「ではみなさんは、そういうふうに川だと云(い)はれたり、乳の流れたあとだと云はれたりしてゐたこのぼんやりと白いものがほんたうは何かご承知ですか。」
宮沢賢治『銀河鉄道の夜』。
独特の世界観にファンが多く、さまざまな映像作品や演劇の題材にもなっている名作です。その背景には、質屋を営んでいた父親との葛藤や、最愛の妹の死、ベジタリアン自給自足生活、モーレツサラリーマンとしての挫折など、ストイックな作家の人生がありました。
そんな賢治が晩年の9年間にわたり、ほとんど執拗とも言える加筆修正を繰り返した『銀河鉄道の夜』は、いわば「現代人の心の手引書」。私たちが悩みや葛藤を乗り越えるヒントが詰まっています。
賢治のストイックな人生をたどりながら、銀河鉄道の謎を解く不思議な旅に出かけてみましょう。
『銀河鉄道の夜』あらすじ
子どものころ、『銀河鉄道の夜』を読んだことがあるけれど、どんな物語か忘れてしまったという方も多いかもしれません。まずは、導入部分のあらすじを簡単にご紹介します。
主人公ジョバンニと、カムパネルラは同級生。以前はジョバンニがカムパネルラの家へ遊びに行くこともあり、仲良くしていましたが、今の2人には少し距離があります。というのも、ジョバンニのお父さんは北の海へ遠洋漁業に出て、長い間留守にしているのです。ジョバンニはそのことでクラスメイトから、お父さんが密猟をしているのではないかとからかわれています。カムパネルラは悪口を言ったりはしませんが、ジョバンニは、カムパネルラが自分を「気の毒がって」いるように感じています。
ジョバンニには病気のお母さんがいて、彼は学校へ通うほかにお母さんの看病をしたり、朝晩印刷所の仕事もしています。星祭りの夜、ジョバンニは家に届かなかったお母さんの牛乳を取りに出かけます。途中、時計屋の店先で、彼は星座早見盤に見入り、「その中をどこまでも歩いてみたい」と思いました。
牧場の後ろにある暗い丘に登り、草の上に寝転んだジョバンニの耳に「銀河ステーション、銀河ステーション」というふしぎな声が聞こえます。そして気がつくとジョバンニは、「夜の軽便鉄道の、小さな黄いろの電燈のならんだ車室に、窓から外を見ながら座って」いたのでした。向かいには、カムパネルラの姿もありました。銀河系を横断する、2人の不思議な旅が始まります。
お金持ちの父との葛藤
『銀河鉄道の夜』の作者、宮沢賢治は1896(明治29)年、現在の岩手県花巻市に生まれました。質屋を営み、古着を売る裕福な家庭の長男として育ち、盛岡高等農林学校(現在の岩手大学農学部)に進学します。専門である地質学に打ち込むかたわら、仲間と文芸誌を作るなど、充実した学生生活を過ごしました。金銭的には不自由のない幸せな青春のようですが、賢治は内心、貧しい農民たちを相手に商売をする実家の生業に複雑な感情を抱いていたようです。
賢治の父政次郎は、浄土真宗への信仰を篤くし、地元で勉強会なども開いていました。そんな父に反抗するように、若き日の賢治は法華経にのめり込んでいきます。学生時代、共に同人誌を作り、理想の国を作ろうと熱い夢を語り合った親友とも、信仰上の意見の対立が一因となって決別することに。一説にはこの親友との別れが、『銀河鉄道の夜』のラストシーンでおとずれる、ジョバンニとカンパネルラの別れにつながっているとも言われます。
子どものころから病気がちだった賢治は、学校を卒業した後も、家業を継ぐことはありませんでした。国柱会という日蓮宗系の宗教団体に所属し、父を改宗させようとしたり、街で太鼓を鳴らして布教活動をして政次郎を驚かせたこともあります。実家の仕事に複雑な思いを抱く一方で、学費や生活費は負担してもらい、あえて父親とは違う宗派の信仰にのめり込む賢治の心の奥底には、貧しい農民たちへの罪悪感や、「父親に認められたい」という捻れた思いがあったのかもしれません。
「ブルカニロ博士」はなぜ消えたのか?
