この記事を読めば、基本がわかる! 日本を代表するアート・浮世絵(うきよえ)。その歴史と、写楽や北斎や国芳など、代表的な絵師・作品をまとめて解説します。
浮世絵とは
浮世絵は、江戸時代に成立した絵画様式のひとつです。江戸時代の幕開けと共にその歴史は始まり、生活や流行、遊女や役者などをテーマにした絵画で、庶民層を中心に盛り上がりをみせました。ちなみに浮世絵の「浮世」とは「憂世」に由来し、江戸の世を謳歌(おうか)しようとする風潮の中で、浮かれて暮らすことを好んだ人々が「浮世」の字を当てたとされています。
喜多川歌麿「婦女人相十品 ポッピンを吹く娘」大判錦絵 江戸時代(18世紀) 写真提供/PPS通信社(Alamy)
表現技法は肉筆画と木版画
浮世絵の表現技法は、大きく肉筆画と木版画のふたつがあります。浮世絵は菱川師宣の肉筆画に始まり、鈴木春信らによる「錦絵(にしきえ)※」と呼ばれる技法によって、大きく発展しました。
※錦絵・・・浮世絵といえばまず思い浮かべるであろう、木板を用いた鮮やかな多色摺りの版画。
浮世絵の歴史
1.浮世絵と江戸時代の始まり
安土・桃山時代から戦国時代を経て、天下統一を果たした徳川家康は慶長8(1603)年、江戸に幕府を開きます。
平和な世が訪れるとともに、庶民の暮らし向きもよくなり、江戸では町人が活躍し、町人文化が発展していきます。江戸町人たちはかつて文化の中心だった京都から伝わる文物に飽き足らなくなり、地本という版本をつくるなど、庶民にも芸術文化が広まるような下地がつくられていきました。
それまで、芸術文化を担っていたのは特権階級・支配階級。江戸時代は日本の歴史上初めて、町人が文化の担い手となるのです。
2.浮世絵師が続々登場
江戸時代初期、菱川師宣から始まった浮世絵は、その後も多くの絵師を生み出します。その筆頭が、独学で絵を学び、早くから絵師としてのキャリアをスタートし、50年にわたってトップの座を守り通した奥村政信(おくむらまさのぶ)です。
奥村政信「芝居狂言浮絵根元」大判漆絵 寛保3(1743)年 32.4×45.9㎝ 写真提供/Bridgeman Images(PPS通信社)
3.鈴木春信による「錦絵」の誕生
政信の功績は、西洋画の遠近法を用いて芝居小屋の様子をくまなく描いた「大浮絵(おおうきえ)」を完成させたこと。役者だけではなく、芝居小屋の内部全体を描いた大画面の浮世絵は、臨場感にあふれ、遠近法によって浮き上がって見えると評判になります。また、部屋の柱に貼ることができるように、細長い紙に美人画や役者絵を描いた「柱絵」を創出するなど、アイディアに優れた絵師でもありました。
鈴木春信「お百度参り」明和2(1765)年 中判錦絵 ©Lee E.Dirks Collection
浮世絵は当初のモノクロの「墨摺(すみずり)絵」から丹色を着色した「丹絵(たんえ)」、植物性の染料を用いた「紅絵(べにえ)」「紅摺絵」へと発展し、鈴木春信(すずきはるのぶ)によって大きな変革を迎えます。それは、極彩色で摺った「錦絵」の誕生です。
4.浮世絵「美人画」時代の幕開け
浮世絵の革命児となった春信は、美人画にその才を発揮。茶屋の看板娘を描いた「笠森お仙」のように華奢な少女を得意とし、その絵に惹かれた人が茶屋に駆けつけ、行列を成したほど。浮世絵は宣伝媒体の先駆けでもありました。
鈴木春信「笠森お仙」中判錦絵 明和2~7年ごろ(18世紀後半)写真提供/Bridgeman Images(PPS通信社)
カリスマ絵師であった春信亡き後も、美人画に対する江戸庶民の熱狂は増し、新たな絵師が求められるようになります。その風潮の中で画期的な美人画を描いたのが鳥居清長(とりいきよなが)でした。清長の美人画は8頭身の華奢な女性。春信が描いた少女とは異なり、江戸で働く女性たちを生き生きと描き、一気に人気絵師へと駆け上がります。しかし、後年は美人画から役者絵へとテーマを変え、美人画のスター絵師の座は次世代の絵師に取って代わられます。
鳥居清長「当世遊里美人合 辰巳艶」大判錦絵 1枚 天明2~4(1782~1784)年ごろ 38.2×25.1㎝ 江戸東京博物館蔵
5.江戸時代中期は「美人画」の全盛期
