お蕎麦屋さんで他人の蕎麦のすする音が、前衛的なパンク音楽のライブミュージックに聞こえてきてしまうようになったのは、いつからだろうか。
15年~20年くらい前のこと…
海外生活から一旦帰国後、今まで1度も自分の人生で経験したことが無かった「立ち食い蕎麦」のお店に行ってみたくなった。
既にだいの大人だったが、ちょっと勇気を出して生まれて初めてのこの経験をするために1人で訪れたのだった。
案の定、店内にはサラリーマン男性や中高年男性ばかり。
すると、店内のカウンターの片隅に高級スーツで身を固めたキャリアウーマン風の綺麗な女性を発見!
こういう人もこういう場所で食事することがあるんだぁ…と小さな驚きと安堵のようなものを感じながら、その隣のスペースが空いていたのでそこに並んで立つ私。
その女性が注文したお蕎麦がきたので、自分も注文しなきゃ!とちょっと焦りながら何にしようか考えていたら、目の前の店主に「お客さん、注文は券売機で~」ってダミ声で言われかかった瞬間、
それをかき消すように突然、
「ズルズルズルズルずるーーーーっ!!!」
え‶ーーー!予想外のその爆音でぶっ飛びな驚きの私。
こんな綺麗な女性が豪快にズルズルと蕎麦をすすって食べるんだぁぁぁ!
そのイザギヨサが、超かっこよかったけど…。
なんで…?
振り返ってみれば、海外生活をしていた時でも日本料理店などを訪れる現地の人から、日本人の多くが蕎麦をすするのはなぜかと質問されたこともあったけど、「私は、蕎麦をすすりません!」という答えくらいしか返せていなかった。
だから、この素朴な疑問に向かい合ってみたのだった。
そもそも蕎麦をすする人は、なぜすする?
この答のかなり多数派を占めているのが「ソムリエだって、飲み物をすするじゃないか!」説。
ワインやコーヒーのソムリエなども良く行う、味の一部として香りを分析する行為。
まず、液体の香りを鼻でかぎ、これだけでは分析しきれない香りは、空気を吸い込むようにして「ズズッ!」とすすって口の中に入れて、その後、鼻から空気を抜く際に感じる香りを分析する。
この行為は、一般的なレストランなどで人前で行われることはあまり無いが、蕎麦をすするのもこの行為と同様とする説を主張する人が圧倒的に多い。
なぜなら、蕎麦はそのまま香りを嗅いでもその素晴らしい特有の香りは楽しみづらいが、蕎麦をすすることではじめて鼻から抜ける蕎麦本来の香りも味わえるからだと彼らは言う。
だから、すすらなければその香りも半減するので、蕎麦をすする行為は、粋なグルメ人のたしなみ!と豪語する人も多い。
その解釈が広がり、蕎麦だけではなく、うどんやラーメンなどもこの暗黙のルールに入れられるようになり、ズルズルすすって食べる日本人が多いとのこと。
これにより、日本で蕎麦やうどんなどの麺類をすすることは、マナー違反ではないという暗黙のルール、もしくは、習慣のようなものが既に日本では確立しているように思う。
いつ頃から、どのように蕎麦をすする習慣が始まった?
蕎麦をすする行為は、江戸時代の江戸(現在の東京)で江戸っ子から始まったのではないかと言われている。
100万人都市といわれたほど当時から大都市だった江戸は、商売においても色々な人々が地方からやって来て、常に凌ぎを競い合う活気のあるサバイバル的な環境にあった。
こうした人々は、現代を生き抜く忙しいビジネスパーソンのように食事も仕事の合間にサクッと効率的に食べられるものを好んでいたので、まさに江戸の蕎麦はうってつけ。今でいうファーストフードのような存在だったので、店に入って注文すればサッと出てきて、サクッと食べてはパッと出て行ったらしい。
しかも、蕎麦の前に既にあった特に関西で定番となっていたうどんと比較しても栄養価が高いので、短い隙間時間に効率的な食事となるのでとても重宝された。このため、江戸の蕎麦は大ブレークして、これまで多かったうどん屋が蕎麦屋に変わっていき、江戸名物にまでなったのだった。
江戸時代後期の1800年代ころには、江戸だけでも3700軒以上もの多くの蕎麦屋があったと言われている。ちょっと歩けば、すぐに蕎麦屋があるほど、江戸の町中に蕎麦屋があふれていた。
しかし、この時代、音を立てて食事をすることは無作法なことと既に社会的にも認識されていたのだそう。だから、この時代、最初からお蕎麦屋でズルズルと音を立てながら蕎麦がすすられて食べられていたわけではなかったようだ。
江戸の蕎麦は男の食べ物?!
