目鼻立ちくっきり、クールに目下ろす視線がかっこいい……!この人物は、幕末の旗本で備中・井原(現在の岡山県井原市)池田家の10代目当主、池田長発(いけだながおき)。当時としては珍しい短髪で、やんちゃな雰囲気を漂わせているにもかかわらず、由緒正しきお殿様であるというギャップがたまりません。そんな長発は外見だけではなく中身も男前! 眉目秀麗な彼の生涯をご紹介します。
出世しまくりの長発
長発ははじめから大きな領地を持っていたわけではありませんでした。元々の領地は1,200石と小さく、最初は「小普請」(こぶしん:江戸幕府の役職のひとつ。3,000石以下の旗本、御家人の無役の者で編成された)から身を起こします。しかし、文久2(1862)年には違法を監察する「目付」、文久3(1863)年には火付けや盗賊、賭博を取り締まる「火付盗賊改方」、「京都町奉行」と歴任し、同年9月に対外交渉を行う「外国奉行」に抜擢。官位を与えられ筑後守と称したのはこの時期です。
ぐんぐんと出世した長発ですが、どうやら幼少期の頃から頭が良く、少年時代は昌平黌(しょうへいこう)学ぶほど、抜群に優秀な成績だったそうです。ちなみに、この昌平黌は現在の東京大学の源流のひとつでもあります。
交渉人として、第二次遣欧使節団を率いる
そんな長発が外国奉行に就任した直後の10月、事件は起きました。
攘夷派とみられる浪士3名が横浜近郊で、フランス軍士官を殺害した井土ヶ谷(いどがや)事件です。日本はまさに幕末の動乱期。それまで鎖国によって幕藩体制を維持し続けていましたが、ペリーの来航をはじめ外国からの開国を迫られていた日本国内では尊王攘夷運動が発生し、下関戦争や薩英戦争が勃発。諸外国との軋轢が高まっていました。
井土ヶ谷事件の犯人は見つかりませんでしたが、それがきっかけとなり、文久3(1863)年、幕府は見識に優れていた長発を交渉人としてヨーロッパ諸国へ派遣。長発は当時27歳にして、34名からなる遣欧使節団(第2回遣欧使節または横浜鎖港談判使節団)を正使として率いることとなるのです。
遣欧使節団の目的は、事件の解決と謝罪、そして攘夷派を懐柔すべく開港場であった横浜港を閉鎖することでした。
スフィンクスの前で記念撮影!?
遣欧使節団は、文久3(1863)年12月にフランス軍の軍艦ル・モンジュ号で日本を出ると、上海やインドなどを経由し、西へ向かいます。やがてエジプト・スエズにたどり着くと、そこからは陸路でカイロへ向かい、途中ギザのスフィンクスを見学し記念撮影をしています。
パリに着くと一行は皇帝ナポレオン3世に謁見し、事件についてフランス政府に謝罪。195,000フランの扶助金を遺族に支払います。
それにしてもスフィンクス、皇帝ナポレオンと、長発らは当時の庶民としては考えられないような貴重な体験をしていたんですね。ちなみに、一行はパリのグランドホテルに滞在すると、江戸時代後期に来日したドイツ人医師のフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトにも会っているのだとか。
開国の重要性を説いた!
さて、交渉の結果、井土ヶ谷事件の解決・謝罪は成功しましたが、今回の大きな目的のひとつである横浜鎖港に関しては却下されてしまいます。実はこの件については長発自身も交渉を途中で打ち切っていたそうです。諸外国を巡り交通や通信、軍事などの技術力、西欧の文明の強大さを目撃したことで開国の重要性を感じたのでしょう。(一行はホテルにあったエレベーターにとても驚いたのだとか)。
長発はフランス政府とパリ約定を結ぶと、物理学、生物学、工業、繊維、農業など多数の書物や資料をフランスから持ち帰り、幕府に開国の重要性を力説します。しかし、幕府からはこれを破棄され、長発は石高を半減、蟄居(ちっきょ)という罰をくらってしまいます。
幕府が約定破棄した数日後、イギリス、フランス、オランダ、アメリカの連合軍による長州港への攻撃、いわゆる四国連合艦隊下関砲撃事件が起こります。もし、長発の開国論が認められていたら……。
慶応3(1867)年、長発は一転して罪を許され「軍艦奉行並」となりますが、すでに健康を害していたため数カ月で職を辞して井原に戻り、以後政治には関わらなかったようです。井原に学問所を作り青少年を育てることを構想しましたが、明治12(1879)年に亡くなってしまいます。現在、岡山県井原市立井原小学校には、長発の生誕150年を記念して、銅像が建てられています。