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愚かな連中は、迷いにとらわれ、悪の種をまけば悪の報いがあり、善の種をまけば善の報いがあるという原理を信用しない。(日本霊異記)
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読み物
Culture
2020.05.05

地方出身の下級武士はどんな生活をしていた?江戸のサラリーマン単身赴任生活実録ルポ

この記事を書いた人

江戸時代の単身赴任の生活をいうと、どんな様子を想像するだろうか。
男所帯のわびしさや食事の苦労、そんなイメージを持つ人ももしかしたらまだ多いかもしれない。

実際は、半年間で勤務した日数がたったの47日、一日の勤務時間は午前中約2時間。質素倹約をモットーに狭い長屋での共同生活ながら、自炊にチャレンジしたり仕事の合間には江戸見物に出かけては買い喰いに精を出したりと、なかなか楽しそうである。

これは、江戸時代に実在した酒井伴四郎という武士の話である。

酒井伴四郎は紀州和歌山藩の勤番侍だった。勤番侍とは、江戸時代に江戸や大阪にあがって勤務していた各藩の家来たちの事を指す。もちろん妻子を連れてくるわけにはいかないから、現代でいうところの単身赴任というわけだ。

この酒井伴四郎という人物、なかなかにマメな人柄だったようで、あり余る時間を自炊や江戸の街歩きに費やしながら、日記だけでなく小遣い帳までつけていた。それらの行間からうかがい知れるのは、そこまで裕福ではない地方出身下級武士のつつましくもリアルな江戸ライフ、これがなかなか充実しつつ興味深いのである。

江戸時代の単身赴任生活、なにを食べてどんなふうに暮らしていたのか。現代とは何が違うのだろうか。
そんな彼の日常をちょっと覗いてみよう。

仕事は江戸時代のスタイリスト

武士といえば、馬に乗ったり刀で悪者を成敗したり、働くといっても殿様のために身を挺して戦うようなイメージが強いのではないだろうか。
しかし幕末のこの頃、内乱もほぼ収まり武士たちが刀を使うような場面は日常ではまずなかった。

酒井伴四郎のお役目も「衣紋方(えもんかた)」といい、武家や公家社会のしきたりに従い装束の指導や準備をしたり、殿様の小姓などに着付けや装束の稽古をつける係だった。現代でいえば着付け師とスタイリストを混ぜたような存在と考えるといいかもしれない。
彼が仕える和歌山藩は、将軍家に次ぐ徳川御三家の一つだったから、重要なお役目であったことは間違いない。ただ、大藩だけに江戸内にも20か所以上の屋敷があったというから、当然伴四郎のような役割の人間もそれなりにいたわけで、そんなに出世頭でもなさそうだ。まあまあ普通の中堅社員、というところだろう。

万延元(1860)年に江戸に出てきた酒井伴四郎は、現在の赤坂にあった中屋敷の敷地内にある長屋に、上司である宇治田平三ともう一人で住むことになった。就職などで共同生活を送ることは現代でも普通にあり得ることだが、大きく違うのはわざわざ江戸まで来て、半年間、183日の中で仕事したのは47日と、だいたい4日間で3日は休みというのんびり加減だ。勤務時間も午前中たったの約2時間ほどだったようで、現代人から見ればうらやましさしかないが、上下関係が厳しかった江戸の世では部屋でゴロゴロしてばかりではいられなかっただろうことは想像に難くない。

時代背景にも少し触れておこう。酒井伴四郎が江戸に出てきたその2カ月前、桜田門外の変が起こって井伊直弼が殺害されている。また、その数年前にはコレラが大流行しており、江戸だけでも死者が10万人でたとも言われている。その頃の日本は経済的にもけして安穏平安な世の中ではなかった。

「食の都」でもあったワンダーランド江戸

前述した通り、江戸に出てきた酒井伴四郎にはあり余る時間だけはあった。安定しない世の中とはいえ、当時の江戸では寺社参拝や名所見物などにかこつけたちょっとした物見遊山が盛んで、庶民も気楽に楽しむことができた。遠距離の旅、例えば伊勢参りなどは時間としても費用にしても一生に一度のことだったようだが、そこまでしなくても江戸市内にはたくさんの名所があり、伴四郎のような人間にとっては充分ワンダーランドだったらしい。

