伊藤若冲は“お坊ちゃま”だった?
Keyword1「八百屋さんじゃないよ!」
実家は多くの業者と取り引きする青物問屋
伊藤若冲の実家は、京都・錦市場(にしきいちば)の青物問屋「桝屋」。青物問屋とは、いわゆる八百屋さんではなく、野菜や果物を販売する小売店、仲買、生産者をとりまとめる商社のような存在でした。「桝屋」の当主は代々、源左衛門を名乗り、若冲は23歳のときに父を亡くし、4代目桝屋源左衛門となります。若主人として商売の世界に身を置くも、元来、社交性に乏しい性格で、煩わしい人間関係に嫌気がさしたのか、若冲は2年間、丹波の山奥に隠棲したという噂話も…。留守中に山師たちが権利を奪おうとするなど、「桝屋」と取引していた多くの商人たちが迷惑したということです。
Keyword2「お坊ちゃま」
生活には困らない裕福な家の〝ぼんぼん〟!?
毎日多くの人々で賑わう錦市場の問屋「桝屋」は、売り場の場所代を取るだけで十分な利益を得ることができ、その若主人となった若冲もお金に困ることはなかったと思われます。教養があり、家を発展させ、妻子をもち、酒宴を楽しむ、優雅な暮らしをすることもできたはずですが、父親まで代々築いてきた生活から若冲は逸脱します。
Keyword3「最初の師匠は狩野派?」
絵を学ぶときはまずは狩野派へ
江戸時代、絵画を学ぶ人は狩野派の画塾に入るのが王道でした。若冲も最初は狩野派の絵師について画法を学んだとされ、大坂の大岡春卜(おおおかしゅんぼく 1680~1763)がその絵師ではないかといわれていますが、真実かどうか明らかではありません。大岡春卜は、『画本手鑑』『和漢名画苑』をはじめ多くの画譜(絵の手本)の出版により、狩野派の画法を一般に普及させた人物として知られています。若冲もその本を見て絵画を学んだとも考えられます。
Keyword4「独楽窩」
ひとり籠って絵を描くアトリエ
若冲が37歳のときに描いた『松樹番鶏図(しょうじゅばんけいず)』には「壬申春正月旦呵凍筆於平安独楽窩 若冲居士」の款記(らっかん)があります。「宝暦2(1752)年の正月の朝、平安独楽窩で凍った筆に息を吹いて温めながら記す」という意味で、「独楽窩(どくらくか)」つまり〝ひとり楽しむ住処(すみか)〟と称するアトリエで、若冲は絵を描いていたことがわかります。宝暦5(1755)年以降は心遠館という室号も見られ、このころ若冲は、2か所のアトリエで制作に没頭していたと思われます。
Keyword5「弟・白歳と弟子たち」
弟も絵を描き、数人の弟子もいた
若冲には社交的とは程遠い、孤高の画家というイメージがあります。弟子がいるとは想像がつきにくいのですが、実は、若演、意冲といった数人の弟子たちがいたようです。とりわけ若演は、若冲にとって助手のような近い存在であったと思われ、多くの作品が残っています。また、若冲が家督を譲った弟の宗巌(そうごん)も、若冲の影響で白歳(はくさい)の号で絵を描きました。白歳とは野菜の白菜をもじって名づけたと考えられています。
“若冲”は誰が名付けた?
