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Keyword21「石像もプロデュース」
コツコツと五百羅漢像をつくる晩年の日々
若冲は還暦を迎えた安永5(1776)年ごろから京都の伏見にある石峰寺(せきほうじ)の裏山で五百羅漢(ごひゃくらかん)の石仏の制作をはじめます。誕生から涅槃(ねはん)に至るまで釈迦の一代記を描き、ときには自らの手でも彫ったようですが、多くは若冲がデザインして石工に彫ってもらっていたのでしょう。10年以上の長い年月をかけて約1000体の石像を完成させました。寛政2(1790)年ごろからは、石峰寺門前で隠遁(いんとん)生活をはじめ、亡くなるまでの晩年を過ごしました。
Keyword22「物々交換」
米と絵を交換してたくさん描いた!
石峰寺門前で暮らしはじめた晩年の若冲は、米斗翁(べいとおう)の号を名のり、絵1枚を米1斗(約15㎏)の値で売る生活をしていました。現在の金額に換算するならば、1万円ほど? 絵を売って得た代金は石工に渡して、石峰寺の五百羅漢像の制作にあてたようです。
Keyword23「天明の大火」
京都が焼け野原になった悲しみにくれて
天明8(1788)年、若冲が73歳のとき、京都を襲った天明(てんめい)の大火によって自宅を焼失します。街の大半を焼き尽くした、京都の歴史上最大規模の火災でした。若冲は、旧知の友人であった木村蒹葭堂(けんかどう)を訪ね、しばらく大坂に身を寄せます。この大火により若冲だけでなく、円山応挙(まるやまおうきょ)、池大雅(いけのたいが)、与謝蕪村(よさぶそん)などの、おびただしい数の優れた書画が焼失したことは想像にかたくありません。相国寺(しょうこくじ)もほとんどを焼失しますが、『釈迦三尊像』と『動植綵絵』を納めていた南蔵は類焼を免れました。
Keyword24「生涯独身」
実は女性には興味がなかった?
若冲は生涯結婚することがありませんでした。仏教に帰依(きえ)していたため、禁欲的な生活を送っていたのかもしれませんが、女性に対するコンプレックスがあったのでは? ともいわれています。鴛鴦(おしどり)といえば、いつも寄り添う夫婦和合の象徴ですが、若冲が描く鴛鴦は必ず雌雄が離れていました。妻がいなくても、大典顕常(だいてんけんじょう)という強い絆で結ばれていた人物もいましたし、晩年は、夫をなくし尼になった義理の妹とその子と一緒に暮らしたようです。
Keyword25「ご長寿さん」
江戸時代に85歳まで長生きした
若冲は寛政12(1800)年に85歳で亡くなりました。当時としてはかなりの長寿。最晩年まで石峰寺の格天井(ごうてんじょう)の『花卉図(かきず)』(現在は信行寺(しんぎょうじ)に移設)といった大作を制作しました。若冲の作品には落款(らっかん)に年齢が書かれていることが多いのですが、それらの年齢には謎が多く、86歳、88歳と書かれたものもあります。改元されるたびに1歳加算していたという説や、死をイメージさせる四の字が嫌いだったという説があり、未だ解明されていません。
Profile 伊藤若冲 いとうじゃくちゅう
正徳6(1716)年、京都・錦市場の青物問屋「桝屋」の長男として生まれる。4代目当主となるが、40歳のときに家督を次弟に譲り、画業に専念。『動植綵絵』をはじめ、圧倒的な画力で作品を次々と発表し、京都屈指の人気絵師となる。寛政12(1800)年、85歳で没。
※本記事は雑誌『和樂(2021年10・11月号)』の転載です。構成/高橋亜弥子、後藤淳美(本誌)