たしてのけましょう。が、それはあくまで万一の話。それがしは西国に覇を唱えた、かの元就公の毛利家が、昨日結んだ約定を破るようなことはされまい、と信じます」
「信用ならぬ振る舞いをしておきながら、信を説くとは。さすがは智恵者の黒田殿、弁が立ちますな」

安国寺恵瓊が皮肉を込めて口を挟むと、官兵衛は自嘲の色をにじませながら、左足を叩きます。

「それがしがまことの智恵者であるならば、このような身体になってはおりませぬよ」

官兵衛の左足は膝関節が曲がらず、また皮膚病で毛髪が抜け落ちていました。謀叛を起こした荒木村重(あらきむらしげ)の説得に赴いた摂津有岡(ありおか)城(兵庫県伊丹市)で捕らわれ、劣悪な環境の地下牢に1年余りも幽閉されたためです。この経験が、官兵衛を変えました。能力への過信がもたらした絶望の日々は、官兵衛から知略を鼻にかける態度を消し、己は何のために生きるのかを問う機会となります。有岡城から救出され、秀吉の参謀役に戻った官兵衛は、極力無駄な血を流さない作戦を立案するようになりました。一方、周囲の官兵衛に対する評価も変わります。幽閉され、半死半生になってもなお、味方を裏切らなかった官兵衛を「信義に篤い男」と、敵味方問わず誰もが認めるようになりました。官兵衛の左足をじっと見つめる隆景に、官兵衛が声をかけます。

「小早川殿。羽柴秀吉様に、賭けてみませぬか」
「羽柴殿に、賭ける?」
「さよう、羽柴様は織田の一部将で終わるお人ではないと、それがしは見ております。ならばいま、毛利家が羽柴様に貸しをつくることは、必ずや近い将来、何倍もの恩恵となって返って参りましょう」

隆景は、ひたと官兵衛の目を見据えます。官兵衛の言葉が信じるに足るものか、見極めようとしたのでしょう。やがて隆景は破顔し、大きくうなずきました。

「相わかり申した。それがし、黒田殿の申されることを信じましょう。毛利が羽柴勢の背後を衝くような真似は、それがしの名にかけて許しませぬ。安心して、上方に向かわれよ」

*   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *

小牧の陣の次

「ときに、黒田殿」

小早川隆景に声をかけられ、官兵衛の意識は2年前の回想から、猿掛城の交渉の場に戻りました。

「尾張(おわり、現、愛知県西部)での戦(いくさ)が長引いておりますが、状況はいかがですかな」

半年前の天正12年3月、秀吉に従うことをよしとしない織田信雄(のぶかつ、信長次男)は、徳川家康と結んで挙兵、尾張の小牧(こまき)方面で羽柴勢と衝突します。小牧・長久手(ながくて)の戦いでした。前年の賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで織田家宿老の柴田勝家(しばたかついえ)を破った秀吉は、すでに信長旧臣の大半を配下にし、事実上の信長の後継者となっています。小牧・長久手の戦いでも織田・徳川勢3万に対し、羽柴勢は10万と圧倒的な差を見せつけました。それでも徳川勢が局地戦で勝利し、戦いは膠着(こうちゃく)するものの、秀吉は政略で終結へと導きます。

「ようやく、終わりが見えてまいりました。織田中将(信雄)殿とは年内に、和睦となりましょう」

隆景は、笑顔でうなずきます。毛利家はすでに昨年、賤ヶ岳の戦いに勝利した秀吉のもとへ小早川秀包(ひでかね)、吉川広家(ひろいえ)のふたりを人質として送り、従う意思を示していました。

「羽柴様は秀包殿が大層お気に入りで、小牧の陣にも側近くに召され、よくお話をされているご様子。このたびの国境画定につきましても、毛利家の事情を十分に汲むよう申しつかっております」

蜂須賀正勝の言葉に、座の空気がほぐれました。秀吉にすれば、すでに毛利家が従属した以上、細かい国境の画定は、もはや関心がなかったのかもしれません。「さて」と、官兵衛が口を開きます。