江戸時代中期、18世紀後半になって最盛期を迎えた浮世絵界に現れた新たなスターのひとりが鳥文斎栄之(ちょうぶんさいえいし)です。栄之は旗本出身の武士でありながら浮世絵に熱中し、清長に私淑しながら絵を学んだという変わり種。その美人画は清長よりもさらにスタイルがよく、ありえないようなプロポーションで描かれています。女性の美に対する理想を具現化したような絵は栄之美人と呼ばれて人気を博しますが、やがて美人画制作から遠ざかっていき、浮世絵界ではもうひとりのスター絵師・喜多川歌麿(きたがわうたまろ)がもてはやされるようになります。
鳥文斎栄之「青楼美人六花仙 静玉屋志津加」大判錦絵 1枚 寛政5~6(1793〜1794)年ごろ 37.9×25.4㎝ 写真提供/Bridgeman Images(PPS通信社)
今でこそ有名な歌麿も、当時は年若い栄之に先を越され、なかなか日の目を見ない絵師のひとりでした。そんな歌麿の才能に目をつけたのが、版元であり名プロデューサーとして鳴らした蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)。歌麿は蔦屋のもとで「大首絵(おおくびえ)」の手法を生み出し、一躍脚光を浴びます。それは、美人画は全身を描くという慣例を打ち破った上半身のクローズアップ。顔はもとより髪の流れまで美しく描いた大首絵は美人画の代名詞となり、歌麿は栄之をしのぐ人気を獲得。蔦屋のプロデュースによって「婦人相学十躰(ふじんそうがくじったい)」などの傑作をつぎつぎに発表し、10年もトップ絵師として君臨しますが、幕府の禁忌(きんき)に触れた作品を描いたことで手鎖の刑に処せられ、処分後は一線から退くことになります。
喜多川歌麿「婦人相学十躰 浮気之相」大判錦絵 1枚 寛政(1789〜1801年)前期37.7×24.3㎝ 写真提供/Bridgeman Images(PPS通信社)
6.写楽が描いた「役者絵」
歌麿を失った蔦屋は、興行的に不振が続いていた歌舞伎界に目をつけ、役者絵シリーズの刊行を思いつきます。そのプロジェクトに大抜擢されたのが東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)でした。写楽は長らく謎の人物とされてきましたが、現在は江戸八丁堀に住んでいた阿波藩のお抱え能楽師であった斎藤十郎兵衛だという説が有力になっています。十郎兵衛が面白い役者の似顔絵を描くという噂を聞きつけた蔦屋は、その才能を見抜き、謎の新人絵師として大々的に売り出したのです。
東洲斎写楽「市川鰕蔵の竹村定之進」重要文化財 大判錦絵 1枚 寛政6(1794)年 37.7×25㎝ 写真提供/Bridgeman Images:PPS通信社
7.写楽から豊国へ 江戸時代後期
写楽の役者絵の特徴は、「市川鰕蔵の竹村定之進(いちかわえびぞうのたけむらさだのしん)」のように、顔立ちや表情を前面に打ち出したデフォルメの技法。それは、眉目秀麗(びもくしゅうれい)なのがあたりまえだった役者絵に親しんでいた江戸庶民にとって驚愕的で、インパクトの強さから大いにもてはやされます。その似顔絵はあまりにリアルで、中には写楽に描かれることを好まない役者もいたというエピソードがあるほどです。写楽が活躍したのはほんの10か月ほど。これは副業としての契約であったがゆえのことだといわれています。
江戸時代も後期になってくると、たくさんの浮世絵師が積み上げてきた技法や画風が成熟を極め、浮世絵はついに爛熟期を迎えます。
そのころの浮世絵界を牛耳っていたのは、歌川派という大派閥。それを率いていた歌川豊国(うたがわとよくに)は、美人画から役者絵、黄表紙や合巻の挿絵まで手広く手がけ、絶大な人気を誇っていました。そんな豊国を慕ってたくさんの絵師が弟子入りを希望し、名実ともに巨大勢力を形成していたのです。
8.広重の登場、主流は「風景画」へ
武士の家に生まれながら絵師を志した歌川広重(ひろしげ)も豊国に弟子入りを希望したひとりでした。しかし、素人同然だった広重はあっさり入門を断られ、しかたなく豊国の兄弟弟子であった豊広(とよひろ)に入門。それがかえって活路を開き、静かな画風であった豊広の影響を受けた広重は、やがて風景画に興味を示すようになります。この時代、浮世絵において重要視されたのは美人画や役者絵。風景画は傍流(ぼうりゅう)と見なされていたのですが、この判断が広重の絵師人生を大きく変えていくことになったのです。