当時、江戸の蕎麦屋で蕎麦を食べていたお客は、男性客が多かったようだ。
それは、前述にもあるように職人や商人などが仕事の合間にサクッと食べるために立ち寄ることが多かったこということだけではなく、こんな理由も。
一説によると、当時、かけ蕎麦は、「ぶっかけ」という汁ものをかけた食べ物の仲間としてみなされていた風潮もあったようだ。ぶっかけ自体、女性には野蛮で無作法な食べ物とされていたので、この時代、江戸の蕎麦は男の食べ物みたいなとらえ方を社会的にされていたと言いう話もある。
江戸時代の環境で蕎麦はすすらずにはいられなかった説
また、江戸時代の蕎麦屋で蕎麦がすすられて食べられていた背景には、色々な当時の環境も影響していたのでは?という説もある。
まず、当時の蕎麦屋のテーブルは高さが低すぎたので、麺を箸でつかんで口元まで運ぼうとすると、かなり麺が長くびろ~んと伸びた状態になる。かけ蕎麦の場合は、この環境だと早く麺が冷めて食べやすくなるメリットもあるが、忙しい最中に立ち寄って音を立てずに蕎麦を食べるとなれば、かえって時間がかかってサクッと食べられる蕎麦のメリットも半減。
もともと短時間で急いで慌ただしく食べている人が多かったので、冷ますためにフウフウと息をかけて吐き出した呼吸を一気に吸い込みながら食べた結果、すすって食べたのでは?という説もある。
さらに、当時は、蕎麦屋同士がどれだけ長い蕎麦を作れるか競い合っていたという話もあるので、想像するだけでも滑稽なシーンが頭に浮かんできてしまう。
でも、そこは江戸っ子。粋にすすって一気に食べたのだとか。
それでは、盛り蕎麦のように冷たいつけ汁につけていただく蕎麦をすすって食べる行為はどう見ればいいの?という疑問。
当時、武士は「盛り蕎麦」を好み、町人は「かけ蕎麦」を好み、農民は蕎麦ではなく、「うどん」を好んで食べていたという話もあるので、ここにも当時の社会的な背景を垣間見ることができる。
当時の盛り蕎麦の食べ方として、長い蕎麦の先をほんの少しつけ汁に付けていただく食べ方が、江戸の男のダンディズムを感じるような通で粋な食べ方だったようだ。こうした食べ方をすると、蕎麦だけが先に口に入り、蕎麦の味を十分に楽しんでから、最後に蕎麦の先につけ汁が付いた麺が口の中に入る。蕎麦本来のうまみを十二分にしっかり堪能できる粋でグルメな食べ方。そして、見た目も美しい食べ方らしかったので、江戸の男性の憧れの食べ方としてもひそかなブームになったとのこと。
もちろん、この食べ方をするには、薬味などいろいろなもの入れずにシンプルにいただくのが流儀。
ところが、武士よりも社会的に身分も低く、特に低層身分で経済的に豊かでは無かった人ほど、大根おろしや薬味など具沢山にして、しかも、つけ汁までも麺にぶっかけて全部混ぜて食べていたのだそう。その方が簡単にお腹いっぱいになるので。だからこそ、なおさら、彼らとは異なり経済的にもゆとりのある武士などが行っていた盛り蕎麦のその粋で余裕のある優雅な食べ方に、身分は変わらずとも、せめて経済的に成功する日を夢見ながら憧れたのかもしれない。
当時、盛り蕎麦を好んで食べたと言われる武士たちが麺をすすって食べていたかは定かではない。
それでも、麺をすすって食べ始めたのは、江戸っ子文化の発起人である町人であると言われている。
なぜ、江戸っ子は麺をすすって食べるようになったのか?