「本日、われらが参りましたのは、国境を最終確定させるとともに、今後のお話をするためです。このたびの小牧の陣で、織田殿、徳川殿に味方した勢力がいくつかあります。越中(えっちゅう、現、富山県)の佐々成政(さっさなりまさ)、紀伊(きい、現、和歌山県)の根来(ねごろ)・雑賀(さいか)衆、四国の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)。これらを来年、羽柴様はすべて討ち果たす所存です。ついては四国攻めにて、毛利家にお骨折りをお願いすることになりましょう。これは毛利家にとっても、大きな躍進を遂げる絶好の機会となるはずです。ぜひとも、準備をお願いいたします」

「これは、願ってもないこと。当主輝元とともに、毛利家あげてのお力添えをお約束いたします」

隆景の言葉を受けて、蜂須賀正勝が続けます。

「四国攻めには、それがしや黒田殿も参陣することになりましょう。かつての強敵毛利勢が友軍となれば、これほど頼もしき味方はございませぬ。安国寺殿、よろしくお願いいたしますぞ」
「四国も九州も、毛利の庭も同然。任せられよ」

強がる恵瓊に、皆が笑い声をあげました。

毛利家家紋「一文字三星(いちもんじさんせい)」と小早川家家紋「左三つ巴」

遠ざけられた官兵衛

翌天正13年(1585)、官兵衛の言葉通り、秀吉は織田信雄・徳川家康に味方した敵対勢力の掃討を開始。まず3月、紀州に秀吉自ら攻め込み、根来・雑賀衆を降伏させました。続いて6月、四国攻めが始まります。秀吉は体調不良のため出陣せず、総大将を弟の羽柴秀長、副将を甥の羽柴秀次(ひでつぐ)が務めることになりました。羽柴勢は三つの軍勢から成り、総大将秀長率いる第一軍6万は阿波(あわ、現、徳島県)方面、宇喜多秀家(ひでいえ)率いる第二軍1万5千は讃岐(さぬき、現、香川県)方面、毛利輝元率いる(実際の指揮は小早川隆景)第三軍2万5千は伊予(いよ、現、愛媛県)方面と、3方向から総勢10万が攻め込みます。対する長宗我部元親は、多く見積もっても4万。兵力で羽柴勢が圧倒しました。なお黒田官兵衛と蜂須賀正勝は、まだ15歳の宇喜多秀家を補佐するため、第二軍に加わります。

ところで秀吉は、備中高松城攻めを境に、それまで参謀役だった官兵衛を本陣に置かなくなりました。明智光秀との山崎の戦いも、翌年の賤ヶ岳の戦いも、官兵衛は部隊指揮官として最前線で戦っています。織田家の一部将の時代に比べて、秀吉が率いる軍勢の規模が巨大になり、官兵衛の指揮能力が前線で求められたからでしょう。ただ、官兵衛はふと思い出すことがあります。本能寺の知らせが届き、大泣きする秀吉に、官兵衛が天下を目指すよう勧めたときの、秀吉のおびえたような目の色を。本心を見抜かれた秀吉は官兵衛を警戒し、以後、遠ざけたともいわれます。

「あるいは、わしのしくじりであったかもしれぬ。しかし、あのときの言葉がきっかけとなり、秀吉殿の天下取りが始まったのも事実。天下一統の役に立ったのであれば、わしがどんな扱いを受けようと、そんな些末(さまつ)なことはどうでもよい……。おそらく半兵衛殿ならば、そう申されるであろうな」

