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2022.09.05

徳川四天王・本多忠勝とは?「家康に過ぎたるもの」と言われた戦国最強の武将

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2023年の大河ドラマ『どうする家康』の主人公・家康は、『徳川四天王』と呼ばれた家臣に、厚い信頼を寄せていたことで知られています。この4人の中の本多忠勝(ほんだただかつ)は、幼い頃から家康に付き従い、命がけで戦いました。男気のあるキャラクターから、ゲーム『戦国BASARA』でも人気です。

老若男女に愛されるキャラですね!

今回の大河ドラマでは、役によって変貌することから、カメレオン俳優とも呼ばれる山田裕貴が演じると発表されました! これは、楽しみですね~。

家紋からも感じられる信頼の厚さ

ところで忠勝の家紋は、「立ち葵」(たちあおい)です。このデザイン、どこかで見たような気がしませんか? そう、徳川家の家紋にも葵が使われていますね。本多家に受け継がれてきた家紋で、この紋を使うことは家康から認められていたようです。本多家は、徳川本家(松平家)に代々仕えてきた家系。家康と忠勝の結びつきを感じます。一説では、徳川家の御紋を考案するのに、手本にしたのではとも言われています。

江戸幕府成立後、葵を使った家紋は徳川家以外は使用を遠慮するように、家康によって制限されましたが、本多家は特別の扱いでした。

それはもう、深~い結びつきを感じちゃいますね! 


合戦で一度も傷を負わなかったってホント?

忠勝は2歳の時に父を亡くしますが、以降は叔父の後ろ盾を得て成長します。家康が人質の時代から仕え、数々の手柄を立てました。生涯60回近い合戦に参加しながら、一度も傷を負わなかったとの伝説が残っています。まさに戦国最強! 

ひょっとすると、家康への忠誠心がずば抜けていたことが、敵からの攻撃をかわすことに繋がったのかも知れません。家康殿は私が守る! という気概でしょうか?

なんと神がかり的な武勇伝!  そこに忠勝がいるだけで、安心しちゃう!

三重県桑名市にある本多忠勝の像。トレードマークの鹿角(かづの)の兜に、肩からかけた巨大な数珠、名槍・蜻蛉切(とんぼきり)も再現。

永禄6(1563)年に起きた「三河一向一揆(みかわいっこういっき)」※1では、一向宗(浄土真宗)であった忠勝の親族は、大半が一揆側につきましたが、忠勝は浄土真宗から浄土宗に改宗して、家康側に。この忠誠心と戦いぶりを評価した家康は、「家康旗本衆」※2に抜擢し、50余騎を統率する騎馬大将になりました。若干19歳にして、異例の大出世です。

※1 家康に反抗して三河(愛知県)岡崎周辺でおこった一向宗門徒の一揆。家康は苦戦したが鎮圧に成功。
※2 家康直属の部隊。

敵側からも賞賛される戦いぶり

長らく人質の立場に甘んじていた家康でしたが、今川義元の死を機に解放されると、義元を倒した織田信長と同盟を結びます。その後、家康にとって最大の脅威となるのが、武田信玄の存在でした。信玄は信長を倒すために、将軍・足利義昭(あしかがよしあき)ら反織田勢力との連携を強めていました。元亀3(1572)年、信玄は信長の同盟者である家康の三河、遠江に侵攻し、徳川方の要所である二俣城(ふたまたじょう)へ攻撃を開始します。忠勝は家康の命令により視察に向かいますが、武田軍の先発隊と鉢合わせになってしまいます。

退却を始めますが、追いつかれてしまったために、殿役(しんがりやく・最後尾の部隊)を務めていた忠勝は武田軍と交戦して、撤退に貢献。この時の忠勝があまりに強かったので、敵方の小杉左近は、「家康に過ぎたるものが2つあり、1つは唐(から)の兜に本多平八」※3と称えました。