広重にとって最初の風景画「東都名所」は、先達であった葛飾北斎(かつしかほくさい)の成功の陰に隠れてしまうものの、続いて発表した「東海道五拾三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)」は、旅行ブームに沸いていた江戸庶民にとって旅のバイブルにもなり、会心のヒットを記録。旅に生き、各地に生きる人を丹念に描き、写実の中に抒情性を秘めた独特のタッチで名所を描いた広重のおかげで、風景画は浮世絵の本流に仲間入りするようになります。
歌川広重「名所江戸百景 大はしあたけの夕立」大判錦絵 安政4(1857)年 メトロポリタン美術館 he Metropolitan Museum of Art,The Howard Mansfield Collection,Purchase,Rogers Fund,1936
9.葛飾北斎と歌川広重による「風景画」
この風景画ブームに先鞭をつけたのは、広重より37歳年上だった北斎の「冨嶽三十六景(ふがくさんじゅうろっけい)」。何よりも絵を描くことが好きで、だれに頼ることなく気ままに絵と向き合っていた北斎が齢72にして描いた富士山の連作は、浮世絵のみならず日本の美術を代表する名作として知られています。しかし、北斎の絵に対する興味は尽きることがなく、風景画での成功以後は肉筆画に精力的に取り組むようになり、90歳で亡くなるまで絵師としての人生を全うしました。
葛飾北斎「冨嶽三十六景 尾州不二見原」大判錦絵 1枚 天保2(1831)年ごろ 写真提供/Heritage Image(PPS通信社)
10.奇想天外なアイデア、歌川国芳の登場
歌川派隆盛の爛熟期にはもうひとり、忘れてはならない絵師がいました。それが歌川国芳(くによし)です。
歌川国芳「魚の心」大判錦絵 1枚 天保(1830〜1844)末期 ギャラリー紅屋蔵
広重と同い年だった国芳は10代の前半というほぼ同時期に、広重が断られた豊国に入門を許され、早くからその才能が認められていた天才肌。無頼派ともいうべきその性格から独自路線を模索し、魚や動物をユーモラスに描いた作品や、「水滸伝(すいこでん)」の豪傑たちを勇猛に描いた武者絵などで頭角を現します。グロテスクなまでに誇張された表現はまさに国芳の独壇場。やがて大人気を博します。国芳の弟子には河鍋暁斎(かわなべきょうさい)や月岡芳年(つきおかよしとし)など明治時代を代表する絵師がおり、浮世絵の伝統は時代を超えて受け継がれていきました。
江戸時代の代表的な浮世絵師
浮世絵を描いた代表的な画家(絵師)たちを紹介します。
菱川師宣(ひしかわもろのぶ)
江戸初期に活躍した浮世絵師。浮世絵を確立した人物で、浮世絵の始祖と呼ばれています。代表作は東京国立博物館に所蔵されている「見返り美人」など。
鈴木春信(すずきはるのぶ)
江戸時代中期に活躍した浮世絵師。細身で繊細な表情の美人画で人気を博しました。錦絵の誕生に決定的な役割を果たし、後の浮世絵の発展に多大な影響を及ぼした絵師のひとりです。
■錦絵を始めた天才浮世絵師、鈴木春信の魅力|尾上右近の日本文化入門
東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)
江戸時代中期に活躍した浮世絵師。約10か月の短い期間に、役者絵などを版行したのち、突如画業を絶ち姿を消した謎の絵師としても有名です。
■謎の天才絵師・東洲斎写楽の「大首絵」を詳しく解説!特徴を捉えすぎて反感を買った?
歌川広重(うたがわひろしげ)
江戸時代後期に活躍した浮世絵師。風景を描いた木版画で大人気の画家となり、ゴッホやモネなどの西洋の画家にも影響を与えたと言われています。
葛飾北斎(かつしかほくさい)
江戸時代後期を代表する浮世絵師のひとり。その生涯で3万点を超える作品を発表しました。世界的にも有名な画家で、海外でも「HOKUSAI」で広く知られています。
■葛飾北斎とは?浮世絵「富嶽三十六景」など有名作品と人物像を徹底解説!
