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2022.07.10

出世街道まっしぐらのイケメン武将!徳川四天王・井伊直政を3分で解説

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2023年放送の大河ドラマ『どうする家康』の井伊直政(いいなおまさ)役は、さあ誰なのか? 気になっていたところ、板垣李光人(いたがきりひと)が務めると発表されました。『青天を衝け』の気品漂う徳川昭武役が、印象に残っている人も多いことでしょう。直政役は、イケメンの新進スターの登竜門的な位置づけなのか?『おんな城主直虎』では、大ブレイク前の菅田将暉が演じてましたね~。これは、楽しみ!

『どうする家康』応援ユニット、トッキー&くろりんです~。まさに、美少年役、ぴったりですね~!!

実際の直政も、イケメンだったそうで。大河ドラマファンのトッキー(怪しいユニット結成しました!)が、そんな直政について、おさらいします!!

波乱の幼少期を経て、徳川家康の小姓に

直政は、永禄4(1561)年に、今川氏に従う井伊直親(いいなおちか)の嫡男として生まれました。井伊家は代々国人領主※1の家系で、遠江国(とおとうみのくに・今の静岡県西部)に勢力を持った一族でした。しかし、当時の当主・井伊直盛(直親の従兄弟)が、今川義元に仕えて桶狭間の戦い※2で戦死。混乱の状況の中、父の直親は謀反の疑いをかけられて、殺害されます。その為、わずか2歳だった直政は、身を守るために出家するなどして、各地を放浪する日々を送るようになります。

幼い頃から苦労が絶えなかったんですね~。こういうタイプ、母性本能をくすぐられます(笑)。

そんな不遇の直政に、転機がやってきます。天正3(1575)年、浜松城下で徳川家康に見いだされて、小姓として仕えることとなったのです。当時15歳の直政は、人目を引く美形だったそうで、家康はそこに惹かれたのかもしれません。また養母として面倒を見ていた直虎(なおとら)※3が、井伊家を復活させるために、周到に仕組んだからとも伝えられています。

※1南北朝時代から戦国時代にかけて、農民層を直接支配した在地領主。
※2尾張桶狭間における、今川義元と織田信長の戦い
※3直盛の一人娘。井伊家を守るために、女城主となった。

赤備えの軍団の長に大抜擢!

家康の小姓となった直政は、武田氏との戦いでは、果敢に戦いに挑み、成果をあげていきます。そして異例の出世をとげて、後に「徳川四天王」と呼ばれる、家康の重臣のポジションへと上っていきます。

徳川四天王では最年少でしたが、武力では劣らず、大活躍!


天正10(1582)年、本能寺の変が勃発すると、織田信長に招かれて堺にいた家康一行は、伊賀国(いがのくに・現在の三重県西部)の山中を踏破して、三河国(みかわのくに・現在の愛知県東部)へ逃れます。この「伊賀越え」で、直政は命がけで家康を守り、後に褒美として、くじゃくの羽で織った美しい陣羽織を与えられます。

武田家滅亡後、武田旧領を手中におさめた家康は、旧武田軍を配下に置き、直政を侍大将に抜擢。天正12(1584)年、小牧・長久手の戦い(こまきながくてのたたかい)※4で直政が率いた軍は、数々の勝利をあげます。武田軍を踏襲して甲冑や旗などを赤色で統一した部隊は、「井伊の赤備え」として注目されました。また巨大な角のような天衝脇立(てんつきわきだて)の兜をかぶり、全身赤のいでたちで先頭を切る直政は、「井伊の赤鬼」と諸大名から恐れられるようになります。

抜擢に次ぐ抜擢! 家康はやはり人を見る目があったんですね。

※4豊臣秀吉と、徳川家康・織田信雄の連合軍が9カ月にわたり尾張国内で戦った持久戦をいう。

直政のイケメンエピソードとは?

勇敢な武将の直政は直情型で、部下に厳しかったという説がありますが、イケメンだけあって、周囲の女性からは熱い視線を送られていました。また、女性に対しては、中々紳士的だったようで、数々のエピソードがあります。実は男色の気がなかった家康も、直政と出会って目覚めてしまったとか!? 

詳しくは、こちらの記事をどうぞ!

菅田将暉も演じた!井伊直政は、徳川家康も惚れるほどの美貌のイケメンだった?