徳川家康の運の強さは、忠誠心あふれる家臣に守られていたところにも表れていますね~。


信長の死後に羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)と衝突した小牧・長久手の戦い(こまきながくてのたたかい)※4では、家康が率いる軍に危険が迫っていると知るや、わずかな手勢を引き連れ出陣。忠勝が家康の留守を預かっている時のことで、周囲の警告を無視しての行動でした。約16万の豊臣軍に対して、忠勝はわずか500の兵だったとか。何という勇者! おまけに敵の軍勢を前にゆうゆうと馬に水を飲ませて挑発し、自分に注意を向けさせる大胆な行動に出ました。この忠勝の勇気に心を打たれた秀吉は、攻撃してはいけないと命令したそうです。合戦は秀吉の攻略で和議が結ばれますが、忠勝を大いに気に入った秀吉は、のちに「東国に隠れなき勇者」と絶賛しました。

この大差、戦うなんて考えられません! 私だったらとっとと逃げます!

※3 唐原産のヤクの兜と、忠勝は家康にはもったいないという意味。平八郎を通称名として使っていた。
※4 天正12(1584)年に行われた秀吉と、織田信雄(おだのぶかつ・信長の次男)の戦い。 

今も残る忠勝愛用の槍

このように数々のスーパーヒーロー伝説が残る忠勝ですが、実は愛用していた槍が現存しているのです。蜻蛉切(とんぼぎり)と呼ばれる名前の由来は、戦場で飛んでいたとんぼが、槍先に止まったところ、真っ二つになってしまったからとか。詳しくは、こちらをお読み下さい。
天下三名槍のひとつ、蜻蛉切。槍の名手・本多忠勝が愛用した武器の特徴とは

忠勝の残した言葉が、泣かせる!

家康を守ることを使命として、戦に邁進する日々。そんな忠勝は、関ヶ原の戦い※5の功績で伊勢桑名(現在の三重県桑名市)藩に10万石を与えられます。この地に移ってからは、城郭や宿場などの整備に力を入れて、名君と呼ばれるようになりました。その後、病がちであったことから家督を長男に譲り隠居。そのわずか1年後に亡くなります。享年63。

この時の辞世の句として伝えられているのが、

死にともな 嗚呼死にともな 死にともな 深きご恩の君を思えば

本当にこの言葉を残したのかどうかは不明ですが、「主君の深い恩に報いることができないと思うと、死にたくない」の言葉は、忠勝らしいですね。武闘派でならした武将も、体調不良や時代の流れもあって、晩年は幕府の中枢からは遠くなっていました。それでも最後まで忠誠心が変わらなかったのは、真実だろうと思います。

家臣の中の家臣! あっぱれって感じの忠誠心の塊なんですね。桑名は素敵な城下町。また、行きたいな~。

※5 慶長5(1600)年、家康の率いる東軍と、石田三成を中心とする西軍によって、美濃(みの)国関ヶ原で行われた戦い。

関連人物

徳川家康
・徳川四天王  酒井忠次
・徳川四天王  榊原康政
・四天王四天王 井伊直政
・徳川四天王 本多忠勝

参考書籍:『戦国史』小和田哲男監修 朝日新聞出版、『読むだけですっきりわかる日本史』 宝島社、『企業として見た戦国大名』真山知幸著 彩図社、『日本大百科全集』小学館

▼参考文献はこちら
企業として見た戦国大名

書いた人

幼少期より祖父と共に大河ドラマを見て育つ。毎回、感情移入しすぎるので、最終回と共にロスがひどいのが悩み。『どうする家康』を盛り上げるべく、くろりんと共に、トッキー&くろりんを結成。

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織田信長、豊臣秀吉、徳川家康をはじめ、有名な戦国武将が、愛知県をはじめ東海エリアから多数輩出されていることから、歴史の入り口は東海にあり!と勝手に燃えているにわか歴女。思い込みと圧が強いことから、高木編集長より「圧女くろりん」と命名される。しかし本人は、まじめに「目指せ!歴女への道」をスローガンに「歴女くろりん」と改名できるよう日々、精進中。