官兵衛は、いまは亡き天才参謀・竹中半兵衛の温顔を思い出し、わずかに頬をゆるませました。

長宗我部の秘策

一方、劣勢の長宗我部元親には、秘策がありました。3方向から四国に攻め寄せる羽柴軍のうち、ひとつでも叩き潰すことができれば、味方が勢いづき、有利な条件で和睦できる可能性があります。長宗我部が目をつけたのは、まだ若い宇喜多秀家が率いる第二軍でした。讃岐の屋島付近に上陸するはずの第二軍は、付近の城を落として南下し、由良山(ゆらやま)城(高松市)に迫るでしょう。そこで由良山の兵は敗北を装って南へ逃げ、敵を狭い山間部の植田城(高松市)に引き付けます。そして敵が植田城に攻めかかったのを見計らい、周辺の山々に潜んだ長宗我部勢が、敵の退路を断って襲いかかり、包囲殲滅(せんめつ)する、というものでした。長宗我部元親自身は、四国の中心部・白地(はくち)城(徳島県三好市)で総指揮を執(と)ります。

四国平定戦

6月半ば、羽柴軍は予定通り3方向から四国へ上陸。屋島に上陸した第二軍は、周辺の喜岡(きおか)城、勝賀(かつが)城(高松市)を落とすと、南下して由良山城を攻めます。由良山の兵はわざとすぐに崩れ、南の植田城を目指して敗走。第二軍はそれを追って、山間部へと進みました。まさに長宗我部元親の思い描いた作戦通りに、第二軍が植田城に攻めかかる展開です。周辺の山々にはすでに長宗我部勢が埋伏(まいふく)し、待ち構えていました。ところが植田城の手前で、第二軍の足がぴたりと止まります。官兵衛が苦笑しつつ、進言したためでした。

「地形を見るに、なんともわかりやすい罠でございますな。宇喜多殿、蜂須賀殿、これ以上の深追いは無用。敵の主力は阿波なれば、これより我らも急ぎ阿波に向かい、美濃守(秀長)殿に合流いたしましょう。阿波さえ落ちれば、讃岐の敵など、放っておいても立ち枯れるとお見受けします」

この官兵衛の判断で、長宗我部元親の秘策はあえなく瓦解(がかい)し、元親はこう悔しがったといいます。

「黒田官兵衛という歴戦のつわものに見破られ、我が策は水泡(すいほう)に帰した」(意訳筆者)

7月下旬、長宗我部は和議に応じ、土佐(とさ、現、高知県)一国の領有を許されました。四国攻めの功で、阿波は蜂須賀正勝・家政(いえまさ)父子に、讃岐は仙石秀久(せんごくひでひさ)に、伊予は小早川隆景に与えられます。官兵衛には播磨(現、兵庫県南部)宍粟(しそう)郡3万8千石程度が与えられました。なお四国攻めの最中に秀吉は関白に就任、名実ともに天下人となります。

島津氏討伐

四国を平定した秀吉の目は、次に九州に向けられました。当時、九州では薩摩・大隅(さつま・おおすみ、現、鹿児島県)の島津(しまづ)氏の勢力が強く、圧倒された豊後(ぶんご、現、大分県南部)の大友(おおとも)氏が、秀吉に救援を要請します。秀吉は九州の諸大名に停戦命令を出しますが、島津氏は従いません。むしろ秀吉軍が来る前に九州を統一すべく北上を続け、大友氏の諸城を次々と落としていきます。翌天正14年(1586)7月、秀吉は島津氏討伐のための軍勢派遣を決定。主力は毛利輝元・小早川隆景らの毛利勢で、軍監として毛利家が信頼する官兵衛も同行します。軍監とは現場の指揮統制、秀吉への情勢報告、さらに作戦の助言などを行う立場でした。また毛利勢とは別に、仙石秀久を中心とする長宗我部元親らの四国勢も九州に派遣されることになります。なお同年9月、関白秀吉は朝廷より、「豊臣」姓を賜りました。

同年10月、九州の豊前(ぶぜん、現、福岡県東部・大分県北部)に官兵衛と毛利勢が上陸。小倉城(北九州市)、香春岳(かわらだけ)城(福岡県香春町)など島津方の諸城を落とすと、筑前(ちくぜん、現、福岡県西部)へ進軍、両国から島津勢を一掃しました。同時に官兵衛は、九州の諸大名、地元勢力に味方につくよう働きかけます。得意の調略でした。こうして官兵衛らが豊前・筑前を固める一方で、大友氏救援のために豊後に向かった四国勢は12月、功を逸(はや)った仙石秀久の暴走により、戸次(へつぎ)川の戦いで島津勢に惨敗。これを受けて秀吉は、天正15年(1587)正月、諸大名に九州攻めを命じます。総勢、実に20万の大軍でした。

