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2023.10.23

秀吉の死から狂う歯車。知将・石田三成の生涯と壮絶な最期

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あまたいる戦国武将のなかで、頭脳派といえば、石田三成をあげる人も多いでしょう。豊臣秀吉に見いだされた三成は、その知力を駆使して、豊臣政権を支えました。今まで映画やドラマでは、徳川家康と対立した悪役として描かれることが多かったのですが、近年になり見直す動きが広がっています。

2023年大河ドラマ『どうする家康』では、歌舞伎俳優の中村七之助が演じています。実は家康を演じる松本潤と七之助は、高校時代からの親友同士。歴史に残るライバル関係を、気心の知れた2人がどう演じるのか? 期待が高まります。

役者さんの素顔から楽しむ大河もまた乙なものですね!

秀吉の心を掴んだ気配りエピソード

三成は、永禄3(1560)年、近江国坂田郡石田村(現在の滋賀県長浜市)の士豪・石田藤三衛門正継の次男として誕生しました。幼い頃から聡明な子と評判だった三成は、寺に預けられて学問修行の日々を送ります。

三成が15歳の頃、長浜城主になって間もない秀吉が、寺にやってきます。鷹狩りの帰りで、のどが渇いていた秀吉がお茶を頼むと、最初はぬるいお茶、2杯目はやや熱く、3杯目は熱いお茶を差し出します。三成の相手を思いやる心に感心した秀吉は、近習(きんじゅう 主君のそばに使える家来)として長浜城に連れ帰ることを決めます。この三成と秀吉の運命の出会いは、「三献(さんこん)の茶」として有名です。このエピソードには諸説あり、否定する説もありますが、利発で機転がきく少年だったことは確かなようです。


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実務に長けた頭脳派武将

三成は秀吉に仕えるようになると、戦場での働きよりも、事務方として力を発揮します。天正11(1583)年に秀吉が柴田勝家を破った賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いでは、敵方の情報を集めて、戦略作りに貢献。また勝利の決め手となった「美濃大返し」を陰で支えました。美濃国大垣(現在の岐阜県大垣市)から近江国木之本(現在の滋賀県長浜市木之本町)までの13里(約52㎞)の道程を約5時間で移動させた大がかりな軍団移動は、当時としてはかなりの速度でした。三成は街道の要所に乗り換え用の馬や食事を手配し、秀吉軍の勝利を導いたのです。裏方だけではなく、戦場では槍で敵に立ち向かい、活躍したと伝えられています。秀吉にとって、いかに頼りになる家臣だったのかがわかります。

秀吉の命により全国的に行った、土地の面積と収穫量の測地調査を指す「太閤検地」も、三成が実行役となって携わりました。全国共通の寸法、石高の計算方法を定め、正確な情報に基づく年貢の取り立てや軍役を統一できるようになったのです。秀吉の天下統一への重要な政策でした。

現代だったら超優秀な社長秘書とかだったのかも。

家臣を破格の待遇で迎える

三成の家臣には、武将として有名な島左近(しまさこん)がいます。いつ頃に家臣になったのかは、はっきりとは分かりません。三成が近江国水口(現在の滋賀県甲賀市水口町)の城主になったという説があり、この時に迎え入れられたか、或いは近江国佐和山城(現在の滋賀県彦根市)の城主の時期との説があります。

三成は自分の俸禄(ほうろく)4万石の約半分近くを与えたと伝えられています。猛将として世間に知られた左近は、当時40代後半。多くの仕官の要請を受けていましたが、誰にも仕える気がありませんでした。しかし年若い三成から三顧の礼で出された破格の金額と、熱意にほだされたそうです。戦国時代の俗謡に「三成に過ぎたるものが2つあり 島の左近と佐和山の城」とあるほど、左近は優れた武将でした。三成は、自身の実戦の力が弱いことを、認識していたのでしょう。冷静な判断力を持っていたことがうかがえます。

過ぎたるもの、ってフレーズ、他でも聞いたことあるよなあ、と思ったら。ありました。 徳川四天王・本多忠勝とは?「家康に過ぎたるもの」と言われた戦国最強の武将

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秀吉の死から狂う歯車

関白として政権を樹立した秀吉を支えた三成は、近江国佐和山城19万余石の大名となります。秀吉の晩年になると、幼い息子・秀頼を支えるために五奉行※を形成。その内の1人に任命された三成は、中心となって行政を行いました。