どんな場所が名所として人気を集めていたのか、一例をあげてみよう。

例えば、愛宕山(あたごやま)。愛宕神社が鎮座する都内有数の高所である。
現在でも都内最高峰の高さをめがけて伸びる急な階段は「出世の階段」として有名だが、ビルなど存在しないその頃の江戸では市街を広く見渡すことができる屈指の名所だった。伴四郎も江戸に出てきてすぐに訪れ、その景色に大感激したことが日記にある。展望に恵まれた場所が一番の観光スポットになるのは、今も昔も変わらない。

それ以外であれば、例えば江戸屈指の観光地浅草や、一大歓楽街として名を馳せた吉原、商業の中心地日本橋などがある。今でも知られた地域はこの頃定着したものが多い。神社仏閣へのお参りなども立派なイベントで、祭や市などには多くの人が押しかけ、迷子なども多かったという。

さらに、名所巡りには美食の楽しみも付き物だ。

芝の増上寺詣での際、伴四郎の日記に出てくる食べ物の名前は、甘酒、鮨、粟餅に稲荷穴子鮨、薄荷(はっか)入りの餅にげそ焼、かば焼き豆腐に雑煮(ぞうに)とむしろ食べ過ぎと言いたくなるようなラインナップだ。徳川将軍家の菩提寺という高尚な場所であっても、しっかりと観光スポットであったことがうかがい知れる。
別の日に浅草まで足を延ばしたなら、見世物小屋や観音様巡りの合間に、餅やら蕎麦を買い喰いし、穴子やたこの煮物で酒を一杯。ついでに吉原まで足を延ばして花魁道中を眺めつつすいかを食らう、といった具合、高級な料亭などにはとんと縁はなかったとはいえ、なかなかどうして充実している。

ちなみにその頃の江戸には、蕎麦屋だけでも4000軒近くあったという。他にも鮨、鰻、餅、団子など軽食の種類も豊富で、どこに行こうがそれなりの食べ物にありつけるという指折りの「食の都」だった。
今の日本のファーストフードの充実ぶりと美味しさを考えれば、安く美味しいものが手軽に食べられるという文化はその頃から変わっていないのかもしれない。

江戸の男所帯の食生活

世界でも有数の「食都」だった江戸だが、庶民の日常はつつましく、食事は主に自炊が多かったようだ。日記の中で、男所帯である伴四郎の長屋では飯は当番制で、飯は昼にまとめて炊いておき、おかずは各自が用意するスタイルだったと記されている。せっせと江戸の物見遊山を楽しんでいた伴四郎だが、実際に外食自体数えればせいぜい月に7、8回程度で、日常は自分で自炊をしていた。勤番は長期間江戸にいるわけではないので、調理道具などは共同で購入するなどしていたようだが、伴四郎は料理も好きだったようで、自ら新しい鍋を買ってきてその使い勝手に喜んだりしたことを書き残している。

では、江戸時代の男所帯は日常的にどんなものを食べていたのだろう。

日頃は豆腐、青菜あたりが多かったようだ。例えば焼豆腐に青菜のおひたし、別の日は根菜類の煮物。日記にも野菜を煮込んでおすそ分けしたエピソードなどが出てくる。
魚が食卓に上る日も割とある。食べ方は刺身や洗いが主で、残りは潮汁にするなど一匹買ったら余すことなく食べきっていて、つつましくも好ましい。手間のせいなのか、焼き魚より刺身や煮魚などの方が日常的であったようだ。種類としては、最近はあまり見かけなくなった鯔(ぼら)や目刺などが日常の中心で、初鰹などは季節の大ご馳走。逆に現代の老若男女が好むまぐろなどは、名前さえ上がっていない。

