そのほか9人の絵師はこちらからご覧ください。
日本美術超入門 はじめに
ひと口に日本美術といっても、金色の極彩色(ごくさいしき)からモノトーンの水墨画(すいぼくが)まであり、掛軸(かけじく)や屛風(びょうぶ)、襖絵(ふすまえ)、版など、スタイルもタイプもさまざま。
そんな日本美術の歴史に大きな足跡を残したのが、これから紹介する10人のカリスマ絵師です。「和樂」で何度も取り上げてきた超有名人ですが、実はまだまだ隠されてきた名画や秘密がいっぱい。「そうだったのか!日本美術」とひざを打つこと間違いなしの日本美術超入門、開講です。
中国帰りのメジャーリーガー
雪舟等楊
中国の水墨画を和風にアレンジ
小僧時代にお仕置きで柱に縛り付けられたとき、涙を足で受けてネズミを描いたなど、雪舟の画才は伝説にまでなっています。
ですが、京都での修行時代は当時流行っていた繊細な画風になじめず、失意のうちに山口へ移転。画僧として頭角を現したのは遅く、48歳のころに大内氏による遣明船(けんみんせん)の一員として中国へ渡っています。
かの地での仕事は記録画の作成でしたが、本場中国で見たダイナミックな筆勢の山水画は、まさに自分の得意としていたスタイル。大きな自信を得て帰国した雪舟は、大胆な山水画やリアルな花鳥画を描き、繊細で小さくまとまっていた日本の水墨画を革新します。
さらに、旅先の情景を描いた日本独自の山水画を極め、画聖と呼ばれるまでになったのです。
よっ! 水墨のカリスマ!
カリスマ絵師たちの憧れの的!
画聖・雪舟が確立した日本独自の新しい水墨画は、日本美術のひとつの金字塔であり、絵を志した者がみな水墨画の最高峰として仰ぐほど多大な影響を与えました。
たとえば尾形光琳(おがたこうりん)は、雪舟の絵の模作に熱心だったようで、弟乾山(けんざん)がつくった器に絵付けをした『銹絵山水文四方火入(さびえさんすいもんよほうひいれ)』(大和文華館)は、雪舟の筆致(ひっち)にならったものに違いありません。
また、室町時代にさかのぼる狩野派(かのうは)の成立期には雪舟の影響が強く、江戸時代の狩野探幽(たんゆう)は水墨画の余白を受け継いだとされ、多くの名絵師が私淑(ししゅく)しているのです。
その一方、『松林図屛風(しょうりんずびょうぶ)』で有名な長谷川等伯(はせがわとうはく)はみずから雪舟五代を名乗っていますが、これは画風の継承というより、その知名度を頼ったものだったと考えられています。
仏教の重要なシーンを活写!
『慧可断臂図(えかだんぴず)』のテーマは「達磨安心(だるまあんじん)」。鋭い岩の洞窟に座る白衣の男は中国へ禅を伝えた達磨で、手前の冴えない顔をした男は後に二祖(にそ)となる慧可。
達磨に弟子入りを求めるものの相手にされない慧可は、自分の決意を表わすために左腕を切り落としてきて、入門を許されます。そして、慧可が達磨に「私の心を安らかにしてください」と言うと、「ならばお前の心をもってこい」と言われ、「探しても見つかりません」と答えると、達磨は「もう安らかになっている」。
この禅問答は、すべてが生まれながらにして人の心に宿っているという禅の基本「心不可得(しんふかえ)」を表現。それを、かつてなかった雰囲気で、想像力をかき立てるように描いているところが、雪舟のすごさです。
カリスマ絵師01 雪舟等楊プロフィール
せっしゅう とうよう
応永27(1420)年~永正3(1506)年ごろ。備中国(びっちゅうのくに)現・岡山県総社市(そうじゃし)に生まれ、10歳のころ禅僧となる。京都・相国寺(しょうこくじ)で禅と絵の修行後、山口の大内氏の庇護(ひご)のもと絵に専念し、拙宗から雪舟へ改号。48歳のころ、遣明船で中国へ渡り、帰国後は漂泊の旅をしながら終生画業を突き詰める。
※本記事は雑誌『和樂(2018年4・5月号)』の転載です。