茶々は気が強く浅はかで、淫乱。豊臣家を滅ぼした悪女として有名です。しかし、茶々にまつわる悪評のほとんどは、後世の創作であることがわかっています。
NHKの大河ドラマ『豊臣兄弟!』では、秀吉が溺愛した年下の妻をアイドルグループ乃木坂46の井上 和(いのうえ なぎ)さんが演じ、その愛らしい扮装が話題です。
令和に描かれる、新しい「茶々」像が注目されます。
茶々(淀殿)にまつわる3つのゴシップ
茶々には、いくつものゴシップがつきまといます。
子どもの父親は誰?
ひとつは、茶々が生んだ2人の息子、鶴松(つるまつ)と秀頼は秀吉の子どもではないという噂。茶々が別の男性と浮気して生まれたのではないかという疑惑です。
秀吉と他の妻との間にはなかなか子どもが生まれなかったこと、茶々が秀頼を妊娠・出産した時期に、秀吉が九州に遠征していたことなどが、その疑いを深くしました。
傾国の美女?
傾国(けいこく)とは、君主が美女に溺れて政治をおろそかにしたときなどに使われる言葉です。秀吉は親子ほども歳の離れた茶々を溺愛し、彼女が生んだ子どもを後継ぎにするために、すでに関白の座を譲っていた甥の秀次(ひでつぐ)に謀反の疑いをかけて、死に追いやってしまいました。
茶々が、秀吉を暴君に変えたのでしょうか。
豊臣家を滅ぼした女?
秀吉亡きあと、関ケ原の戦いに勝利した徳川家康(とくがわ いえやす)に従うことを拒んで、大坂の陣で息子の秀頼とともに自害した茶々。そのプライドの高さが、豊臣家を滅ぼしたと言われています。太閤(たいこう、天皇の補佐である関白を引退した人の敬称)秀吉の妻、その跡取り息子の母として手にした権勢を手放したくなかったのだろうと、呆れたように言われることも。
茶々は江戸時代の「悪役令嬢」
茶々をこのような悪女に仕立てたのは、江戸時代に流行した歌舞伎や読本(よみほん)などの大衆娯楽。つまりフィクション(創作)です。とはいえ、幕府の顔色をうかがって豊臣家を貶めるばかりではなく、茶々を最後まで豊臣家を守ろうとして戦い抜いた女性として描いている作品もあります。
死後にヴィラン(悪役)を押し付けられて、でも気丈なヒロインのような顔も持つなんて、まるでライトノベルに登場する「悪役令嬢」のようではありませんか?
その素顔を想像しながら、茶々の人生を辿ってみましょう。

戦に翻弄された娘時代
茶々は北近江の大名浅井長政(あざい ながまさ)と、信長の妹お市(いち)の方との間に生まれた茶々・初(はつ)・江(ごう)という三姉妹の長女です。天下統一を目指した風雲児、信長の姪に生まれた宿命でしょうか、その少女時代は平穏ではありませんでした。
父・長政が同盟を破って信長と敵対し、一家が暮らしていた小谷城に籠城の末、自害したのは天正元(1573)年。茶々には母親違いの兄がいましたが、助命は叶わず、浅井氏は滅亡します。
一方で、茶々と妹たちは母のお市の方に連れられて、伯父であり、父の敵でもある信長の元に身を寄せることとなりました。茶々の生年は諸説ありますが、永禄12(1569)年生まれという説をとると、数え年で5歳のときです。
信長が「戦国一の美女」とうたわれた妹をかわいがっていたのは有名な話。お市の方が生んだ三人の娘たちも、その美貌を受け継いでいたのではないかと想像されます。
戦国時代の姫君たちには、同盟の証として他家に嫁ぐという重要な役割がありました。織田の血を引く三姉妹は、いずれ重要な場面で外交の切り札となるべく、大切に育てられたのではないでしょうか。
ところが天正10(1582)年、明智光秀(あけち みつひで)の謀反により信長が本能寺の変で死去。お市の方は娘たちを連れて、織田家重臣の柴田勝家(しばた かついえ)と再婚します。その後、秀吉と勝家は対立し、翌天正11(1583)年には賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いに突入。勝家が敗れると、お市の方は夫とともに自害することを選び、残された三姉妹は勝者である秀吉の庇護下に入ります。このとき、茶々は15歳。
父親ほども年の離れた秀吉の側室に
茶々が、いつどのようにして秀吉の側室になったのかは、はっきりとしません。秀吉が若い頃に憧れていたお市の方の面影を、成長した茶々に見たのではないかと言われることも。天下統一に王手をかけていた主・信長の姪を妻にすることで、天下人として箔をつけたという見方もあります。
長男の鶴松を出産したのは天正17(1589)年、21歳のとき。懐妊を喜んだ秀吉が、淀城を改築して妊娠中の茶々を住まわせたことが、江戸時代以降に淀殿または淀君と呼ばれるようになった理由です。関白・秀吉は54歳。複数の側室を侍らせていても、実の子どもには恵まれていませんでした。

