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曇りなき心の月を先だてて浮世の闇を照してぞ行く(伊達政宗)

読み物
Culture
2020.03.10

砂糖屋の女将らを襲った悲劇「飴だき五人心中」ほか、岡山の奇談を綴った岡長平の正体とは?

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「飴だき五人心中」

岡山県立図書館で手に取った一冊の本に、この言葉を見つけた時に思った。「この本、欲しい……」。
インターネットが当たり前の今では、古書を探すのは容易だ。全国の古書店が登録しているサイト「日本の古本屋」にアクセスして、書名を入力する。在庫は一件。倉敷駅前の長山書店。地域では知られた郷土資料の在庫が豊富な書店だ。
在庫があるとわかれば、すぐにでも手に入れたい。「明日にしよう」と先延ばしにしたら、その間に売れてしまうこともなきにしもあらず。
時計は午後5時になろうとしている。図書館の表玄関を出たところは県庁通り。そこから5分ほど歩いたところにあるのが、路面電車の県庁前停留所。10分に一本ほどやってくる電車に乗れば岡山駅までは10分程だ。駅に駆け込んだら山陽本線の下りホームへ。倉敷駅へ向かう電車は15分に一本はやってくるから6時前にはたどり着けるだろう。そそくさと荷物をまとめて図書館を飛び出す。

日も暮れた頃に店に飛び込んで、カウンターでスマホ画面を見せる。「この本、ありますよね」。突然やってきた客に店主は困惑気味に話す。

「あります。でもちょうどイベントをやってて、そっちに持っていってるんですよ」

「取り置きをしておきましょうか」と聞かれて断る理由はない。店主は代金は受け取りの時でというのだが、構わず1万円札を押しつける。そうしないと、間違って売れてしまうかも知れないから。

それから数日後、ようやく手にした目当ての本は油紙に包まれ二重の箱入りになった上下2巻の豪華なものだった。
本のタイトルは『ぼっこう横丁』。著者は、岡長平という。

ぼくの実家にあった祭りの写真。実家周辺は住人が減ったので最近はだんじりが出ない

鎮魂歌がいつの間にか祭りの定番ソングに

ぼくの故郷・岡山では秋になるとあちこちで笛や太鼓の音が聞こえてくる。その時に唄われるのが『備前太鼓歌』。地域によって歌詞は少しずつ変わるが、必ず入っているのが江戸時代から続く繁華街・西大寺町の一節。

備前岡山 西大寺町 大火事に
今屋が火元で五十五軒 コチャ
今屋が火元で五十五軒 コチャエ コチャエ

だんじりが町内を回り、岡山神社へと向かう道中でずっと太鼓と笛、鉦の音に乗せてこんな節が唄われるのだ。

おそらくは江戸時代頃から現代まで、火事の火元としてずっと唄われている今屋。55軒も延焼させてしまったことで、ずっと恨まれてでもいるのか。秋祭りでは聞くけれども、どういうものかわからない今屋がふと気になって、帰郷のついでに調べることにしたのである。

歌に唄われるくらいなので今屋の火事は郷土史資料の中でも記録されている。『岡山市史』によれば火事があったのは天保5(1836)年3月26日のこと。西大寺町通筋南側、今屋喜兵衛居宅物置より出火し翌日まで火は燃え続け、西大寺町では全焼35軒、半焼3軒。
隣接する紙屋町では全焼7軒、半焼15軒。歌詞では55軒だが実際には60軒の被害である。

江戸時代の都市がどこでもそうだったように、城下町・岡山でも火事はたびたび起こっていた。そんな中で、今屋火事だけが唄にもなったのは、どうしてか。そのことが『ぼっこう横丁』には、こう記されていた。

