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Culture
2020.04.12

『ちはやふる』でも人気!女性の「袴」の歴史と明治・大正のトレンド、タカラジェンヌの袴の色も解説

この記事を書いた人

「女性の袴姿」でイメージするものは何ですか?

女子大学生の卒業式の定番スタイル? (みんなと同じはイヤなので、袴ではなく、スーツにしたな……。)
最近は、マンガ『ちはやふる』の影響もあって、小学生の卒業式に袴スタイルが人気だとか? (えっ、そうなの? )
皇后様が即位の礼で着た十二単(じゅうにひとえ)は、袴をはいていたよね?(十二単姿、ステキだった。着付けが大変そうだけど……。)
タカラジェンヌは、緑の袴?(緑の袴のタカラジェンヌ、素敵! )
神社の巫女さんは、朱色の袴だよね?(あれって、全国共通? )

女性の袴スタイルが定着したのは、明治から大正時代の女学生の制服として袴が採用されたことによると言われています。もとは宮中の装束であった袴は、明治から昭和初期に「女袴」へと形を変えて、当時の女学生を象徴する風俗として注目を集めました。
袴スタイルは、ジェンダーレスで活動的な装いでもあったことから、明治初期に開業した富岡製糸場の工女が袴を身につけるなど、「働く女性」の装いでもあったのです。

この記事では、古くて新しい女性の袴スタイルの歴史を探っていきます。

『新版引札見本帖.第1』より 国立国会図書館デジタルコレクション

マンガで、袴スタイルがリバイバル!

現在、袴スタイルは女子大生の礼装の一つとして卒業式の風物詩となっていますが、レトロでカワイイ装いとして、人気がじわじわと拡大している模様。
袴スタイルの復活・人気の拡大には、マンガとアニメの影響がありました。

大和和紀『はいからさんが通る』

大和和紀さんのマンガ『はいからさんが通る』は、昭和50(1975)年から昭和52(1977)年まで『週刊少女フレンド』(講談社)に連載され、その後、アニメや映画の原作となりました。
自転車に乗ったヒロイン・花村紅緒(はなむら べにお)が通学途中の転倒事故から始まるというストーリーは、明治36(1903)年から『読売新聞』に連載された小杉天外の小説『魔風恋風』を踏襲しています。

『はいからさんが通る』の人気により、大学の卒業式に、一気に女子大生の袴スタイルが増えたそうです。現在では、7割以上の女子大生が、卒業式で袴スタイルを選択しているようです。

末次由紀『ちはやふる』

大学の卒業式では定番となっている袴スタイルですが、最近では小学校の卒業式でも袴スタイルの女の子の姿が見られるようになってきました。

きっかけはアニメ『ちはやふる』。競技かるたを題材にした末次由紀さんのマンガ『ちはやふる』が原作のテレビアニメで、袴姿で勝負に挑む主人公を見た小学生が「カワイイ!」と飛びついたことから、「卒業式には袴」が増えてきているそうです。

マンガ『ちはやふる』は、平成20(2008)年から『BE・LOVE』(講談社)で連載中。実写映画化もされました。主人公は名人・クイーンを目指す少女・綾瀬千早であり、物語は千早がクイーンの座を賭けて争う場面から始まります。

小学生の袴スタイル人気の火付け役は写真館だという情報もありました。
数え年で13歳の時に健やかな成長などを願って行う「十三参り」と、小学校の卒業をかねて着物姿で写真を撮ろうとキャンペーンを行って、じわじわと人気が広がり始めたそう。ジュニア向けの雑誌で特集が組まれることもあり、小学生の袴スタイルの認知度も少しずつ上がっています。卒業生の袴姿を見て「自分も着てみたい!」と考える女の子が増えているのだとか。

女性の袴スタイルの歴史

袴は和服の一種で、下半身衣です。上下二部で成り立っている衣服の下衣で、股(また)があり、両足をそれぞれ通してつける衣を「袴」、股のないものを「裳(も)」と呼びます。

袴の歴史は古く、古墳時代には、男女とも埴輪に見られるような太いズボンのような袴を身につけていました。

宮中で受け継がれた女性の袴

平安時代になると、宮中などで高い身分の女性達が袴をはくようになりました。
女房装束に用いられた「緋袴(ひばかま)」は、「緋の袴(ひのはかま)」「紅袴(くれないのはかま)」とも呼びます。広義では赤系統の色をした袴のことを指し、狭義では平安時代中期以降、主に宮中において女性が下衣として着用した袴を指します。平安時代以降、女房装束の一部として、緋袴はなくてはならないものでした。