秀吉が溺愛した捨(すて)と拾(ひろい)
「捨て子は丈夫に育つ」と言って、子どもの無事を祈って形式的に一度家の前などに捨てて、拾い子として育てる風習があります。秀吉も鶴松を「お捨」と呼んでかわいがっていましたが、あいにく鶴松は病弱で、3歳で早世してしまいました。息子を失って気落ちしたのでしょうか。秀吉は、甥の秀次に関白の座を譲ってしまいます。
ところが、文禄2(1593)年に茶々がまた男子を出産。次男の秀頼です。秀吉はこの子を「拾」と呼んで溺愛し、やはり自らの子を後継者にしたいと考えて、秀次に謀反の疑いをかけたのではないかと推測されています。

正妻・寧々との関係
茶々が秀頼を妊娠した時期、秀吉は朝鮮出兵の指揮をとるために九州まで出陣していました。そのため、秀頼の父親を疑う声もあります。しかし今では、秀吉の手紙などから茶々も九州に同行していたこと、妊娠が判明して大坂城に戻り出産したことがわかっています。
片時も放したくないほど茶々に溺れていたようにも見えますが、秀吉は正妻の寧々を北政所(きたのまんどころ、関白の妻の敬称)として立て、息子への手紙でも寧々を「まんかかさま」と呼び、尊ぶべきもうひとりの母としています。
大坂城では寧々が本丸、茶々と秀頼が二の丸で暮らしていたので、茶々はこの時期、周囲から「二の丸殿」と呼ばれていました。
大坂城で、最後まで息子とともに
秀吉が、徳川家康ら五大老に秀頼の後見を頼み、亡くなったのは慶長3(1598)年。
慶長5(1600)年の関ケ原の戦いを経て、家康が征夷大将軍に就任したのが慶長8(1603)年です。家康は大名らに臣従を求めましたが、茶々は「豊臣こそが主」と訴えました。三姉妹のうち、末の妹の江が2代将軍秀忠(ひでただ)に嫁いでいたため、もうひとりの妹の初が和平交渉の仲介役となるものの、まとまることなく両家の緊張は高まり、ついに大坂の陣へ。徳川勢に囲まれて大坂城は落城し、茶々は息子の秀頼とともに自害しました。豊臣氏の滅亡です。慶長20(1615)年、茶々47歳、秀頼23歳でした。
茶々は愚かにも権力にしがみついて、豊臣家を滅ぼしたのでしょうか?
息子に流れる織田の血が、豊臣の血が、家康に必ず疎まれるとわかっていたのではないでしょうか。
その胸の内は想像することしかできませんが、父と母を戦に奪われ、妹と敵味方に分かれ、息子さえも守りきれなかった茶々です。能の演目だったら、鬼女に変身していたっておかしくありません。
無念を抱いてお芝居や物語のなかによみがえったのだと思えば、悪女として名を馳せたって本望ではありませんか。
アイキャッチ:喜多川歌麿「太閤五妻洛東遊観之図」出典:メトロポリタン美術館 ※一部をトリミング
参考書籍:
『淀殿』著:福田千鶴(ミネルヴァ書房)
『豊臣秀頼』著:福田千鶴(吉川弘文館)
『豊臣秀吉事典』(新人物往来社)
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)