そもそも、江戸っ子とは?
江戸っ子といえば、生粋の江戸生まれの人のことを想像しがち。
でも、実は、江戸っ子と言っても大きく分けると本当の「元祖江戸っ子」と「自称江戸っ子」の2種類があったようだ。
元祖江戸っ子と言っても、両親共に江戸生まれの「生粋の江戸っ子」、両親のどちらかが江戸生まれの「斑(まだら)」、本人は江戸生まれだけど両親は地方出身の「田舎っ子」の3種類もあったらしいのだが、この3種類はまとめて「元祖江戸っ子」として扱われていたとのこと。
そして、何よりも元祖江戸っ子の大きな特徴は、お金持ちの上層町人、つまり今でいう富裕層の人々であったこと。
この当時、町人の中でも上層町人や下層町人というように大きな経済格差もあったようだ。
おそらく、元祖江戸っ子は、江戸で蕎麦を食べるならぶっかけ蕎麦を食べるというよりは、武士が好んで食べていたと言われている盛り蕎麦を武士のように上品に、つまり粋にいただくことが多かったのではないだろうか。
なぜなら、元祖江戸っ子が蕎麦を食べているその粋で優雅な姿や所作に憧れる低層町人の男性も多かったと言われているからだ。
また、元祖江戸っ子の粋な所作や優雅な文化活動、余暇の遊びっぷりなどから生まれた江戸の男のダンディズムも低層町人の男性の憧れの的にもなっていたとのこと。
なぜ、江戸っ子という気質や意識が生まれたのか?
江戸時代の江戸には大勢の地方からの移住者がいて、彼らは江戸とは異なる地方ならではの自分たちの文化や価値観の元で江戸の流儀に染まらずに競争率の激しい江戸で成功するために必至に働きながら暮らしていた。さらに、そこに参勤交代で地方からやって来る地方色の強い武士たちなども加わって、瞬く間に江戸は江戸出身者以上に地方出身者の数が増え続けていったのだった。
そして、江戸時代中ごろ以降は、京都や大阪などの上方の生産物に頼らなくても江戸だけで色々な生産物なども生み出せるほどまでに発展し、江戸文化も成熟していった。
江戸っ子気質の誕生には、こうした時代背景から、増加し続ける地方出身者に対しての江戸文化や江戸生まれであるプライドや美学の誇示に加えて、上方文化に負けない江戸の誇りや対抗心、武士の身分や社会制度への抵抗なども垣間見れる。
そして、自分は江戸っ子!という強い意識を誇示したこの気質を支えていたのは、自分のアイデンティティや尊厳を江戸生まれの男の美学を通して優雅に貫いた反骨精神だったようにも思えるのだ。
自称江戸っ子とは?
そして、元祖江戸っ子の後に登場した自称江戸っ子は、富裕層である元祖江戸っ子とは異なり、数代前に地方から江戸に移住した裏長屋に住むような下層町人、つまり、庶民。
自称江戸っ子は、江戸時代の中期以降、寛政期の後に登場し、町人文化が開花した文化文政期に勢力を拡大していったと言われている。
町人文化も一気に栄えた文化文政期になると、かつては、元祖江戸っ子と呼ばれる上層町人などが親しんでいた浮世絵、川柳、グルメなどの文化的なレクリエーションや活動に庶民でも踏み入ることができるようになり、庶民文化も開花。これまで憧れだった「江戸っ子」を自負する気持ちが強くなり、「自称江戸っ子」の下層町人も急増。
江戸っ子という自負の誇示は、サブカル的な形成からメインストリーム文化的な形成になっていった。
そして、元祖江戸っ子よりも自称江戸っ子の数が上回っていくと、元祖江戸っ子の生み出した富裕層の江戸の男のダンディズム的な美学が庶民的な価値観のものへとすり変わっていき、下町的な要素のものへと塗り替えられていった。
さらに、江戸の蕎麦屋で音を立てて麺をすするのが当たり前になっていったのは江戸時代の後期頃と言われているので、江戸っ子と言っても自称江戸っ子によって、この蕎麦をすする行為は広まっていったのではないだろうか。
江戸っ子と反骨精神
前述したように、元祖江戸っ子自体、彼らのアイデンティティや尊厳を守るための江戸生まれの富裕層の上層町人による反骨精神のあらわれが、彼らにしかできないある種、特権的で優雅な形で表現されたようなものに思えるのだが、自称江戸っ子になって表現方法は変わっても、その基盤となっているその反骨精神は別の形で受け継がれているように思う。
