刀や槍などを使って活躍した幕末の集団、新選組。刀の使い手が集まっていた新選組の中でも、最強とうたわれた剣士は誰だったのでしょう?
新選組は使い手だらけ
新選組は警察のような治安維持組織だったため、武術に長けている人たちだらけでした。剣術だけでなく、槍術・棒術・柔術などの達人もいましたが、やはり剣術使いが一番多かったようです。
近藤勇?
近藤勇(こんどういさみ)は、新選組結成以前、江戸で道場主をしていました。もともとは農家の生まれですが、腕や度胸を買われ、天然理心流武術の宗家・近藤周助(こんどうしゅうすけ)の養子として迎え入れられたのです。
宗家の4代目ですから、当然、腕前は相当なもの。ですが、新選組「最強」ではありませんでした。
沖田総司?
沖田総司(おきたそうじ)は、近藤の道場の門人で、若くして師範代を任せられるなど、腕前はお墨付き。
新選組でも一番組長を務めるなど、絶大な信頼を置かれていました。
でも、沖田も「1番」ではなかったよう。
土方歳三?
土方歳三(ひじかたとしぞう)も、近藤の道場の門人ですが、流儀を忠実に継いでいるというより「勝つこと」最優先でした。型にとらわれず、足元の砂を利用したり、直接首を絞めたり。
実戦で強かったのは間違いないようですが、土方も「最強」ではありませんでした。
斎藤一?
斎藤一も、実は近藤や土方・沖田と同じ天然理心流の使い手と言われます。一刀流や無外流が有名になっていますが、近藤の同流派として道場に出入りしていた記録が残っています。
斎藤は新選組1、2を争う剣豪でした。ですが、「最強」の称号は、別の人に与えられたようなのです。
山南敬助?
山南敬助(さんなんけいすけ)も、もともとは別流派の小野派一刀流や北辰一刀流(ほくしんいっとうりゅう)をおさめた剣士でしたが、近藤の道場門人となっています。
インテリで穏やかな印象が強い山南ですが、実は相当な使い手。会津藩主・松平容保(まつだいらかたもり)公の御前試合の際には、実力が互角な者同士が対戦相手に選ばれましたが、山南は沖田と組んでいます。
でも、山南も「最強剣士」ではありません。
新選組最強剣士はこの人!
並みいる強豪を抑えて「新選組最強剣士」の称号を勝ち取ったのは、この人。
永倉新八(ながくらしんぱち)です。近藤の道場に出入りしていた、別流派・神道無念流(しんとうむねんりゅう)の使い手で、独特の技を駆使し、2番組長として新選組を強力に支えました。
元新選組隊士で、のちに御陵衛士に転じた阿部十郎(あべじゅうろう)が、「一に永倉、二に沖田、三に斎藤」と評価しているのが決め手となっています。これは阿部の主観ではありますが、前述の松平容保公御前試合でも永倉と斎藤が組んでいるなど、隊全体でもその実力は認められていたようです。
考え方の違いで、途中から近藤らと袂を分かった永倉ですが、後年、新選組の名誉挽回に尽力しています。中でも永倉の口述回顧録『新選組顛末記(しんせんぐみてんまつき)』は新選組再評価のきっかけとなり、新選組研究の重要な資料ともなっています。
晩年は杉村義衛(すぎむらよしえ)と名乗り、刑務所や大学で剣術師範として腕を振るいました。老いてなお「竹刀の音を聞かないと飯が喉を通らない」と言っていたほどの剣術好きで、ごろつきに絡まれた際には鋭い眼光と一喝で退散させました(他の方法だったという説もあり)。
大正4(1915)年、77歳まで生きたご長寿さんは、新選組最強剣士にして新選組最大の語り部だったのです。
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