九州平定戦

根白坂の決戦

同年3月、続々と九州に上陸した豊臣軍は二手に分かれます。九州西部を南下する秀吉の肥後(ひご、現、熊本県)方面軍と、九州東部を南下する秀長の日向(ひゅうが、現、宮崎県)方面軍でした。官兵衛は秀長を大将とする日向方面軍に属し、蜂須賀家政とともに一番隊として先鋒を務めます。なお二番隊は小早川隆景、三番隊は毛利輝元、四番隊は宇喜多秀家、宮部継潤(みやべけいじゅん)、五番隊は羽柴秀俊(ひでとし、のちの小早川秀秋)でした。官兵衛が事前に九州の諸将を味方につけていたため、豊臣軍はほとんど足止めされずに南九州の島津領に迫ります。

島津家当主の義久(よしひさ)は、東西から迫る豊臣軍に対し、東の秀長の軍勢を叩いて起死回生を図ることを決断。当時、秀長軍は日向南部の要衝・高(たか)城(木城町)を包囲しており、高城救援に来る島津軍を迎え撃つべく、城の南の根白坂(ねじろざか)に堅固な砦を築いて、宮部継潤ら1万が守っていました。4月17日の夜、根白坂の砦を島津軍3万5千が襲撃。夜間の島津軍の猛攻の前に秀長軍は混乱しますが、砦を守備する宮部がよく持ちこたえ、また藤堂高虎(とうどうたかとら)らが砦の救援にかけつけて、島津軍と激戦になります。さらに黒田官兵衛、小早川隆景らが敵を挟撃し、島津軍を大いに破りました。主力決戦に敗れた島津軍の士気は急速に落ち、21日には秀長に和睦を申し入れ、5月8日に秀吉に降伏。ここに九州平定戦は幕を下ろします。官兵衛は武功により豊前6郡、12万石を拝領。本拠を播磨から九州に移し、中津城を築くことになります。

2年後の天正17年(1589)、官兵衛は家督を息子の長政(ながまさ)に譲り、秀吉に隠居を申し出ます。まだ44歳でしたが、天下一統もほぼ見えてきており、もはや自分の役割は終わったと考えたのかもしれません。しかし秀吉は、家督の件は許したものの隠居は認めません。天下一統を終えるまでは、官兵衛の力が必要になると予測したのでしょう。果たして、秀吉の予測は当たりました。

調略の切り札

天正18年(1590)3月、秀吉はいよいよ最後の仕上げにかかります。秀吉に従わない関東の覇者・北条(ほうじょう)氏を討つための、小田原の陣でした。長年、秀吉の右腕だった弟の秀長は、病のため出陣できず。代わりに先鋒を徳川家康が務め、豊臣秀次(ひでつぐ)、織田信雄らが続きます。北陸方面からは前田利家(まえだとしいえ)、上杉景勝(うえすぎかげかつ)、真田昌幸(さなだまさゆき)らが別働隊として進攻。さらに九鬼嘉隆(くきよしたか)、長宗我部元親らの水軍が相模湾を埋めるなど、豊臣軍の総勢は21万以上。北条勢6万を圧倒しました。官兵衛は息子長政に中津城を守らせ、自らは僅かな手勢で豊臣軍に加わります。秀吉は前田利家らの別働隊に、関東の北条の有力支城を次々に落とさせる一方、北条氏政(うじまさ)・氏直(うじなお)の籠城する本拠の小田原城を無理攻めせず、目の前の石垣山に新たな巨城を築いて、戦意を削(そ)ぐ作戦をとりました。6月に入ると、頃合いよしと豊臣側は開城交渉を始めますが、北条氏は応じません。そこで秀吉は、新たに官兵衛を交渉役に任命。秀吉にとって調略の切り札は、やはり官兵衛でした。

