日本美術にこんな絵が!? そんなインパクトを後世の人々に与えた白隠と仙厓(僊厓とも書く)の禅画。その背景には、禅僧として少しでも多くの人に仏法を広げたいという気持ちと、画法を学んだ絵師には決して描くことのできない(むしろ描かない)、型破りな描写の数々があげられます。
日本美術史で特異な輝きを放つふたりの禅僧は、いかにして禅画を描くようになったのか、その歴史を追ってみましょう。
新しい絵画のジャンルを確立し教えを広めた2人の禅僧
42歳で真の大悟を得た白隠
まず白隠は江戸時代中期の貞享2(1685)年、駿河国(するがのくに)の問屋に生まれ、幼名は岩次郎(いわじろう)。幼いころから優れた記憶力を発揮したと伝わります。
白隠慧鶴・自賛「円相内自画像」
11歳のころ、母に連れられて「摩訶止観(まかしかん)」の講義を聞いて地獄の恐怖にとりつかれた白隠は、その苦しみから逃れるために、両親の反対を押し切り15歳で出家。地元の松蔭寺(しょういんじ)で、慧鶴の法名(ほうみょう)を与えられます。
その後は、沼津、清水、美濃(みの)、若狭(わかさ)、伊予など各地の寺を行脚(あんぎゃ)。24歳で越後高田(えちごたかだ)の寺で坐禅しているときに大悟(悟りを開く)するも、信州飯山で会った正受老人(道鏡慧端どうきょうえたん)は、その大悟は本物ではないと看破(かんぱ)。そこで8か月の厳しい修行に耐え、行脚の最中に心の病を患ったときには「内観の法」を授けられて回復。さらに修行を続けて、33歳で松蔭寺の住持となり、白隠と号するようになるのです。
白隠「お福御灸図」
荒廃(こうはい)していた寺で坐禅修行に打ち込む白隠のもとには多くの弟子が集まるようになり、42歳で真の大悟を得た白隠は、4つの基本的な「四弘誓願」(しぐせいがん)を実践しながら「公案」(禅問答)による禅を大成。全国行脚に出向いて講演し、精力的に教化をすすめ、臨済宗中興の祖と称されるようになったのです。
それと同時に、白隠は民衆にも禅の教えを説くために、わかりやすい禅画を描くことに努め、膨大な数の禅画を残しました。白隠が描いた画題は釈迦(しゃか)や達磨(だるま)、菩薩(ぼさつ)といった仏教に由来するものから、七福神やお多福といった民間信仰に根差したもの、動物を擬人化したものまでバリエーションは広範囲。しかも、ユーモアを込めながら修行者や民衆に禅を問いかけた白隠の禅画は、現在もなお独自の境地を誇っています。
このように厳しい修行をくり返し、禅に新たな道を示した白隠は、松蔭寺にて84歳になったころ静かにその生涯を終えました。
禅僧の最高位の受理を断っていた仙厓
白隠が禅画によって教化をすすめていたころ、美濃の農民の子として寛延3(1750)年に生を受けたのが仙厓です。
仙厓義梵「自画像画賛」
仙厓は11歳で地元の清泰寺(せいたいじ)にて得度・出家して義梵の法名を得たとされ、19歳以後は武蔵国(むさしのくに)・東輝庵(とうきあん)の月船禅慧(げっせんぜんね)について修行を重ね、32歳以後は全国を行脚する長い旅に出ます。
そして、40歳にして栄西禅師(ようさいぜんじ)が創建した日本最古の禅寺である、博多の聖福寺(しょうふくじ)の住持(じゅうじ)に就任。荒廃していた伽藍(がらん)を復興する多忙な日々のかたわら、禅画を手がけるようになります。
仙厓「犬図」
当時、仙厓は禅僧の最高位である紫衣(しえ)を受理することを3度も断っています。その理由は式にかかる費用があれば伽藍修復に充てるため。決しておごらず、気負わず、偉ぶらず、修行に励む仙厓は、町衆から「博多の仙厓さん」の呼び名で親しまれ、隠居後は禅画を描いて欲しいと頼まれれば決して断らず、武士にも町民にも分け隔てなく接していたと伝わります。
仙厓は実は、優れた画力を有していたそうですが、文人画家・浦上春琴(うらがみしゅんきん)に絶賛され、「雪舟のように画僧としてのみ歴史に名を残すのではないか」と言われ、すぐさま絵を破棄。以後は本格的な仏画を手がけることはなくなり、「厓画無法」(自分の絵に決まりなどない)と記してから、身近なものを対象にして、軽妙洒脱(けいみょうしゃだつ)でひょうひょうとした画法へ変わりました。
老境に差しかかっても仙厓の禅画の人気は絶大で、注文はひっきりなし。それがやがて負担となり、80歳を超えるころに絶筆宣言。晩年は弟子の不幸もありながら、88歳の生涯を博多の地で閉じました。