今屋火事がーー歌になるほど有名になったのは、あのときに、「飴だき五人心中」があったからだ。

ここでは、火事の時に悲しい出来事があったという。火元になった今屋は砂糖を営んでいた。その今屋には蔵があったのだが、火事の時に店の女将と子供2人、それに乳母と女中は、ここならば燃えないから安全だろうと逃げ込んだ。ところが、火の勢いはおさまらず、周囲が燃えるので蔵は蒸し焼きの状態になってしまった。蔵の窓からは「助けてくれぇ」と声がするが、周囲は商売物の砂糖がドロドロに溶けて、それが燃え上がっていて近づくこともできない。町の人たちも、手のうちようがなく次第に声が聞こえなくなるのを見ているしかなかった。

そして火事が収まってから5日目にようやく、蔵を開けた時には互いに抱き合った5つの死体が発見されたのだ。
この悲惨な話は、当時の岡山の人たちの涙を誘った。「飴だき五人心中」の名で瓦版が出ると飛ぶように売れた。そんな悲しい出来事を供養の意味を込めて祭りの時の唄の種にして伝えたのである。

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大正10(1921)年に建設された「禁酒会館」は空襲を焼け残り今も使われている

惜しげもなく知識を披露する名士の来歴も今は謎

この話ひとつで、地上波の歴史ものの番組ならワンコーナーをつくれそうなのだが『ぼっこう横丁』は、ネタを出し惜しまない。
岡山の町であった出来事、かつてあった店の話が、山のようにあたかも見てきたかのように書いてある。

三和銀行は、もとは山口銀行だった。あそこで開店したのは、師団のできた時だから、(明治)42(1909)年か、3(1910)年である。

カッフェー・ブラジルができたのは、大正七(1918)年だと思う。コーヒー一杯が五銭で、砂糖は入れ放題……。それも、そのコーヒー一杯で、六高マンなんか、ストーブのそばで、持って来た穂にゃ、新聞雑誌を読み耽りながら、なん時間でもがんばってたもんだ。

……などなど。

郷土史ネタの宝庫のような、岡長平という人物は何者か。岡山県立図書館の郷土資料の棚には、岡長平の著書がズラリと並んでいる。
新聞の縮刷版を見てみると、戦前から戦後にかけて幾度も(当時から見て)昔の出来事を書いているのを見かける。
でも、いったいどういう人物だったのかは、いまだに追い切れない。

限られた史料からは明治23(1890)年に生まれ昭和45(1970)年に没したことがわかる。この時代に慶應義塾を卒業し岡山に戻ってきて実業家になったというから、かなりのインテリであったようだ。一時は岡山市会議員や岡山県文化財専門委員も務め、その合間に郷土史を記録し続けた。
それも単に輝かしい部分だけを集めようとしたわけではない。下世話な話や奇妙な出来事も克明に記録している。単に史料に書いてあったものだけではなく、人に聞いた説なんかも織り込んでいる。前述の今屋の火事も今屋が儲けすぎて嫉まれたいたから、火元ということにされたのではないかと、祖父に聞いた話なんかを混ぜている。明治23(1890)年に生まれた人物が「祖父に聞いた」というのだから、祖父は直にその話を聞いた体験を話したのだろう。そうした積み重ねが、すべてが見てきたかのような独特の「岡長平節」を生み出している。

駅弁で売られるものは「祭りずし」と呼ばれているが一般には「ばらずし」と呼ばれる

戦後のすしの味に「あれは敗戦ずし」だ

『ぼっこう横丁』との出会いをきっかけに、岡長平という人物が気になり、著書はほとんど集めた。そこには、もはや現代では二度と体験することができず忸怩たる思いを抱くものもある。とりわけ、岡山人のアイデンティティである「岡山ずし」に対するこだわりは、人一倍強いのか、多くの著書で触れている。

「岡山ずし」は、一般に「ばらずし」と呼ばれる海の幸と山の幸を豊富に使ったもの。春や秋の祭りの時期になると、あちこちの家ですしをつくり親戚や隣近所に配り歩く風習は、今でも残っている。そして、出身地による微妙な具材や味付けの違いを楽しむのだ。