AIで再現した小田原城内での交渉のイメージ

官兵衛はまず陣中見舞いとして、北条氏政・氏直父子に酒2樽と粕漬けの魴鮄(ほうぼう)10尾を届けさせます。北条側から返礼が来ると、官兵衛は答礼と称し、たったひとりで小田原城に乗り込みました。肩衣(かたぎぬ)・袴姿の正装で、なんと丸腰です。官兵衛の豪胆な振る舞いに感心したのか、氏政・氏直父子は面会に応じました。

「二十万余りの大軍を前に、百日を超す籠城。さすがは早雲(そううん)公以来百年にわたり、関東に覇を唱えし北条家の武略を、改めて天下に示したと、関白殿下も大いに感服されてございます」

氏政・氏直父子の健闘をたたえた後、官兵衛はこれ以上の戦いは無益であることを、熱意を込めて説き、降伏・開城を勧めます。氏政・氏直父子はその場では回答しなかったものの、当主の氏直は官兵衛の説得に心を動かされ、7月5日に降伏を伝達。小田原城は、無血開城することになりました。その後、秀吉は東北地方の大名の配置を決定し、9月、ついに天下一統を成し遂げます。

「半兵衛殿。これでようやく、あなたから託された軍配を、手放すことができましょう」

官兵衛は、安堵の笑みを浮かべたのかもしれません。

秀吉はその後、戦いにとりつかれたかのように朝鮮出兵に突き進みますが、官兵衛は距離を置き、積極的に関与しようとはしませんでした。天下一統を果たしたいま、これ以上の戦は「無用」と考えていたからでしょう。しかし、ほどなく秀吉が没し、天下が真っ二つに割れる中、官兵衛の智略が再びよみがえるときが訪れます。

アイキャッチ画像:AIを使って作成した朝日と黒田官兵衛のイメージ。

参考文献:諏訪勝則『黒田官兵衛』(吉川弘文館)、渡邊大門『黒田官兵衛』(講談社現代新書)、太田牛一著、中川太古訳『現代語訳 信長公記』(新人物文庫)、歴史群像シリーズ38『黒田如水』(学研)、司馬遼太郎『播磨灘物語 四』(講談社文庫) 他
Share

チワさぶろう

主に大河ドラマ記事に出没するチワワ侍。歴史好きで、昭和の大河も観ているようなので、それなりの年齢と推定される。本人(本犬)は強がってはいるものの、柴犬さんなどにいつも鼻であしらわれる。
おすすめの記事

ふたりの軍師、竹中半兵衛と黒田官兵衛。天才は天才に何を伝えたのか

チワさぶろう

明智光秀を「本能寺の変」に駆り立てた?近年注目されている「四国政策転換説」の全貌

小林明

戦国最強フリーランサー? 『豊臣兄弟!』で佳久 創が演じる、藤堂高虎の履歴書

樽瀬川

戦国きっての悪役令嬢?秀吉が溺愛した年下妻・茶々(淀殿)の悲しき素顔

山見美穂子

人気記事ランキング

最新号紹介

10,11月号2026.09.01発売

愛♡日本美術の超名品100

※『和樂』6/7月号「和樂スタッフの「推し民藝」P75「『勝山スズ竹伝統工芸』の米とぎザル」の記載に誤りがありました。
(誤)静岡(正)山梨 となります。お詫びして、訂正します。
※和樂本誌ならびに和樂webに関するお問い合わせはこちら。
※小学館が雑誌『和樂』およびWEBサイト『和樂web』にて運営しているInstagramの公式アカウントは「@warakumagazine」のみになります。
和樂webのロゴや名称、公式アカウントの投稿を無断使用しプレゼント企画などを行っている類似アカウントがございますが、弊社とは一切関係ないのでご注意ください。
類似アカウントから不審なDM(プレゼント当選告知)などを受け取った際は、記載されたURLにはアクセスせずDM自体を削除していただくようお願いいたします。
また被害防止のため、同アカウントのブロックをお願いいたします。

関連メディア