『銀河鉄道の夜』の初期段階の原稿には、父親を彷彿とさせる存在が登場します。現在、最終稿とされている物語には登場しない「ブルカニロ博士」です。銀河鉄道の旅の終わり、大切な友達であるカンパネルラとの別れを経験したジョバンニの前に、やさしい「セロのやうな」声の持ちぬし、ブルカニロ博士が現れ、こんな言葉を口にするのです。
「さあ、切符をしっかり持っておいで。お前はもう夢の鉄道の中でなしに本当の世界の火やはげしい波の中を大股にまっすぐに歩いて行かなければいけない。(中略)そしてこれから何でもいつでも私のとこへ相談においでなさい。」
初期原稿では物語の大切な場面で登場し、不思議な旅の意味を解説してジョバンニを導いてくれる、父性を象徴するような存在です。
しかし、最後の推敲で、賢治はブルカニロ博士が登場する場面をすべて削除しました。カンパネルラと別れたジョバンニは、暗い丘の上で、ひとり涙を流しながら目覚めます。友を失った悲しみとも、銀河鉄道の旅を通して誓った「ほんたうのさいはひ(本当の幸い)」を探すこれからの人生とも、ジョバンニはたったひとりで向き合っていかなければなりません。
9年間にわたり、解読が困難になるほど繰り返された修正は、作家として物語をより良いものにしたいという賢治のプロ意識のみならず、「父なるもの」を求めてもがき続けた賢治の心の軌跡を表しているように、私には思えてならないのです。
※ブルカニロ博士が登場する初期の原稿は、ちくま文庫の『宮沢賢治全集 7』で読むことができます。
最愛の妹・トシとの別れ
『銀河鉄道の夜』を語る上で欠かすことができないのが、賢治の2つ年下の妹、トシの早世です。4人いた弟や妹たちの中でも、賢治とトシはとりわけ仲が良かったようです。早くから賢治の信仰や文学的才能を理解していたトシは、生涯独身を貫いた賢治にとって、精神的な支えとなる存在でした。
結核を患い、女学校教師の職を辞して療養することになったトシを、賢治は献身的に看病し、書きためた童話を読み聞かせることもあったようです。闘病の末、24歳の若さでこの世を去った最愛の妹との別れを、賢治はのちに、『永訣の朝』という美しい詩に書き残しています。
けふのうちに
とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ
(あめゆじゆとてちてけんじや)
「あめゆじゅ」とは、岩手の言葉で雨や雪のこと。病床で冷たい雪を欲した妹のため、賢治は外に飛び出し、茶碗に雪を盛ってトシの枕元に置きました。
どうかこれが天上のアイスクリームになつて
おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに
わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ
妹の死を深く悲しみながらも、自分のすべての幸いをかけて、トシと「みんな」の幸せを願う。信仰に基づく賢治のこの死生観は、彼が残した多くの童話や詩、書簡の中に読み取ることができます。
『銀河鉄道の夜』で描かれるのも、大切な人との永遠の別れです。主人公ジョバンニは、カンパネルラと一緒に旅をします。けれどカンパネルラは死の世界へ旅立ち、ジョバンニは現実の世界へと戻ってきました。
自ら生み出した物語を通じて、賢治はかけがえのない人を失った悲しみを受け容れ、残された自分の生を誰かのために役立てようとしたのではないでしょうか。
そしてこの物語をひも解く私たちもまた、『銀河鉄道の夜』を読むことで、大切な人を失った悲しみと向き合う勇気をもらえるように思うのです。
ベジタリアン自給自足生活
多くの童話や詩を残している賢治ですが、生前、作家として世に認められることはほとんどありませんでした。職業人としての賢治がもっとも充実した時間を過ごしたのは、20代後半、故郷の稗貫農学校(現在の花巻農業高校)で教師として過ごした4年余りの間でした。独自の感性でユニークな授業をする賢治先生は、生徒たちにも人気があったようです。
賢治が存命中に出版した2冊の本、詩集『春と修羅』と童話集『注文の多い料理店』もこの時期に生まれました。しかし、これらの本はほとんど売れることがなく、『注文の多い料理店』が書店で料理本のコーナーに並べられていたという逸話も残っています。
もし、宮沢賢治が農学校の教師としての仕事を続けていれば、37歳という若さで世を去ることもなく、もっと多くの豊かな作品群を私たちに残してくれていたのではないかー。
宮沢賢治ファンの私はつい、そんなふうに考えてしまうことがあります。
けれど、篤い信仰心と「農民のために尽くす」という、ほとんど自己犠牲に近いストイックな情熱に突き動かされた賢治は、安定した収入が約束された立場にいる自分を許すことができず、30歳で教師の仕事を辞めてしまいます。