いまだに古くから続く伝統が残っている……と、思いきや知識豊富な岡長平の手に掛かれば、もはや昔の味は失われてしまったとなる。昭和34(1959)年に出版された『おかやま庶民史 目で聞く話』では「あれは敗戦ずしだ」と戦後、変わってしまった「岡山ずし」を嘆く。なにを嘆いているのかといえば使われる魚や野菜がよその産地から運ばれてくるようになったことが許せないのだ。

ならば「明日もう一度ここに来て下さい、本当の岡山ずしを見せてあげますよ」というものをつくるにはどうすればいいのか。この岡長平という人物、根が親切なのか「ダメだ」と貶すだけでなく、ちゃんと使うべき材料を書いてある。

まずは、米である。『おかやま庶民史 目で聞く話』には、こうある。

岡山ずしの御飯は、絶対に<雄町米>でなければならない

この一文で21世紀の今では断念せざるを得ない。雄町米とは岡山で現在でも僅かに栽培されている米の一種。通常の米に比べて、米の中心の心白と呼ばれる白い不透明な部分が大きいのが特徴だ。現在では「幻の酒米」とされ、そのほとんどは酒蔵に買い取られてしまうので、手に入れることはまずかなわない。

そして、具である。この具の違いが岡山の中での地域性なのだが、必ず入っているのは、アナゴ。その最良のものは児島湾産である。
これは今でも岡山では出回るものだが、岡長平によれば容易に受け入れられるものではない。岡山市南部の児島湾は江戸時代から干拓が進み、明治以降はどんどん土地を拡げていった。このせいで魚の餌になる藻の多い遠浅の海がなくなったせいで、味が変わってしまったというのだ。そして、牛蒡は足守とある。現在では「間倉ごぼう」という名前で栽培されている岡山市の足守地域で採れる品種。これもまた、作付けの限られた高級品である。

さらに酢は「川崎町の玉屋の万年酢」がよいとある。これは、ここまで書いたものの中で、もっとも容易に手に入る。岡山のマンネン酢合資会社の酢のことだ。

でも、これらの材料を揃えたとして本物の「岡山ずし」になるかはわからない。もともと庶民の工夫によって生まれた「岡山ずし」には本家も家元もなく、スタンダードなものはないからだ。

岡山市のシンボル岡山城。最近はライトアップしたりマスキングテープが巻かたりすることも

著書は残るも人物像は歴史の果てに消えそう

どこの海原雄山かと思うほどに、こだわりを描く岡長平も、そのことは先刻承知。『おかやま庶民史 目で聞く話』では、電気釜を使う風潮まで非難しているのに、こうまとめるのだ。

いくらなげいても、今を昔にかえすわけにはゆかない。<新岡山ずし>の出現こそ、望ましい。

うんちくを語りながらも嫌みな雰囲気のかけらもない岡長平。その興味の範囲は広く遊郭を扱った『色街ものがたり』という本も書いている。さらに同好の士らと岡山県下の津々浦々を巡って男根や女陰のご神体を集めた『岡山県性信仰集成』なんて本にも参加している。

郷土史家の鏡といえるような、この人物を知る人は、もう岡山でもほとんどいないはずだ。著書のすべてが並ぶ岡山県立図書館でも、その本を手に取る人はまずいない。きっと、生きている岡長平に会ったことがある人も、もうほとんどは鬼籍に入ってしまったか。

こんな業績を残した人物の人となりを知るのは、いまが最後の機会なのか、とぼくは思っている。

参考文献:岡長平『ぼっこう横丁』1965年 夕刊新聞社・岡長平『おかやま庶民史 目で聞く話』1959年 日本文教出版

書いた人

編集プロダクションで修業を積み十余年。ルポルタージュやノンフィクションを書いたり、うんちく系記事もちょこちょこ。気になる話題があったらとりあえず現地に行く。昔は馬賊になりたいなんて夢があったけど、ルポライターにはなれたのでまだまだ倒れるまで夢を追いかけたいと思う、今日この頃。