「緋袴着躰」(『装束着用之図. [5]』より) 国立国会図書館デジタルコレクション

現在でも、巫女装束として赤い袴が用いられています。

女房装束の代表格・十二単

平安時代の女房装束の代表格・十二単は、成人女性の正装で、宮中の儀式など、公家の女性の晴れの装いとして用いられました。現在も、十二単は御即位の大礼の儀、皇族妃の御成婚の儀に用いられています。

十二単は、「唐衣(からぎぬ)」「表着(うはぎ)」「打衣(うちぎぬ)」「五衣(いつつぎぬ)」「単衣(ひとえ)」「長袴(ながばかま)」「裳(も)」から構成されており、髪型は「大垂髪(おすべらかし)」が基本です。

(『装束着用之図. [5]』より) 国立国会図書館デジタルコレクション

袴の着用が禁じられた江戸時代

鎌倉時代以後、宮中の女官達は袿袴(けいこ)の姿を正装とするようになりましたが、小袖の発達に伴い、武家や一般の女性達は、打掛小袖姿を正装とし、袴を用いることはなくなりました。

身分や性別によって厳しく服装が定められた江戸時代になると、宮中の女官以外の女性達は、袴を身につけることが禁じられました。
女性の袴スタイルが復活するのは明治になってからです。

女学生の制服となった袴スタイル

明治維新後、文明開化の波が押し寄せると、女子に対する教育が徐々に広まっていきます。紆余曲折を経ながら、大正末期には30万人近くが高等女学校に通うようになりました。
その間、目新しい存在であった女学生は、まだまだ封建主義の色濃かった世間の好奇の目にさらされながらも、社会の変動とともにそのスタイルを変化させていくのです!

楊洲周延「安津末風俗 三」 明治34年 国立国会図書館デジタルコレクション

男袴をはく女学生

明治時代は、女子教育の黎明期でもあります。
江戸時代以前の封建社会のもとでは、「女性に学問は必要なく、家を守っていればよい」と考えられていたため、女子に対する教育といえば寺子屋などでの初歩的なものに限られていました。
明治4(1872)年には東京女学校、明治8(1875)年には東京女子師範学校など、女学校が相次いで創立されました。

そして、女学生達にどのような服装をさせるかが議論となりました。
当時の学校は、椅子に座って授業を受ける欧米式。従来の着物に帯というスタイルでは、帯や裾が乱れやすいという問題があったのです。そのため、政府はこの時代としては例外的に女学生に男袴の着用を認めました。

高畠藍泉(転々堂)著『怪化百物語 下』 井上定保 明治8(1875)年 国会図書館デジタルコレクション
女学生ではありませんが、島田髷に縞の男袴を履き、小脇に洋書を抱えた「女学校の助教」が描かれています。

しかし、女学生の男袴の着用に対する世間の反発は根強く、新聞紙上で投書による批判が相次ぎます。
明治16(1883)年、政府が着用を控える旨の通達を出し、女学生の男袴は姿を消してしまいました。

鹿鳴館と洋装化の波

明治16(1883)年7月7日、国賓や外国の外交官を接待するための社交場として、鹿鳴館が落成。条約改正のための欧化主義は、教育にも影響を与えました。
華族女学校(学習院女子部の前身)や、東京女子師範学校など一部の官立女学校では洋装が義務付けられ、舞踊が授業科目に取り入れられます。これにより、着流しの着物姿に戻っていた女学生の服装の洋装化が進みました。

この頃盛んに催された舞踏会では、既婚女性は表に出ないという慣習から、若い女性の踊り手不足が生じていました。それを解消するため、洋装で着飾った女学生が舞踏会に借り出されることもあったのです。

井上安治「鹿鳴館」

和装への回帰

その後、教育勅語が発布されるなどの国粋主義の流れの中、値段も高かった洋装は下火となり、再び和装へと戻ります。

女学校の制服となって、袴スタイルが定着

しかし、着物に帯の服装では、帯や裾が乱れやすいという機能面での問題があり、学業に支障をきたすことから、明治30(1897)年頃から教師や女学生の間で海老茶色の女袴の着用が広がっていきました。これは華族女学校が採用していた女袴を元に、そのままでは畏れ多いということから海老茶色に変えたものでした。

水野年方「三井好 都のにしき 尽ぬ名残」

明治18(1885)年創立の華族女学校では、

本校ノ生徒タル者ハ袴を着シ、靴ヲ穿クベシ

と「服装ノ心得」に明記されていました。『女学雑誌』雑報欄が伝えるところでは、制服として指定された袴は「黒無綾(くろむじ)」であったそうです。
この制服の制定者は、学監の下田歌子とされています。制定の理由として、

従来の裳・袴なき衣服にては礼容(れいよう)を欠き、皇后陛下臨御の際など殊に恐れ多き次第なれば、従来の緋袴と指貫(さしぬき)とを折衷してつくりたるもの

を着用させたと伝えられています。つまり、着流しの着物は庶民風と退け、少しでも御所風にと考案されたのが女袴だったのです!