トシが闘病生活を送った宮沢家の別宅でひとり暮らしを始めた賢治は「羅須地人(らすちじん)協会」という風変わりな名前のボランティア団体を立ち上げます。自ら畑を耕し、自給自足のベジタリアン生活を送りながら、農民たちの肥料相談を受けたり、レコードコンサートを開いたりしていたようです。
ここでの過酷な生活がたたり、賢治は急性肺炎にかかり、実家で療養することとなります。羅須地人協会の活動も、事実上頓挫してしまうのです。
モーレツサラリーマン時代
病気から回復した賢治が、「東北砕石工場」という化学肥料を扱う会社で、サラリーマン生活を送っていたことは、あまり知られていません。ここでも、賢治は生来のストイックな仕事ぶりを発揮。病み上がりの体をおして、チラシやサンプルを抱え、営業活動のため各地を飛び回るなど、八面六臂の活躍を見せます。
あまりにも有名な『雨ニモマケズ』や、代表作のひとつである『グスコーブドリの伝記』という童話も、この時期に書かれました。童話の中で、主人公グスコーブドリは、自らの命を懸けて農民たちの暮らしを守ります。まるでその物語を追いかけるように、賢治もまた出張先の東京で再び倒れてしまいます。死を覚悟した賢治は遺書をしたためますが、何とか花巻の実家に帰り着きます。そのとき既に、賢治の体は、妹トシの命を奪った病、肺結核に侵されていました。
病床でも、体力の許す限り農民たちの肥料相談にのり、『銀河鉄道の夜』に筆を入れ続けた賢治ですが、物語を完成させることのないまま、1933(昭和8)年、銀河の彼方へ旅立ちます。37歳の若さでした。
“どこにでも行ける切符”とは何だったのか
銀河鉄道に乗り込んだジョバンニは、自分の上着のポケットに、見覚えのない切符が入っていることに気づきます。物語に登場する「鳥を捕る人」の言葉を借りれば、「ほんたうの天上へさへ行ける切符」「どこでも勝手にあるける通行券」です。この切符を持っているジョバンニは、一度は生と死の世界の境目を走る銀河鉄道に乗ったにもかかわらず、また生の世界に戻ってくることができたのです。
ジョバンニのどこにでも行ける切符とは、いったい何だったのだろうー?
初めて『銀河鉄道の夜』を読んだ10歳のときから、私は何度となく、そのことについて考えてきました。
ほかの誰かの幸せのために、自分の命さえも投げ出すことのできる勇気のことでしょうか。賢治が信仰していた法華経の教えとも、関係があるかもしれません。もしかすると、賢治はその切符を持って、トシに会いに行きたかったのかもしれません。
しかし、賢治を取り巻く現実は厳しいものでした。羅須地人協会の夢は破れ、生前は作品が世に認められることもなく、若くして病に倒れてしまいます。亡くなる10日ほど前、賢治が教え子に書き送った最後の手紙には、こんなことが記されています。
私のかういふ惨めな失敗はたゞもう今日の時代一般の巨きな病、「慢」といふものの一支流に過って身を加へたことに原因します。僅かばかりの才能とか、器量とか、身分とか財産とかいふものが何かじぶんのからだについたものででもあるかと思ひ、じぶんの仕事を卑しみ、同輩を嘲り、いまにどこからかじぶんを所謂社会の高みへ引き上げに来るものがあるやうに思ひ、空想をのみ生活して却って完全な現在の生活をば味ふこともせず、幾年かゞ空しく過ぎて漸く自分の築いてゐた蜃気楼の消えるのを見ては、たゞもう人を怒り世間を憤り従って師友を失ひ憂悶病を得るといったやうな順序です。
(中略)
風のなかを自由にあるけるとか、はっきりした声で何時間でも話ができるとか、自分の兄弟のために何円かを手伝へるとかいふやうなことはできないものから見れば神の業にも均しいものです。(柳原昌悦への書簡)
未来への手紙
貧しい農民たちへの罪悪感。父への複雑な感情。愛する者を失った絶望。ひとりの人間として悩み、もがきながら、宮沢賢治は純粋に、ストイックに「ほんたうのさいはひ」を追求し続けました。
そんな宮沢賢治が生み出した物語は、分かりやすい勧善懲悪や、ハッピーエンドのものばかりではありません。ひとりの人間の中に善と悪が同居し、時に理不尽に、突き放すような結末を迎えます。決して明るく楽しいだけではないのに、読んでいくと、なぜだか笑い出したくなるような、心が軽くなる瞬間が訪れます。それはきっと、賢治の作品が持つ「想像力」の魔法です。
銀河系を渡ってゆく鉄道が走り、猫たちが舌なめずりをして人間を待ち構えるレストランがあり、風と共に不思議な転校生がやってくる、ワクワクするような世界へ、賢治は私たちをいざないます。
宮沢賢治の童話や詩は、作家の死後半世紀以上を経て、ようやく文学作品として正当な評価を受けるようになりました。その意味で彼は早すぎた作家であり、賢治の作品は、未来を生きる私たちに向けて綴られた手紙だったと言えるかもしれません。
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