Keyword6「大典顕常」
厚い友情で結ばれた唯一無二の理解者
30代の半ば、相国寺の僧である大典顕常(だいてんけんじょう)と出会ったことで、その後の若冲の人生は大きく飛躍することになります。若冲より3歳年下で、京都屈指の知識人であった大典は、若冲の絵画の最大の理解者となり、生涯の友になりました。大典の詩文集『小雲棲稿(しょううんせいこう)』巻8に収められた「藤景和画記(とうけいわがのき)」と、大典が書いた、若冲の寿蔵(生前につくる墓)に刻まれた銘文「斗米庵若冲居士寿蔵碣銘(とべいあんじゃくちゅうこじじゅぞうけつめい)」は、若冲の生涯や人となりを知ることができる貴重な史料です。親しい間柄だったからか、大典の教養と文才ゆえか、若冲のことを理想的に記したと思われる箇所も見受けられます。
Keyword7「景和」
名は汝鈞、字は景和
若冲は、汝鈞(じょきん)という名をもち、成人後につける名前である字は景和(けいわ)といいました。江戸時代、教養のある人は姓を中国風に一字にして示す慣習があり、伊藤は藤に。初期の作品『雪中雄鶏図(せっちゅうゆうけいず)』(細見美術館)には「景和」の署名が。
Keyword8「大盈は冲しきが若し」
大典が名づけた!? 若冲という号
若冲という号は「大盈(だいえい)は冲(むな)しきが若(ごと)きも其(そ)の用は窮(きわ)まらず」という老子の言葉がもとになりました。「大きく満ちたものは空虚に見えるが、その働きは尽きることがない」の意味で、大典が名づけたともいわれます。
Keyword9「禅」
絵画と仏教とが併行する人生
若冲は絵画とともに仏教、特に禅に傾倒しました。実家の伊藤家は浄土宗徒なので、何歳のころから禅が身近になったのかは定かではありませんが、禅僧である大典との出会いが影響したことは想像にかたくありません。在家のまま仏門に帰依(きえ)する男子には、居士の称号が与えられます。37歳の作品『松樹番鶏図』以降は「若冲居士」と記す落款(らっかん)や印章がある絵画が多く見られます。若冲にとっては仏画を描くような敬虔な気持ちで向き合った作品も多かったと思われます。
Keyword10「宝暦5年」
家督を弟に譲り、画業に専念
若冲にとって最大のエポックとなった年が、宝暦5(1755)年です。40歳のときに弟・宗巌(そうごん)に家督(かとく)を譲り、名前は茂右衛門(もえもん)に。俗世の生活を捨てて、仏門に入るかのように、画業に専念することを決めました。
なんてったって鳥が好きな若冲
Keyword 11「絵事三昧」
絵を描くこと以外は一切興味なし!
若冲は10代半ばのころから絵を描き始めたと考えられています。大典顕常(だいてんけんじょう)による「斗米庵若冲居士寿蔵碣銘(とべいあんじゃくちゅうじゅぞうけつめい)」にも「ほかに特技もなく、ただ絵事を好み……性格は実直で自分を飾るようなことはなく」とあり、ひたすらに絵事三昧(えごとざんまい)。画業に没入した人生であったことがわかります。
Keyword 12「キラッキラ」
最高級の絵具で輝く色彩
『動植綵絵(どうしょくさいえ)』の目をみはるほどの色彩は、高価な顔料(がんりょう)や墨などを巧みに使い分けて描かれています。若冲は裕福な家の生まれで絵具を買うお金には困らなかったはず。プルシアンブルーという海外の新しい絵具も早い時期に入手して、作品に取り入れました。
Keyword 13「鳥LOVE♡」
鶏、鸚鵡、鳳凰 なんてったって鳥が好き
若冲といえば、鶏の絵を思い浮かべる人も多いでしょう。ご存じのとおり、鶏は若冲が最も多く手がけた題材です。興味深いのは、描かれているのは現代の私たちがよく知る白いレグホンのような採卵のための品種ではなく、闘鶏用や観賞用の鶏が多いこと。眼、脚や動作など写実的に描かれていますが、尾っぽが誇張されたり、実はグラフィカルに見せるための変更部分も見られます。鶏のほかにも、若冲は、鸚鵡(おうむ)、鶴、鴛鴦(おしどり)から空想上の鳳凰まで、鳥たちの美しい姿を愛しました。
Keyword 14「草木国土悉皆成仏」
