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2020.05.25

幕末のイケメン!渋沢平九郎はなぜ20歳で自決したのか?その人生を解説!

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和樂webのTwitterでは最近、イケメン級国宝なんてあそびが流行っていて、イケメンな国宝を勝手に選んだりしている。しかし今回紹介するのは正真正銘の「国宝級イケメン」だ。

慶応4(1868)年1月、鳥羽伏見の戦いで新政府軍は旧幕府軍を制し、2月には江戸に迫っていた。5月23日、新政府軍と対立する振武(しんぶ)軍の一人の隊士が、埼玉県の顔振(かあぶり)峠を下り、黒山村(埼玉県入間郡越生町黒山)へと逃げのびる。官軍に追いつめられながら孤軍奮闘するものの、抗し難きを悟ったその若者は、路傍の岩にて自決。首は高札場に晒され、その亡骸は、哀れに思う村人によって黒山の全洞院に葬られる。位牌には「俗名知らず、江戸のお方にて候、黒山にて討死」と記された。

透明度の高い清流が流れる黒山

頭取は渋沢成一郎 彰義隊との亀裂

まずは振武軍について説明したい。
同年4月、勝海舟と西郷隆盛の直談判により、江戸城は無血開城した。これを受け、15代将軍徳川慶喜は水戸へ隠遁することになる。
「慶喜の冤罪を晴らし、汚名をそそごう」ーー「大義を彰(あきら)かにする」として、彰義隊の結成に立ち上がったのは、渋沢成一郎(渋沢栄一の従兄)。徹底抗戦を主張する彰義隊には各地から脱藩兵が集まり、その勢力は3〜4000人へと膨れ上がっていた。しかし隊の討伐へと踏み切った官軍により、5月15日、立てこもり中の上野寛永寺に総攻撃を受け、彰義隊は撃破されたのだった。

彰義隊はこの「上野戦争」の前、内紛状態にあった。「慶喜が江戸を退かれたのだから、市中で争うのはやめよう、江戸の町を灰にしてはならない」と主張する頭取の成一郎。しかし副頭取の天野八郎は「江戸にとどまるべきだ」と譲らない。仲間内での衝突を避けた成一郎とその同志は、すでに4月28日、田無村(東京都西東京市)に移っていた。成一郎派であり、彰義隊脱退者で結成された隊が、振武軍である。成一郎はこの振武軍でも頭取を務める。

江戸城無血開城の裏で起こっていたこと

彰義隊から分離した振武軍は、官軍との戦いを埼玉県の飯能に移す。5月23日早朝、川越城を出発した官軍による攻撃が始まる。1500人ほどの振武軍に対し、官軍は3500人の体制で攻撃を仕掛け、勝敗は明らかだった。本陣の能仁寺のほか4つの寺が焼け落ち、飯能村を含む周辺の民家は計200戸以上が焼失。飯能中心部が焼け野原となったこの「飯能戦争」は、官軍側の兵隊には川越藩、岩槻藩、忍藩の「武蔵三藩」からも多くの藩士が加わっていた。また振武軍の幹部にも成一郎を筆頭に武蔵国出身者が多く、そのため、「埼玉県域内での県民同士の戦いとなってしまった」という見方もある。そして江戸城無血開城の裏で、多くの犠牲者を出したとして語られている。

悲劇の幕臣 渋沢平九郎

戦いの場から黒山に逃亡してきた若者の身元が判明したのは、討死から10数年後。振武軍副頭取、尾高惇忠(おだかあつただ)を実兄に、渋沢栄一を義兄に持つ、振武軍参謀、渋沢平九郎だった。なお、尾高惇忠はのちの富岡製糸場初代工場長である。
平九郎は、弘化4(1847)年、埼玉県深谷市の下手計(しもてばか)に生まれる。母親が栄一の父と姉弟で、栄一は7歳違いの従兄にあたるが、渋沢姓を名乗っていたのは栄一の養子となったため。生家の尾高家は名主として知られる豪家だった。