豊臣秀吉からも手腕を評価

家康のもとで武将としての手腕を発揮していた直政は、豊臣秀吉からも、一目置かれる存在でした。天正14(1586)年に家康が秀吉に臣従すると、秀吉から従五位下(じゅごいげ)に叙位されたほか、豊臣姓も賜る栄誉にあずかります。2年後の聚楽第行幸(じゅらくだいぎょうこう)※5では、徳川重臣の中で、直政だけが身分が一つ上の位に任官されます。

※5豊臣秀吉、秀次の招請によって行われた天皇の行幸のこと。

関ヶ原の戦いでの活躍

直政は戦で勇敢に戦うだけでなく、折衝能力にも優れていたようです。秀吉の死後に起こった豊臣家の内部争いでは、多くの武将を家康の味方に引き入れるなど、交渉を行いました。なかでも黒田官兵衛・長政親子と親好を結んだ功績は、大きなものでした。黒田親子は有力な武将たちとつながりが深かったので、これにより後の関ヶ原の戦い※6は、家康にとって有利に働く要因となります。

慶長5(1600)年、家康と石田三成※7の対決となった関ヶ原の戦いが勃発すると、直政は本多忠勝※8と共に、軍監となって指揮をとり、東軍の中心的存在として活躍しました。そしてこの戦いで、全国の名だたる武将を東軍に取り込むことに成功します。ところが不運なことに、大けがをおってしまいます。戦いの前から体調は万全ではなかったとも言われ、向かうところ敵無しの「井伊の赤鬼」にも、暗い影が忍び寄ってきていました。

イケメンで軍事にも優れ、天は二物を与えた! 幼い頃から苦労してきたし、幸せになってほしいけど・・・。

※6家康率いる東軍と、石田三成率いる西軍によって、美濃国関ヶ原で行われた「天下分け目」の戦い。
※7豊臣家五奉行の一人。幼い頃より秀吉に仕え、側近として信任を受けた。
※8直政と並んで徳川四天王の一人と称された戦国武将。

激務の戦後処理の後に死す

直政は関ヶ原の戦いでの働きにより、石田三成の旧領である近江国佐和山(現在の滋賀県彦根市)18万石を拝領。京都に近い位置だったのは、西国の抑えや朝廷の守護の目的もあったようで、それだけ家康からの信頼が厚かったことがうかがえます。

直政は、定住の場所がなくさすらう身だった幼少の頃から考えると、頂点に上りつめたと感じた瞬間だったのではないでしょうか。築城に取りかかりますが、直政には関ヶ原の戦いの後始末が残っていました。休む暇も無く、交渉や次なる軍事行動の司令塔として働く日々。西軍の総大将・毛利輝元※9との交渉では、所領を認められた輝元から感謝されたようです。また真田昌幸・信繁親子の助命にも尽力しました。

このようにして直政は休まずに働き続けましたが、慶長7(1602)年になると体調が悪化し、ついに亡くなってしまいます。傷を養生する余裕がなかったことが原因のようですが、あきらかに激務による過労も影響していたのでしょう。完成を夢見ていた彦根城を見る事なく、42年の激動の人生を終えました。有能であったが故の悲劇とも感じられますね。

有終の美を飾ったとはいえ、切なすぎる~(泣)

※9信長と争ったが、本能寺の変後、秀吉と和した。豊臣政権の五大老の一人。

関連人物

徳川家康
・徳川四天王 酒井忠次
・徳川四天王 榊原康政
・徳川四天王 井伊直政
・徳川四天王 本多忠勝

参考文献:『井伊直政家康筆頭家臣への軌跡』野田浩子著 戎光祥出版、『日本大百科全集』小学館

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戦国人物伝 井伊直政 (コミック版日本の歴史)

書いた人

幼少期より祖父と共に大河ドラマを見て育つ。毎回、感情移入しすぎるので、最終回と共にロスがひどいのが悩み。『どうする家康』を盛り上げるべく、くろりんと共に、トッキー&くろりんを結成。

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織田信長、豊臣秀吉、徳川家康をはじめ、有名な戦国武将が、愛知県をはじめ東海エリアから多数輩出されていることから、歴史の入り口は東海にあり!と勝手に燃えているにわか歴女。思い込みと圧が強いことから、高木編集長より「圧女くろりん」と命名される。しかし本人は、まじめに「目指せ!歴女への道」をスローガンに「歴女くろりん」と改名できるよう日々、精進中。