生きとし生けるものを慈しむ精神
『動植綵絵』『樹花鳥獣図屛風』『鳥獣花木図屛風』など若冲の作品には鳥や動物、虫、草花、樹木、魚や貝など、さまざまな生きものが描かれています。それは「草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)」という動植物も人間もすべてに仏性があり、成仏できるという仏教観に通じています。
Keyword 15「売茶翁」
18世紀の京都の文化人の中心的存在
日本における煎茶の祖として知られる売茶翁(ばいさおう)は、もともと黄檗宗(おうばくしゅう)の僧侶でしたが、精神の高みを求めて僧であることをやめ、茶売りとなった異色の人物。大典顕常をはじめ、当時の多くの知識人や文化人が売茶翁に憧れ、集まりました。売茶翁は、制作中の『動植綵絵(どうしょくさいえ)』を見て「丹青活手妙通神」の一行書を若冲に送りました。人物画をほとんど描かなかった若冲ですが、売茶翁の肖像画だけは複数残っています。一見貧相にも見える風貌の中に、高貴な精神が宿っている売茶翁という人物に若冲がどれだけ魅了されていたかがうかがえます。売茶翁が禅の教えを平易に伝える詩文を集めた『売茶翁偈語(ばいさおうけご)』には、若冲が描く売茶翁の上半身像が掲載され、続いて池大雅(いけのたいが)が書した売茶翁の文章や大典が記した売茶翁伝も収められています
なかなかのリア充ライフを送っていた若沖
Keyword16「文化人ネットワーク」
京都・大坂の愉快な仲間たち
京都・大坂の文化人たちとも交友関係を広げた若冲。画家の池大雅、儒学者の皆川淇園などとも交流があり、とりわけ大典とも親しい大坂の酒造家で、本草学を学び、書画、詩作などの蒐集家でもある木村蒹葭堂との縁は深いものになりました。蒹葭堂の家は文化サロンのように、多くの知識人や芸術家たちが出入りをしたといいます。海外の最新の顔料であったプルシアンブルーを若冲が入手できたのは、蒹葭堂が関係していた可能性もあるようです。
Keyword17「大坂」
大典と一緒にのんびり淀川下り
明和4(1767)年の春、若冲は大典と一緒に舟で大坂を訪れました。その体験をもとに若冲が絵を描き、大典が詩を書いた版画巻が『乗興舟』です。京都伏見から大坂天満橋まで所要時間は6時間ほど。ふたりは大坂で木村蒹葭堂と親交を深めたことでしょう。
Keyword18「千載具眼の徒を竢つ」
今は理解されなくてもいい、という潔さ
大坂の医師で漢詩人であった川井桂山は、若冲が描いた『動植綵絵』の半数にあたる15幅を見たときのことを漢詩文に記しています。そこには「千載具眼(せんざいぐがん)の徒を竢(ま)つ」、すなわち、自分の絵を理解してくれる人が現れるまで千年待つ、という若冲の言葉が書かれています。だれもが驚愕するような斬新な絵画でしたが、若冲は市井で受け入れられなかったわけではありません。理解されないどころか、権力者たちも一般の人々も若冲の絵を欲しがる人が大勢いて、大変な売れっ子でした。
Keyword19「応挙1番、若冲2番?」
京都画壇での圧倒的な人気と実力
『平安人物志』は、明和5(1768)年から増補改訂されながら出版された、近世京都の文化人を収録した人名録。順番は格付けではないといわれますが、明和5年版には大西酔月、円山応挙、若冲、池大雅、与謝蕪村の順番で並び、安永4(1775)年版では応挙、若冲…と掲載され、その人気と名声を知ることができます。
Keyword20「町年寄」
錦市場の存続のために尽力した意外な一面
隠居して悠々自適に絵に没頭していたと思われていた若冲ですが、『京都錦小路青物市場記録』という古文書によって、新たな素顔が明らかになります。明和9(1772)年、近在の商売敵の画策により、錦市場が奉行所から営業を差し止められる事件が起きました。そのとき若冲は錦市場の町年寄を務めていて、市場存続のために奔走したのでしょう。商売敵からの懐柔策にも乗らず、市場は危機を乗り越えたのでした。
若沖は生涯独身だったの?
