Culture
2019.11.04

昭和天皇の病名はあえて伏せられていた。昭和の終わり、真実をめぐる書く側と書かれる側の闘い。

この記事を書いた人

予定稿(よていこう)――。新聞や雑誌などの定期刊行物の世界で使われる業界用語の一つです。文字通り、近く起きるであろう出来事を思い浮かべてあらかじめ用意しておく原稿のことです。

本来、新聞の記事になる事件や事故は起きてみないと分かりません。しかし、起きてから取材していては印刷時間に間に合わない。そこで考え出されたのが、数字や固有名詞などを空白にした粗筋だけを書いておき、事実関係を確認してから空白を埋めて印刷することでした。その知恵が予定稿です。

最もよく使われるのは選挙報道です。注目候補には当選した時の喜び原稿と落選した時の残念原稿が用意されます。ノーベル賞をはじめとするさまざまな賞の結果や注目度の高いスポーツの勝敗もいわばお得意様。

これらとは別に、これまで最も多くの予定稿が用意されたのは昭和天皇の動静をめぐる報道でした。平成から令和に変わったのを機に、かつて私も携わったことのある天皇崩御報道の舞台裏を克明に記録した『昭和最後の日:テレビ報道は何を伝えたか』(新潮社、日本テレビ報道局天皇取材班)を紹介します。

昭和の終焉をめぐるノンフィクション

「テレビ報道は何を伝えたか」というサブタイトルが示すように、本書は報道最前線でしのぎを削る人たちの動きを経(たて)糸に、宮内庁を取り巻く人たちの様子を緯(よこ)糸にして織り上げられた、昭和の終焉をめぐるノンフィクションです。

「昭和最後の日」は無論、昭和天皇が崩御された日を指します。動かしようのない歴史的事実です。その日のために、新聞、テレビ、ラジオ、雑誌などのマスコミは連日、熾烈な取材合戦を繰り広げました。取材の焦点は昭和天皇の病状と、真の病名は何かということです。

病名の公表を妨げた「がん告知」

とりわけ1988(昭和63)年9月19日に天皇吐血をスクープした日本テレビ取材班には格別の思いがあったはずです。

しかし、病名が生前に明らかにされることはただの一度もありませんでした。同社だけでなく、報道各社が早い段階で十分な情報をつかんでいたにもかかわらずです。

「それを阻んでいたのは何か」「公人と私人はどこで線引きされるのか」。ページを繰るうち、読者は報道側の人間として、ある種の葛藤を覚えるはずです。

病名の公表を妨げた理由の一つは当時の「がん告知」の捉え方でしょう。ある日の定例情報交換で取材班は「天皇は毎日、新聞やテレビを見るわけだし、科学者でもある。つまりがんに近いニュアンスの記事が出ただけで自分の病気に勘づいても不思議ではない。そうなると報道の姿勢も問われてくる」というやり取りをします。

前後して「日本では『がん告知』はまだコンセンサスがとれていない問題でしょ」というくだりもあります。

報道を差し控えさせた社会的影響の大きさ

文字通り昭和最後の日となった1989(昭和64)年1月7日午前9時20分からの会見で、当時の高木顕侍医長は「最終診断は十二指腸乳頭周囲腫瘍」であることを初めて公式に告げました。忖度する必要性がなくなったからです。

その日、黒い服に身を包み、現場の模様を伝える日本テレビの記者は「独自の取材によって、天皇陛下のご病気の本体がこれまで発表されてきた慢性膵炎ではなく、がんであることを早くから確認していました。しかし、陛下ご自身や身内の方々への告知の問題、それと社会的影響の大きさに鑑(かんが)みて報道を差し控えてきました」と視聴者への理解を求めました。

7割を超えるがんの告知率

記者の現場報告には、報道機関として真実を伝える厳粛な使命を負う一方で、存命中にそれを伝えられなかったジレンマのようなものが感じられました。

実際「その日」まで、いったい何のために取材するのか、誰のためのニュースなのかを取材班が考えない日はなかったといいます。

そんな彼らに対する高木侍医長は「いくら一生懸命取材してくれたって、患者である陛下にとって何もいいことはないんだよ」と諭すように胸の内を明かします。報道関係者にとってズシリとこたえる重い一言です。

取材班が「まだとれていない問題」として意見を交わした「コンセンサス」は今から30年以上前の常識です。これに対し、近年は病名告知の機運が急速に高まりつつあります。

例えば、2014年2月に開かれた第42回がん対策推進協議会の議事録は「日本におけるがん患者への病名告知率は1990年代から2000年代にかけて大きく向上。がん専門施設が先導的にがん告知を進めている」と報告しています。

議事録は、がんセンターなどの告知率は75.1%という数字を紹介。専門施設ではほぼ100%に達しているという見方もあります。

がん患者への告知のあり方を考えさせる

がん治療の第一線に立つある医師は「自分の病気を知らなければ精一杯がんと闘えない」との信念から、個人的に100%告知を実施してきたといいます。

医師と患者が手を携えて共闘するためには、それぞれの持ち得る情報を最大限に共有するという考え方があるからです。一つの見識でしょう。

がん患者への病名告知率が1990年代から2000年代にかけて大きく向上したという指摘は「前夜」の1989年が昭和64年であったことと無関係ではないでしょう。

取材班の頭から病名告知に対する苦悩は片時も離れませんでした。現在も続く、がん患者に対する病名告知のあり方を考えさせてくれる好著です。

参考:『昭和最後の日:テレビ報道は何を伝えたか』(新潮社、日本テレビ報道局天皇取材班)

書いた人

新聞記者、雑誌編集者を経て小さな編プロを営む。医療、製造業、経営分野を長く担当。『難しいことを易しく、易しいことを深く、深いことを愉快に、愉快なことを真面目に』(©井上ひさし)書くことを心がける。東京五輪64、大阪万博70のリアルな体験者。人生で大抵のことはしてきた。愛知県生まれ。日々是自然体。