自称江戸っ子は、元祖江戸っ子とは異なり、社会体制や生まれた境遇の違いなどでより深い不満を持ち続けながらも、いつも何かの瀬戸際のギリギリのところで必死に生きのびてきた先にようやく自称江戸っ子と自らを呼べるような時代を迎えて、そのように生きられるようになった人々。彼らも彼らなりに元祖江戸っ子とは異なる誇りがあり、それを空威張りなどと称されることも少なくなかったようだが、消えない社会的身分や経済格差などで元祖江戸っ子からも当然、差別的な扱いや軽蔑も受けてきたようだ。しかし、自称江戸っ子が元祖江戸っ子の数を上回ることで、形成は逆転していったのではないか。
自称江戸っ子が、蕎麦を大きな音を立ててズルズルすすって食べるようになったのは、無作法とされていたこの食べ方をあえてすることを通して、かつて、彼らが本当は憧れていた盛り蕎麦を美しく粋に食べる武士や上層町人の元祖江戸っ子に対して、これまでさげすまされていた自分たちの屈辱感も含めて、庶民的なユーモアでパロディー化して表した反骨精神の表れの1つとして行った行為でもあったのかもしれない。
それは、かつての多くのストリート・カルチャー的なものが社会のひずみや逆境を乗り超える過程で誕生してきた歴史にも似ている。
100万人都市と言われたほど当時からも大都市だった江戸時代の江戸で、同様の境遇の人々の全てがこうした生き方を選んだわけではないが、先祖代々、社会のひずみで生きてきた低層の町民が、彼らの代ではじけることができた1つの出来事が自称江戸っ子としての新しい生き方でもあったのかもしれない。
苦労した先祖の分も瞬間、瞬間を後腐れなくパッと花火のように思いっきりはじけるように生きているから、お酒が回っていると一歩間違えば喧嘩早い側面も顔を覗かせるが、細かいことにはこだわらない。なんの保証もない明日だから、稼いだお金もパッと使ってしまうイザギヨサ。苦労して生きてきているから、困っている人を放っておけない面倒見の良い兄貴肌な一面も。そして、長い蕎麦を爆音を立てて一気にすすることも、自称江戸っ子を通して、社会的身分を超えた自分達の人間の尊厳などを表現した行為や生き方の1つとしても見ることができる。
不条理な世界や社会のひずみに落ち込んでも這い上がって上へ向かって生き続けることは、誰の人生においても大きなことをチャレンジすればするほど経験する。
そこで直面するさまざまな世界での不条理の中で自分自身のアイデンティティや尊厳との葛藤から逃げないで正面から生きている人々のその心の叫びの現れのひとつも自称江戸っ子の蕎麦をすする行為であったのだろう。
それは、まさにパンク文化の先駆け的なものにも見えるし、粋にキメて蕎麦をすするズルズルという爆音自体も抑圧された心を解き放つ前衛的なパンク音楽にだって匹敵するように思う。色々な人が蕎麦をすする音が蕎麦屋でこだますれば、彼らにとっての応援歌的な歌を皆で大合唱するような行為にも見える。
蕎麦をすする行為は、おそらく、自称江戸っ子による反骨精神からもストリート・カルチャー的なノリでこうして本格的に広がっていったのではないか。そして、やがては、明治時代の文明開化で、音を立てて食べることはマナー違反であるのがさらに色濃くなる西洋文化が入ってくる。盲目的にこの文化を盛んに称賛する政府や社会に対しても、自称江戸っ子の精神をひきつぐ人々によって、江戸の蕎麦は江戸の流儀で!と誇りをもって、ズルズル麺をすする食べ方が貫ぬかれていったのではないだろうか。
そして、地方出身者も大勢集まる明治維新後の東京で、江戸蕎麦を食べる人々が爆音ですすって食べている光景を初めて見た地方出身者は非常に驚いていたという話もあった。彼らの内、この地の流儀に従い食べ始めた人の中には、地元へ帰ってもこの蕎麦の食べ方を続けた人もいただろう。さらには、都会の蕎麦の食べ方などとして真似る人々が出てきたことでも、地方にも広まっていったのではないか。
だから、すすることでさらに蕎麦の香りを楽しめるというグルメ的な理由は、現代の蕎麦をすする理由。江戸時代の人々もそのことは分かっていただろうけど、音を立てて食べることは無作法と社会的にも認識されている中で、それだけの理由のために人前でわざわざ音を立てて食べるような世の中ではなかったように思う。
ヌーハラ?ならば、むしろこれは、パンク文化の先駆けでもある前衛アート!