Keyword21「石像もプロデュース」
コツコツと五百羅漢像をつくる晩年の日々
若冲は還暦を迎えた安永5(1776)年ごろから京都の伏見にある石峰寺(せきほうじ)の裏山で五百羅漢(ごひゃくらかん)の石仏の制作をはじめます。誕生から涅槃(ねはん)に至るまで釈迦の一代記を描き、ときには自らの手でも彫ったようですが、多くは若冲がデザインして石工に彫ってもらっていたのでしょう。10年以上の長い年月をかけて約1000体の石像を完成させました。寛政2(1790)年ごろからは、石峰寺門前で隠遁(いんとん)生活をはじめ、亡くなるまでの晩年を過ごしました。
Keyword22「物々交換」
米と絵を交換してたくさん描いた!
石峰寺門前で暮らしはじめた晩年の若冲は、米斗翁(べいとおう)の号を名のり、絵1枚を米1斗(約15㎏)の値で売る生活をしていました。現在の金額に換算するならば、1万円ほど? 絵を売って得た代金は石工に渡して、石峰寺の五百羅漢像の制作にあてたようです。
Keyword23「天明の大火」
京都が焼け野原になった悲しみにくれて
天明8(1788)年、若冲が73歳のとき、京都を襲った天明(てんめい)の大火によって自宅を焼失します。街の大半を焼き尽くした、京都の歴史上最大規模の火災でした。若冲は、旧知の友人であった木村蒹葭堂(けんかどう)を訪ね、しばらく大坂に身を寄せます。この大火により若冲だけでなく、円山応挙(まるやまおうきょ)、池大雅(いけのたいが)、与謝蕪村(よさぶそん)などの、おびただしい数の優れた書画が焼失したことは想像にかたくありません。相国寺(しょうこくじ)もほとんどを焼失しますが、『釈迦三尊像』と『動植綵絵』を納めていた南蔵は類焼を免れました。
Keyword24「生涯独身」
実は女性には興味がなかった?
若冲は生涯結婚することがありませんでした。仏教に帰依(きえ)していたため、禁欲的な生活を送っていたのかもしれませんが、女性に対するコンプレックスがあったのでは? ともいわれています。鴛鴦(おしどり)といえば、いつも寄り添う夫婦和合の象徴ですが、若冲が描く鴛鴦は必ず雌雄が離れていました。妻がいなくても、大典顕常(だいてんけんじょう)という強い絆で結ばれていた人物もいましたし、晩年は、夫をなくし尼になった義理の妹とその子と一緒に暮らしたようです。
Keyword25「ご長寿さん」
江戸時代に85歳まで長生きした
若冲は寛政12(1800)年に85歳で亡くなりました。当時としてはかなりの長寿。最晩年まで石峰寺の格天井(ごうてんじょう)の『花卉図(かきず)』(現在は信行寺(しんぎょうじ)に移設)といった大作を制作しました。若冲の作品には落款(らっかん)に年齢が書かれていることが多いのですが、それらの年齢には謎が多く、86歳、88歳と書かれたものもあります。改元されるたびに1歳加算していたという説や、死をイメージさせる四の字が嫌いだったという説があり、未だ解明されていません。
Profile いとうじゃくちゅう
正徳6(1716)年、京都・錦市場の青物問屋「桝屋」の長男として生まれる。4代目当主となるが、40歳のときに家督を次弟に譲り、画業に専念。『動植綵絵』をはじめ、圧倒的な画力で作品を次々と発表し、京都屈指の人気絵師となる。寛政12(1800)年、85歳で没。
※本記事は雑誌『和樂(2021年10・11月号)』の転載です。構成/高橋亜弥子、後藤淳美(本誌)