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愚かな連中は、迷いにとらわれ、悪の種をまけば悪の報いがあり、善の種をまけば善の報いがあるという原理を信用しない。(日本霊異記)
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Culture
2020.03.11

喪服って黒じゃなかったの?日本の葬儀の歴史に関する、驚きの事実を紹介!

この記事を書いた人

みなさんは、葬儀と聞いてどのような光景を思い浮かべますか?多くの方は、黒い喪服を着た参列者が集まっている光景を想像するのではないでしょうか。しかし、実は明治時代の初期までは、喪服の色は白だったのです。ここでは、江戸時代以降を中心に日本の葬儀の歴史を紹介します。

昔の喪服の色は白。黒くなったのは明治に入ってから

明治までの葬儀は、現在の葬儀とは違う点がいろいろありました。中でもわかりやすい違いが「喪服の色は白だった」というものです。これはかつての日本、というより東洋において、「死」を表す色が白だったからだと考えられています。

また、故人に着せる「死装束」にも、白い着物(白装束)が使用されていました。この風習は現在まで続いているため、ご家族や親族の葬儀で見たことのある方も多いでしょう。仏教の教えでは、死者は極楽浄土への「死出の旅」に出るとされています。そのため、清らかな心で旅に出られるよう、修行僧や巡礼者の白い服を着せたのです。武士が切腹する時の死装束も白い着物でした。

では、なぜ現代では喪服の色が黒くなっているのでしょうか? これは、明治時代に入って西洋文明の影響を受けたためだと考えられています。
ただし「喪服の色は白」という期間が長かったのは、あくまでも庶民や武士階級における話とされています。平安時代の貴族階級では、黒い喪服を含めさまざまな色の喪服を着る習慣が広まっていたようです。さらに、江戸時代の一部の地域では、鼠色などの喪服が使用されていました。このように喪服の色は、時代・立場・地域などによってさまざまな違いがあったのです。

お通夜は夜通し行い、故人は葬列をなして運んだ

かつての日本は、お通夜や葬儀の形式も現代とは大きく違っていました。昔のお通夜・葬儀の特徴や、現在の形式になった理由などについて見ていきましょう。

一晩中見守っていたお通夜

現在のお通夜といえば、夕方から開始して2時間~3時間程度で終えるのが一般的です。しかし、この形式は「半通夜」といって、本来は略式として扱われているものでした。正式なお通夜である「本通夜」は、遺族や親しい人たちが集まり、寝ずの番をして夜通しで遺体を守ったのです。

本通夜の間は、ろうそくの火を絶やさないようにしていました。これは、死者の魂が迷わないようにするため、もしくは邪悪な霊が死者に取り憑かないようにするためとされています。また、遺体を守る人に出されていた食事が、いわゆる「通夜振る舞い」です。現在では、お通夜のあとの会食という意味合いが強くなっていますが、本来はまさしく「腹ごしらえ」であったことがわかります。

自ら棺を運んでいた葬儀

現代では、故人を病院もしくは自宅で納棺し、車で葬儀会場へと運ぶのが一般的です。しかし、車などなかった時代は、遺族や参列者が列をなして棺を運び、菩提寺や墓地へ向かいました。この様子を「葬列」もしくは「野辺送り」といいます。棺を運ぶ際は、故人の魂が誤って家に戻ってこないよう、帰りは違う道を選ぶなど工夫していました。

菩提寺に到着すると僧侶が読経を行い、参列者も故人の冥福を祈ります。このような光景は現在と同じです。その後は遺体を埋葬しますが、当時は、将軍や大名も土葬を行い、それにともなって藩によっては土葬を強いられることも多くあったため、庶民は土葬を選択していたのです。火葬の定着は、明治時代まで待つことになります。

やがて、昭和の時代に入ると霊柩車が登場し、遺体の運搬が簡単になりました。都市の発展によって、葬列が迷惑に感じられるようになったこともあり、人力で棺を運ぶ習慣はだんだんとなくなっていきます。現在ではごく一部の地域でしか行われていませんが、高齢者の方は野辺送りを行った経験があるかもしれません。

お寺と庶民との関係が確立されたのは江戸時代

最後に、葬儀そのもののあり方の変化を見ていきましょう。江戸時代は、葬儀の歴史を語る上で重要なターニングポイントになっています。なぜなら、「菩提寺にお願いして葬儀を行う」という風習が、完全に定着したから時代だからです。

 

江戸幕府は、キリスト教や仏教の一部宗派を信仰することを禁止していました。そのため民衆には、特定のお寺の檀家になることを義務付け、禁制宗派の信徒ではないことを証明させたのです。これを寺請制度(てらうけせいど)といい、後年は国民統制の手段としての意味合いが強くなりました。

檀家はお布施を支払って菩提寺を支え、葬儀や年忌法要などを任せ、お墓もお寺の管理する敷地に作ります。明治時代に入ると寺請制度は廃止されましたが、庶民とお寺との関係は簡単に消えません。そのため現在でも、特定のお寺の檀家になっている家が少なくないのです。

さらに戦後は、日本が飛躍的な経済成長を遂げる中で、急速に台頭してきた存在があります。それが葬儀会社です。葬儀会場の手配や段取りは、葬儀会社に任されることが増え、葬儀は立派なビジネスとして通用するようになりました。現在の葬儀の形は、このころに完成されたといっていいでしょう。

まとめ

江戸時代以降に絞っても、日本の葬儀や埋葬のあり方は大きく変化してきました。近年では価値観の変化から、お通夜を行わず1日だけの葬儀で終わらせようとする人や、宗教性のない葬儀を選択する人、お寺の檀家をやめて納骨堂などに切り替える人も増えています。みなさんも、自分の葬儀やお墓をどうするか、改めて考えてみてはいかがでしょうか。

書いた人

讃岐うどんと瀬戸内国際芸術祭が有名な香川出身の物書き。うどんを自分で打つこともできるが、自宅でやると家中粉まみれになるのでなかなか作らせてもらえない。幼少期から茶道や琴など嗜んでいるいまどき珍しい和風っ子。しかし、甘露は和菓子よりもケーキなどのスイーツが大好きな和洋折衷な人間。