平九郎について、『渋沢平九郎昌忠伝』に詳しい記述が残されている。

七八歳ヨリ読書習字ニ従事シ、十歳ノ頃ヨリ神道無念流ノ撃剣ヲ学ビ、

7、8歳から読書と習字を始め、10歳のころには神道無念流という剣術を始める(現代語訳)

さらに特筆すべきはこの部分である。

十八九歳ヨリハ撃剣ヲ人ニ教授スルニ至ル、而シテ容儀端美、白哲長身膂力人ニ過キ、

18、19歳のころには剣の腕前は指導するほどになり、そのふるまいは美しく、長身で色白、腕力もあった(現代語訳)
デジタル版『渋沢栄一伝記資料』より

平九郎が幕末のイケメンと言われる所以である。天は二物も三物も与えたという印象だが、栄一の渡仏によって平九郎の運命は大きく変わってしまう。

栄一は慶応3(1867)年の初頭、德川昭武に随行し、パリ万博視察のため渡仏していた。自分の身に何か起きた時に相続者がいないことを懸念した栄一は、妻の弟である平九郎に幕臣を継がせるため、平九郎を養子とすることに。幕臣栄一の養子となった平九郎は、武士の道へと進んだ。
しかし鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が薩長を中心とする新政府軍に敗れると、平九郎は悩み、フランスにいる栄一に「幕臣として痛心の至り」「早く昭武と一緒に日本に帰ってきてください」といった手紙を送っている。

なぜその道を行ったのか

標高500mの顔降峠は、現在では美しい景観もさることながら、登山初心者でも無理のない峠として、人気のハイキングコースである。かつては、埼玉県の越生(おごせ)と吾野(飯能市)を結ぶ経済路だった。鎌倉時代、奥州に逃れる義経一行が、あまりの美しさに顔を降りかえり降りかえり登った、という言い伝えがあり、名前の由来にもなっている。
顔降峠の途中に現在も残る「平九郎茶屋」は、平九郎が黒山に逃げる途中、実際に立ち寄った茶屋である。茶屋の女主人に逃げ道を指南されたものの、平九郎は別の道を行ったというのは有名な話だ。一説には女を待たせて(匿って?)いて、女を逃すためではないか、とも言われているが、真相は不明である。20歳で隊の参謀を任されるほど聡明で、そのうえ彼ほどの色男なら、よほどの事情があったに違いないとする妄想が生んだ新説ではないかと思うが、無粋だろうか。なお、平九郎は茶屋の主人に自身の大刀を預けていたが、刀は栄一の元に戻っている。

徳川家に忠義を果たした平九郎の最後

平九郎が自決した場所は、越生の黒山三滝から越生駅寄りの道沿いにある。当時、名も知らぬ青年隊士を黒山では脱走の勇者として「脱走(だっそ)様」、越生では「お首様」と呼び、祀っていた。のちに惇忠の調査により弟の平九郎であることが判明。敦忠と栄一は現地を訪れ、平九郎の菩提を弔い、村人に感謝の意を表した。

幕臣の子になり、徳川家に何かあったら忠義を示し、身を犠牲にしてでも報いるという強い意志があった平九郎。

明治元年戊辰五月二十三日(1868年)
是ヨリ先官軍東征ス。栄一ノ義子平九郎亦之ニ加ハル。是日戦敗レ、奔リテ入間郡黒山村ニ到リテ自殺ス。(渋沢平九郎昌忠伝)


平九郎が果てた自刃岩(じじんいわ)。その傍らには、平九郎の血を宿す、真っ赤な平九郎グミが実るという。

▼幕末新政府軍と戦った若者達
二本松少年隊物語 霞の天地 (一般書籍)

書いた人

埼玉生まれ。未だ迷いながら生きてる不惑の世代。迷走しつつ、音楽好きだけは貫いています。人生前半は仕事育児と突っ走って来たので現在、長期息切れ中。これからはゆるく伝統文化を堪能したりしながら、のんびり過ごしたい。