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2017.04.14

「見返り美人」とは? 菱川師宣の作品を解説

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浮世絵の歴史は江戸時代の歴史と重なり、世相や技術革新を反映しながら発展してきました。その300年間に目覚ましい活躍をした10人の浮世絵師の、進化の過程を前半・後半に分けて探ってみましょう。

「見返り美人」のポーズは俳諧に詠まれるほどの人気

安土・桃山時代から戦国時代を経て、天下統一を果たした徳川家康は慶長8(1603)年、江戸に幕府を開きます。平和な世が訪れるとともに、庶民の暮らし向きもよくなり、江戸では町人が活躍し、町人文化が発展していきます。江戸町人にとっては、かつて文化の中心でもあった京都から伝わる文物が飽き足らなくなり、地本という版本をつくるなど、江戸には庶民にも芸術文化が広まるような下地がつくられていきます。

それまで、芸術文化を担っていたのは特権階級・支配階級。江戸時代は日本の歴史上初めて、町人が文化の担い手となるのです。
その先駆けとなったのが、地本挿絵に、最初に名を記された菱川師宣(ひしかわもろのぶ)でした。師宣といえば「見返り美人図」があまりにも有名ですが、これは丹念に手描きした肉筆画。庶民にとってはまだまだ高嶺の花でした。

スクリーンショット 2017-04-12 15.36.02菱川師宣「見返り美人図」絹本着色 1幅 元禄(1688〜1704年)前期 63.2×31㎝ 東京国立博物館蔵

その一方で師宣は挿絵本や名所絵、枕絵といった版画で作成した絵を多数手がけます。好んで描いたのは、当時二大悪所と呼ばれていた遊里と芝居町。それは庶民の憧れの地であり、なかなか目にすることのできない世界。それが、安価な版画で見られるとあって、師宣の浮世絵はまたたく間に人々の心をとらえます。

元祖浮世絵師・師宣登場

ちなみに浮世絵の「浮世」とは「憂世」に由来し、江戸の世を謳歌(おうか)しようとする風潮の中で、浮かれて暮らすことを好んだ人々が「浮世」の字を当てたとされます。師宣から始まった浮世絵は、その後も多くの絵師を生み出します。その筆頭が、独学で絵を学び、早くから絵師としてのキャリアをスタートし、50年にわたってトップの座を守り通した奥村政信(おくむらまさのぶ)です。

スクリーンショット 2017-04-12 15.36.14奥村政信「芝居狂言浮絵根元」大判漆絵 寛保3(1743)年 32.4×45.9㎝ 写真提供/Bridgeman Images(PPS通信社)

政信の功績は、西洋画の遠近法を用いて芝居小屋の様子をくまなく描いた「大浮絵(おおうきえ)」を完成させたこと。役者だけではなく、芝居小屋の内部全体を描いた大画面の浮世絵は、臨場感にあふれ、遠近法によって浮き上がって見えると評判になります。また、部屋の柱に貼ることができるように、細長い紙に美人画や役者絵を描いた「柱絵」を創出するなど、アイディアに優れた絵師でもありました。

浮世絵は当初のモノクロの「墨摺(すみずり)絵」から丹色を着色した「丹絵(たんえ)」、植物性の染料を用いた「紅絵(べにえ)」「紅摺絵」へと発展し、鈴木春信(すずきはるのぶ)によって大きな変革を迎えます。それは、極彩色で摺った「錦絵」の誕生です。

美人画全盛時代の幕開き

浮世絵の革命児となった春信は、美人画にその才を発揮。茶屋の看板娘を描いた「笠森お仙」のように華奢な少女を得意とし、その絵に惹かれた人が茶屋に駆けつけ、行列を成したほど。浮世絵は宣伝媒体の先駆けでもありました。

スクリーンショット 2017-04-12 15.36.35鈴木春信「笠森お仙」中判錦絵 明和2~7年ごろ(18世紀後半)写真提供/Bridgeman Images(PPS通信社)

まさにカリスマ絵師であった春信亡き後も、美人画に対する江戸庶民の熱狂は増し、新たな絵師が求められるようになります。その風潮の中で画期的な美人画を描いたのが鳥居清長(とりいきよなが)でした。清長の美人画は8頭身の華奢な女性。春信が描いた少女とは異なり、江戸で働く女性たちを生き生きと描き、一気に人気絵師へと駆け上がります。しかし、後年は美人画から役者絵へとテーマを変え、美人画のスター絵師の座は次世代の絵師に取って代わられます。

スクリーンショット 2017-04-12 15.37.05鳥居清長「当世遊里美人合 辰巳艶」大判錦絵 1枚 天明2~4(1782~1784)年ごろ 38.2×25.1㎝ 江戸東京博物館蔵

江戸時代中期、18世紀後半になって最盛期を迎えた浮世絵界に現れた新たなスターのひとりが鳥文斎栄之(ちょうぶんさいえいし)です。栄之は旗本出身の武士でありながら浮世絵に熱中し、清長に私淑しながら絵を学んだという変わり種。その美人画は清長よりもさらにスタイルがよく、ありえないようなプロポーションで描かれています。女性の美に対する理想を具現化したような絵は栄之美人と呼ばれて人気を博しますが、やがて美人画制作から遠ざかっていき、浮世絵界ではもうひとりのスター絵師・喜多川歌麿(きたがわうたまろ)がもてはやされるようになります。

スクリーンショット 2017-04-12 15.56.05鳥文斎栄之「青楼美人六花仙 静玉屋志津加」大判錦絵 1枚 寛政5~6(1793〜1794)年ごろ 37.9×25.4㎝ 写真提供/Bridgeman Images(PPS通信社)

今でこそ有名な歌麿も、当時は年若い栄之に先を越され、なかなか日の目を見ない絵師のひとりでした。そんな歌麿の才能に目をつけたのが、版元であり名プロデューサーとして鳴らした蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)。歌麿は蔦屋のもとで「大首絵(おおくびえ)」の手法を生み出し、一躍脚光を浴びます。それは、美人画は全身を描くという慣例を打ち破った上半身のクローズアップ。顔はもとより髪の流れまで美しく描いた大首絵は美人画の代名詞となり、歌麿は栄之をしのぐ人気を獲得。蔦屋のプロデュースによって「婦人相学十躰(ふじんそうがくじったい)」などの傑作をつぎつぎに発表し、10年もトップ絵師として君臨しますが、幕府の禁忌(きんき)に触れた作品を描いたことで手鎖の刑に処せられ、処分後は一線から退くことになります。

スクリーンショット 2017-04-12 15.58.17喜多川歌麿「婦人相学十躰 浮気之相」大判錦絵 1枚 寛政(1789〜1801年)前期37.7×24.3㎝ 写真提供/Bridgeman Images(PPS通信社)

歌麿なき後の浮世絵はどうなるのか?

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