ちなみに、下田歌子は7年に及ぶ宮中生活の経験者で、袿に緋袴を着け、髪はおすべらかしにして教壇に立ったとも言われています。

明治・大正のトレンド、海老茶袴

明治30(1897)年頃から、海老茶色(=紫がかった赤茶色)の股に仕切りのない行灯袴(あんどんばかま)が、急速に広まっていきます。海老茶色の袴に革靴、庇(ひさし)髪に大きなリボンをつけた女学生スタイルの完成です。
行灯袴は、ロングスカート風の袴。時代にマッチして優美、しかも実用性に優れた女袴は、裾を気にすることなく颯爽と歩くことができ、新しい時代の女学生の若々しい姿を象徴するものとなりました。

女学生達は、自転車に乗ったりテニスをしたりと活動的になり、江戸期のしっとりとした女性像とは様変わりしました。髪形も、不衛生であるとされた江戸以来の島田髷等の結髪に代わり、西洋風の束髪が大勢を占めていきます。
活動的で生き生きとした袴姿の女学生は、新しい時代を生きる女性の象徴になり、紫式部になぞらえて「海老茶式部」とやや皮肉をこめて呼ばれることもありました。

明治30年代半ばには、「女学生=袴姿」のイメージが確立されました。
女学生は、雑誌のグラビアに描かれたり、新聞小説のヒロインになったりと、社会的にも注目を集める存在になったのです!

『新版引札見本帖.第1』より 国立国会図書館デジタルコレクション
自転車に乗った袴姿の女学生の姿は、当時のチラシ広告にも使われました。

女学生の袴スタイルの始まりは、華族女学校か跡見女学校か?

スタンダードであった海老茶に対して、独自の色彩を主張したのが跡見女学校です。
跡見花蹊(あとみ かけい)は公家屋敷(姉小路邸)内で私塾を開いていましたが、明治8(1875)年、跡見女学校を開校しました。華族女学校よりも先に設立され、華族の子女が多く通っていた跡見女学校でも、早くから「お塾袴」と呼ばれる紫の女袴を着用していました。

跡見女学校の紫色の袴は東京市民の目を引き、「海老茶式部」に対して「紫衛門」とも呼ばれました。これは平安の歌人である赤染衛門になぞらえたものです。

水野年方「三井好 都のにしき 写生」

一般的には、女学生の袴は、「下田歌子が華族女学校のために考案した」とされることが多いようですが、「紫衛門の跡見女学校こそが女学生袴を初めて採用した」とする説もあります。
創立者の跡見花蹊によれば、皇后陛下より、

婦人にはやはり緋の袴仕立てにして、色は紫を用いたらよかろう(『読売新聞』 明治35(1902)年11月9日)

という直々の助言があったとのことです。

袴にチャンピオンベルト?

女学生は、袴に学校のしるし「徽章(きしょう)」を付けることもありました。徽章は、ベルト型、バックル型、クリップ型など形も様々。袴の上につける金属バックルのベルトは、「チャンピオンベルト」とも呼ばれました。

高畠華宵「初日はのぼる」(『少女画報』1925年1月号より)

「徽章」が用いられるようになったことには、いくつかの理由があります。
高等女学校が次々と設立され、女子中等教育への進学熱が高まっていった1900年代、奔放な振る舞いをする女学生が「堕落女学生」として当時のメディアにセンセーショナルに報道されることが増え、新聞各紙を賑わせるようになります。これに対して、文部省は、明治35(1902)年9月16日、全国高等女学校長に

学生の風紀を振粛することに力め、品行不正の者には除名放校の制裁を断行するに躊躇せず、一般学生を戒飭(かいしょく)すべし

との内訓を示しました。さらに、文部省は、私立女学校に対しても取締りを強化し、学課や規則の文部省令違反、寄宿舎の不備、管理上不行届などがあった場合には、廃校及び改善命令を下す処分を行いました。
また、女学生を取り締まるにあたって、看護師、電話交換手、印刷局工女などの職業を持つ女性も仕事着として袴を着用することが多かったので、外見が似ていることが問題とされました。