そして慶長3(1598)年、ついに秀吉は伏見城で病死します。残された処理のために、多忙な日々を送る三成。秀吉が明征服を企んで行った朝鮮出兵は、結局うまくいかず、日本軍は撤退を余儀なくされます。その指揮をしたのが三成で、約3か月もの日数を要しました。この幕引きの作業では、現地で戦った加藤清正ら武闘派の武将との確執を生んでしまいます。秀吉の補佐として優秀だった三成ですが、生真面目な性格ゆえ、周囲から誤解を受けてしまうことが多かったようです。

一方、秀吉亡き後、日増しに存在感を増していく家康に対して、三成はどう思っていたのでしょうか。五奉行の1人であった三成でしたが、政敵となってしまった清正らの襲撃を受けて、逃亡します。その争いの仲裁を買って出たのが家康でした。彼は三成に五奉行を辞職し、佐和山城へ引退することを勧告します。他に手立てが無い三成は、仕方なくそれを受諾します。

※豊臣政権下の役職。五大老と協力しつつ、重要な政務を処理した五人の奉行。五大老には徳川家康らが任じられた。

家康と対立した関ヶ原の戦い

こうして失脚した三成でしたが、家康が天下取りに動き出したことを知ると、黙って見ている訳にはいきませんでした。大人しく隠居生活を送っているように装いながら、家康討伐に向けて着々と準備を進めていきます。

自分の善は誰かの悪かもしれない。戦国時代の記述を見ていると、ひしひしとそれを感じさせられますね……。

三成と家康の仲は、実際はどうだったのでしょう。豊臣政権下の三成の手腕を一番評価していたのは、意外にも家康だったそうです。また秀吉が亡くなったことを真っ先に家康に伝えたのは三成でした。秀吉の遺言を破って、無断で諸大名との婚姻関係を結ぶなど家康が暴走するまでは、恐らく友好的な関係だったのではないでしょうか。

刀 無銘 正宗(名物 石田正宗) 関ケ原の戦いの前年である慶長4(1599)年に、三成から家康の子の結城秀康に贈られた刀。ColBase

慶長5(1600)年、日本を二分した天下分け目の合戦・関ヶ原の戦いが勃発します。西軍の中心的存在だった三成と東軍を率いる家康との真っ向勝負でした。戦いは西軍優勢で始まりますが、その後小早川秀秋が裏切ったことがきっかけで、西軍から東軍へ寝返る武将が出て来ます。これで流れが変わり、家康の勝利で決着が着きました。

壮絶な最期と地元での評判

関ヶ原の戦いのあと、逃げて再起を図るも捕まってしまった三成は、敗軍の将として六条河原で斬首されてしまいます。その後さらし首の辱めを受ける残酷な最期でした。享年41。亡くなる時のエピソードが伝えられています。処刑の直前、のどが渇いた三成は水を求めます。しかし水はもらえず、渡されたのは干し柿。「柿は痰の毒だからいらない」と三成は断ります。「これから死ぬというのに、今更毒絶ちして何になる」と警護の者は笑いましたが、「大志を持つ者は、最期まで命を惜しむものだ」と毅然とした態度を崩しませんでした。

三成は城主として善政を行ったことから、領民たちに慕われました。三成に関する悪評は、死後に徳川によって作られた話も多いようです。長浜では三成の死をいたみ、現在も法要が続いています。

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参考文献:『石田三成ー関ヶ原西軍人脈が形成した政治構造ー』太田浩司編 (宮帯出版社) 『日本大百科全集』(小学館)
アイキャッチ画像:関ケ原合戦屏風絵(模本)江戸時代・天保7(1836)年 ColBase

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幼い頃より舞台芸術に親しみながら育つ。一時勘違いして舞台女優を目指すが、挫折。育児雑誌や外国人向け雑誌、古民家保存雑誌などに参加。能、狂言、文楽、歌舞伎、上方落語をこよなく愛す。十五代目片岡仁左衛門ラブ。ずっと浮世離れしていると言われ続けていて、多分一生直らないと諦めている。

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人生の総ては必然と信じる不動明王ファン。経歴に節操がなさすぎて不思議がられることがよくあるが、一期は夢よ、ただ狂へ。熱しやすく冷めにくく、息切れするよ、と周囲が呆れるような劫火の情熱を平気で10年単位で保てる高性能魔法瓶。日本刀剣は永遠の恋人。愛ハムスターに日々齧られるのが本業。