私は、かつては、他人が自分の側で蕎麦や麺類をすする音を不快に思ってきた1人だった。
一部のSNSなどのメディアでは、「ヌーハラ(ヌードルハラスメント)」などという和製英語で他人が食べる麺類の音を不快に思うことを一時期、騒ぎ立てていたが、私はこのように考えている。
もし、ヌーハラというのであれば、この行為が発祥したとされる時代の歴史的背景や人々の境遇なども考慮して捉えると、もはや、これは自称江戸っ子による前衛芸術だ。
つまり、これは、パンク文化の先駆けでもある前衛的なパフォーミング・アートではないか。
そして、現在でも残っている音を立てて蕎麦をすする行為は、自称江戸っ子の副産物的な文化としてもとらえることができる。
日本で麺類がすすられるようになったその歴史や経緯は、直接的なものがほとんど残っていないので、はっきりこれだという1つの答えでは断言しきれない。しかし、時代を超えた今、異なる時代の人々が同じ行為を無意識に繰り返していたとしても、その行為が発祥した時代背景や当時の人々などについて色々と調べて知っていくと、少なくとも私の目や耳などからは異なった情景が入ってくる。
江戸時代とは時代が異なる現代。その背景や形は変わっても特に都会などでは、現代人も毎日がサバイバルな状況にあり、この世が不条理だらけであることは時代を超えても同じまま。
近くのサラリーマンが音を立てて蕎麦をすすっているのも、忙しい合間に立ち寄って束の間の休息をとりながら、蕎麦を爆音を立てながら一気にすすることで会社や社会の不条理に反骨的な態度を示して心を解き放し、わずかでも自分の尊厳を取り戻している瞬間なのかもしれない。
その隣にいたセールスマン風の男性だって、これから向かう営業先に行く前に、蕎麦を思いっきり豪快にすすって、サラリーマンとして働く戦士になっている自分自身を鼓舞しながら士気を高めているのかもしれない。本当は、そんな営業先に行きたくはないように見えるけど。
あの当時、私の隣で驚きの姿に豹変し、爆音で麺をすすったキャリアウーマン風の綺麗な女性だって、綺麗な彼女自身の外観や女性としての日本社会での一般的な古い固定概念からの解放を求めて、無意識に反骨的な態度を示しながら、蕎麦を爆音ですすっていたのかもしれない。
自称江戸っ子から始まったのではないかとされる蕎麦をすする行為。
当時は、日本の文化でも何でもなかった。
現代は、江戸時代のように蕎麦の長さも長くないし、テーブルの高さだってちょうど良くなっているが、蕎麦をすする行為はマナー違反にはならない暗黙の文化のようになっている。
でも、文化は生きものみたいなものだから、この文化がいつまで続くかはわからない。
蕎麦をすする音やそのすすり方から、その人の心や魂の叫びが聞こえてくるようだ。
蕎麦をすすっている人々の外観は決してパンク・ロッカーではないけれど、その内に秘めた心の叫びは、蕎麦のすする音となって、蕎麦屋で美しくこだましていた。
あの時以降、なぜ日本人の多くが蕎麦をすするのかと海外の人に聞かれた時は、「あの蕎麦をすする音は、パンク精神を持つ江戸っ子から生まれた、抑圧された人々の心を解き放つ前衛的なパンク・サウンドの応援歌だからだ!」って私は答えることにしている。