歌川国芳(うたがわくによし)
江戸時代末期を代表する浮世絵師のひとり。斬新なデザイン、奇想天外なアイデア、高いデッサン力で浮世絵の枠にとどまらない魅力的な作品を多数生み出しました。
ヨーロッパの芸術に影響を与えた浮世絵
浮世絵はヨーロッパに渡り、フランスの印象派の成立に大きな影響を与えました。その影響は絵画の分野に止まらず、葛飾北斎の大胆極まりない浪の情景に憧れて、ドビュッシーは『交響詩海』を完成させ、カミーユ・クローデルは『波』の彫刻を制作したと言われています。
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浮世絵の代表作
菱川師宣の「見返り美人」
菱川師宣「見返り美人図」絹本着色 1幅 元禄(1688〜1704年)前期 63.2×31㎝ 東京国立博物館蔵
その一方で師宣は挿絵本や名所絵、枕絵といった版画で作成した絵を多数手がけます。好んで描いたのは、当時二大悪所と呼ばれていた遊里と芝居町。それは庶民の憧れの地であり、なかなか目にすることのできない世界。それが、安価な版画で見られるとあって、師宣の浮世絵はまたたく間に人々の心をとらえます。
東洲斎写楽の「三代目大谷鬼次の江戸兵衛」
東洲斎写楽「三代目大谷鬼次の江戸兵衛」大判錦絵一枚 寛成6(1794)年 写真提供/Bridgeman Images(PPS通信社)
大首絵をもっとも得意とした絵師・東洲斎写楽。その作品の中でも最も有名なこの作品は、悪党が今まさに大金を狙って相手に襲いかかる一瞬を、これでもかと極端に変形し、誇張した大胆不敵な表現で見る者を圧倒。懐からぬっと出された両手が一種の不気味さをも演出し、「いよ!これぞ役者絵の神髄」と思わず声をかけたくなるほどです。大首絵の特徴として、絵の描かれる範囲が狭いために、役者たちの場面状況がわかりにくいという弱点がありました。しかし、写楽はそれを逆手にとって顔の各部を象徴的にデフォルメし、さらに特徴的なニュアンスを手に演出させることで、際立つ個性を存分に見せつけたのです。
歌川広重の「東海道五十三次」
歌川広重「東海道五十三次 日本橋」(朝之景) 天保4~5(1833~1834)年 岡田美術館蔵
旅行ブームが到来していた当時、手軽に旅気分を味わえる浮世絵の風景画は、江戸の世の人々から大いに人気を集めました。そして、作者の広重は浮世絵師として北斎に勝るとも劣らない人気を得るようになったのです。以後広重は生涯に20種をこえる東海道シリーズを手がけたのですが、最も人気を博したのが、版元・保永堂(竹内孫八)が中心となって出版した「東海道五十三次」です。
葛飾北斎の「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」
大判錦絵一枚 天保2(1831)年ごろ 写真提供/UIG(PPS通信社)
言わずと知れた天才浮世絵師・葛飾北斎の真骨頂と言える一作。世界で最も有名な日本絵画と呼んでも過言ではないでしょう。その飛沫の波頭を見つめてみれば、北斎が「視覚の魔術師」と呼ばれる所以がわかるというもの。北斎はこの作品に自然に対する畏怖の念を込めたかったのかもしれません。富士の頂に向けて、今まさに砕け落ちる瞬間の巨大な波頭となっている部分。古来、波の造形はさまざまな絵師によって描かれてきましたが、これほどデザイン的にして、奇怪さを漂わす波はありません。
歌川国芳の「相馬の古内裏に将門の姫君瀧夜叉妖術を以て味方を集むる大宅太郎光国妖怪を試さんと爰に来り竟に是を亡ぼす」
歌川国芳「相馬の古内裏に将門の姫君瀧夜叉妖術を以て味方を集むる大宅太郎光国妖怪を試さんと爰に来り竟に是を亡ぼす」弘化元(1844)年ごろ 大判錦絵三枚続 ボストン美術館
ダイナミズムを追求した結果でしょうか、大判錦絵三枚をひとつの画面に見立て、はみ出しそうなくらいに大きくモチーフを描く構図は、国芳以降、多くの絵師たちが追随し、新しい錦絵表現になりました。それまでは大判錦絵の続きものといえば、一枚ずつでも鑑賞できるように描かれるのが通例でしたが、国芳は既成概念を壊して、大胆な発想で新境地を切り拓いたのでした。
浮世絵を鑑賞できる美術館は?
江戸の庶民の心をとらえ、海外の美術愛好家を驚かせた浮世絵を鑑賞するなら、常設の美術館・博物館がおすすめ。浮世絵師ゆかりの地や有名コレクターの作品を集めた16の美術館・博物館で、江戸の華をじっくり味わってみてください。
■ 多彩な江戸時代のアートが楽しめる16のオススメ美術館・博物館を一挙紹介【永久保存版】
※記事中の画像は、過去の「和樂」掲載記事を再編集したものです。