その他の重要な食材としては、味噌があげられるだろうか。汁物にしてよしそのまま飯に塗ってよし、他の食材をあわせて甞め味噌にしてよしの万能調味料は、江戸の食文化には欠かせないものだった。当時の味噌は全て粒味噌だったので、味噌用のすり鉢ですって使うのが普通であったが、伴四郎は細かく切った牛蒡や生姜、砂糖をすり混ぜあわせた桜味噌という甞め味噌の一種が好物だったようで、出入りの商人から頻繁に購入している。

また、伴四郎はかなりの酒好きだったようで、昼夜問わず、体調がすぐれない時でさえも「薬」と称して飲んだりしている。その頃は既に京阪神から運ばれた「下り酒」が流通しており、庶民にも飲酒文化が普及していた。
文化8(1811)年の調査によると、その頃江戸には1808軒の煮売屋があったという記録もある。煮売りというのは、飯と魚、野菜、豆などを煮たおかずを売る店のことで、そこで酒も飲ませていた。今でいう一杯飲み屋や居酒屋のようなものだろう。江戸時代は伴四郎のような単身赴任者だけでなく独身男性が多く、現代のようにコンビニエンスストアなどない時代には、手軽に食べて飲める店は重宝されていたのだろう。

「薬」といえば、さらに意外な記述がある。伴四郎が風邪をひいたときなど、これも薬と称して頻繁に豚肉を食べていることだ。

歴史上、その頃の江戸では肉食は表立っては禁止されていたことになっている。しかし、実際には江戸から一歩でも出ればゆるゆるだったようだ。
もともと古くから山間部や農村などでは「薬喰い」といって、猪や鹿、豚や熊など、現代でいうところの「ジビエ」を食することは行われていた。和歌山という海の近くで育った伴四郎が江戸でも普通に豚肉を食べていることからも、この頃の肉食は都会であってもそこまで特殊なものではなかったことが推察できる。

いつの世も、大変なことは宮仕え

万延2(1860)年、約1年半の江戸勤務を終えた酒井伴四郎は和歌山に戻る。
その後も引き続き和歌山藩に仕えていたが、約3年たった元治2(1865)年、藩主の江戸参勤に伴い二度目の江戸勤務の機会を得る。しかし、第二次長州戦争の勃発に伴い、上京後わずか3か月後には和歌山へ戻り、6月には長州藩との戦闘にも参加。なんとか無事に生き残り、和歌山に戻って再び衣紋方として勤務していたというところまでは記録があるそうだ。

残念ながら、明治維新後、廃藩置県を経た彼のその後は不明だそうだが、選んだ仕事や勤め先によって人生が変化していくところは現代のサラリーマンを彷彿とさせる。
無事に勤め上げて穏やかな余生を送ったことを願うばかりだ。

酒井伴四郎の日記は現在、江戸東京博物館と神戸市立博物館に所蔵されている。
江戸時代の無名の下級武士の生活ぶりは、今では漫画やテレビドラマにもなり多くの人に知られた存在にもなった。
今であればSNSなどで発信していたのかもしれないが、平凡な一人の男の生活は、現代の私たちが読んでも本質は変わらないことに驚く。転勤、自炊、ささやかな楽しみや人間関係など、時代が変わっても人とはそこまで変わらないものなのかもしれない。

しかし、伴四郎もまさか後年、自分の日記がそんな風に読み継がれることになるなんて思いもしなかっただろう。
インフラの整った現代なら、いっそYouTuberになって成功していたのかも、などと想像するとちょっと愉快ではないか。

<参照文献>
「幕末単身赴任 下級武士の食日記」 青木 直己著 ちくま文庫
「勤番グルメ ブシメシ!」土山しげる・青木 直己著 リイド社

 

書いた人

インターネット黎明期よりIT業界にてさまざまな業務に関わる。多くのWEBメディアやコンテンツ制作を経験したことからライターに。 現在はオウンドメディアにおけるSEO支援に関わる会社員でもある。過去にオランダに四年、香港に三年半生活した経験があり、好奇心が尽きることがないのが悩み。 プライベートでは普段から着物を愛用し、普段着物研究家を自称。日常で着物を着る人を増やしたい野望をせっせとSNSなどで発信中。美味しいお酒に目がない。https://www.daily-kimono.tokyo/