このようなことから、女学生とそうではない人との区別を容易にする目印を求める提案に対応して、女学校側では「徽章」を制定。バンド型・バッチ型の徽章をつけたり、袴の裾にラインを入れたり(袴章)することで、所属を表すようにしました

当時の女性からすれば、この徽章バンドを身に着けることは一種の憧れでもあったのです。卒業後も、徽章をバンドから取り外して、記念として簪や帯留めにしていた女性もいたそうです。

女学校の制服が、セーラー服、ジャンパースカートへ

大正モダンの時代風潮の中、大正12(1923)年の関東大震災を境に、本格的に洋装が増え始めました。女学校でも洋装の制服が次々と採用されていきます。中でも、既に明治末期に運動着として取り入れられていたセーラー服を、正式な通学用の制服として採用する学校が、昭和の初めには大半となりました。
洋装化と平行して、髪形も廂髪(ひさしがみ)からお下げ髪、ボブスタイルなどへと変わっていきました。

働く女性の制服としての袴スタイル

明治維新後、日本政府は国力強化のための外貨獲得を目指し、製糸産業の育成に取り組みます。そのプロジェクトの目玉が、明治5(1872)年に設立された官営の富岡製糸場でした。

富岡製糸場は創設時、国内から工女を募集して器械製糸の技術を習得させ、彼女達が指導者となって新技術を各地に伝播させる「模範伝習工場」の性格を与えられていました。
富岡製糸場の工女募集では、当時の人々が外国人の飲む赤ワインを「生き血」と恐れたことから、難航しましたが、初代場長・尾高惇忠(おだか あつただ)の娘・勇(ゆう)らが率先して入場するなどし、明治5(1872)年10月4日、操業を開始しました。

明治6年(1873)4月の時点の工女総数は556名。工女の出身は華族・士族・平民と様々でしたが、士族の子女が多かったと言われています。そして、工女達は、男子の袴を着用して、一生懸命に働いていたのです。

一曜斎国輝「上州富岡製糸場之図」 国立国会図書館デジタルコレクション

タカラジェンヌの緑の袴

女性の袴スタイルといえば、タカラジェンヌ(=宝塚歌劇団の生徒達)の緑の袴を思い浮かべる方もいるかもしれません。
タカラジェンヌの正装と言えば、黒紋付に緑の袴。では、その袴の色が緑色なのか、理由をご存知でしょうか?

宝塚歌劇団が発足した頃は、生徒達が身につける袴の色は決まっておらず、ばらばらでした。
大正10(1921)年、当時の生徒だった瀧川末子と高砂松子が大阪・心斎橋筋で買ってきた緑色の袴が宝塚歌劇の創始者・小林一三(こばやし いちぞう)の目にとまったことから、タカラジェンヌの袴は緑一色に統一されることになったのです。

緑の袴はスカート型の行灯袴。一般の女性用の袴と同じ形をしていますが、大きな違いは着丈。タカラジェンヌは、袴と白足袋の間に少し足首をのぞかせ、帯の結び目に袴の腰板を載せるようにして腰をぐっと締めあげて着ます。
ちなみに、タカラジェンヌは袴の紐を蝶々結びにした後、片側の紐を結び目に潜らせて垂らします。通称「乙女結び」で、宝塚音楽学校生は垂らしたほうの紐に校章を付けます。

ちなみに、緑の袴を着用する時は、娘役であっても着物の襟は抜きません。タカラジェンヌの緑の袴姿はきりりと凛々しく、「清く正しく美しく」を体現しているのです!

袴スタイルの人気は、まだまだ続く?

明治・大正の女学生の制服として普及した女子の袴スタイル。当時はモダンでハイカラなスタイルでした。
明治から大正にかけて大流行し、女学生の象徴だった和洋折衷の袴スタイルは、洋装の普及とともにすたれてしまいましたが、その後、マンガやアニメのヒロインが袴を見につけていたことで、袴スタイルが再注目されるようになりました。

レトロでカワイイと人気の袴スタイル、これからも要注目ですよ!

主な参考文献

書いた人

秋田県大仙市出身。大学の実習をきっかけに、公共図書館に興味を持ち、図書館司書になる。元号が変わるのを機に、30年勤めた図書館を退職してフリーに。「日本のことを聞かれたら、『ニッポニカ』(=小学館の百科事典『日本大百科全書』)を調べるように。」という先輩職員の教えは、退職後も励行中。