鹿鳴館を彩った「金唐紙」とは? その魅力を彬子女王殿下と共に考える

鹿鳴館を彩った「金唐紙」とは? その魅力を彬子女王殿下と共に考える

江戸時代、主に壁紙としてヨーロッパに輸出されていた日本の高級擬革(ぎかく)紙「金唐革紙(きんからかわし)」。時代の変遷に伴い、工業技術に圧されて途絶えてしまったこの手仕事を、上田尚(うえだたかし)さんが蘇らせて「金唐紙」と名付けました。上田さんが主宰する金唐紙研究所が製作する金唐紙の壁紙は、全国に残る古い洋館建築に、新しい息吹を吹き込んでいます。そんな金唐紙の魅力を、彬子女王殿下と共に考えてみました。

金唐紙とは?

「金唐紙(30×45㎝)」上は花果唐草文様、下は花唐草文様(鹿鳴館に使用された柄)

江戸時代に流行した、立体的に唐草文様を表した箔使いの舶来革製莨(たばこ)入れ。金唐革と呼ばれ、本来は西欧の壁装材でした。

鎖国時代の輸入品は、いわずと知れた高級品。そこで考案されたのが、和紙と箔、漆を使った金唐革紙でした。これが革とみまがう仕上がりで、明治期には鹿鳴館(ろくめいかん)を始めとする近代建築の壁紙に利用され、なんと西欧への輸出も始まります。しかし、量産をもくろむ中で機械漉き和紙の導入や安直な製造法により品質が落ち、また安価なプリント壁紙の席巻もあり、需要が激減。昭和37(1962)年に最後の工場が閉鎖し、歴史の幕を閉じたのです。

彬子女王殿下が考える「金唐紙」

文・彬子女王

ジョサイア・コンドルとの出会い

ジョサイア・コンドルという人に初めて興味を持ったのは、私が20歳の頃だった。

成年皇族となり、今までお世話になった方をお招きしての茶会を催すに当たり、父がその会場をご自身も成年の茶会をされた綱町三井倶楽部にすると言われた。聞いたときは特になんとも思わなかった。父と同じ場所で、同じように自分の成年の行事をできるというのはありがたいことだなと思ったくらいだろうか。でも、その場所に足を踏み入れた時、一瞬で魅了された。作り物ではない「本物」の重厚感。とにかく鮮烈に「かっこいい」と思ったのだった。

旧岩崎久弥邸

綱町三井倶楽部は、三井財閥の迎賓館として使われていた建物で、お雇い外国人として来日したジョサイア・コンドルが設計したことで知られている。今はもうその姿を見ることはできない、鹿鳴館や旧宮内省本館なども設計した人物である。和洋の様式をうまく融合させた明治の建築物は、自然と街の空気に馴染んでおり、この場所にずっといたいと思わせる居心地の良さと不思議な包容力をたたえていた。思い返せば、後に研究対象となる「明治」に関心を抱えていた端緒(たんしょ)が、この網町三井倶楽部であったのかもしれない。

そのジョサイア・コンドルと再び出会ったのは、英国留学中。私の研究していた英国人日本美術蒐集家の交友録の中にコンドルの名前があったのだ。「あ、三井倶楽部の人だ」と思い、調べてみると、日本美術にも造詣の深い人であったことを知る。

そして、コンドルとの3度目の邂逅のきっかけとなったのが「金唐紙」である。

和洋の文化が融合して生まれた金色に輝く壁紙

金唐紙とは、和紙に金箔、銀箔、錫箔といった金属の箔を貼り、版木に当てて叩いて凹凸の模様をつけ、彩色を施すもので、近代西洋建築の中では壁紙として使用され、人気を博したものである。もともとは、「金唐革」という革に模様を浮き上がらせ、彩色したものが17世紀にオランダ船で日本にもたらされたのがルーツ。これを革ではなく、手に入りやすい和紙で作れないかと開発されたのが、「金唐革紙」。虫がついたり、かびが生えたりしやすく、継ぎ目が出る革と違って、継ぎ目が出にくく、比較的安価な金唐革紙は、1873年のウィーン万国博覧会を契機にヨーロッパに輸出され、評判となった。

往時はバッキンガム宮殿の壁紙としても使用され、日本の近代建築の中でも広く使用されるようになった金唐革紙であるが、和紙の機械漉きが発展していくと、質が低下するに伴って日本独自の特徴を失っていき、大正後期頃から衰退。昭和に入り、戦前には製造技術も途絶えてしまった。これを「金唐紙」として復活させたのが、上田尚さんである。

100年前に途絶えた工芸を復活させた上田尚さんの情熱

復刻してつくられた版木棒

上田さんは、高校卒業後、京都の美術印刷・出版を手掛ける便利堂で約30年間勤務したのち、一念発起して50歳のときに東京へ。美術書の編集・校正の仕事をしていたときに、金唐革紙の技術が途絶えてしまって、文化財の修復ができなくなってしまっていることを知る。

小樽の重要文化財である旧日本郵船株式会社小樽支店の壁紙が金唐革紙であると判明し、復元しておかないとこの工芸技術が途絶えてしまうという状況の中で、東京国立文化財研究所(当時)や文化財建造物保存技術協会が人材を探していたのだそうだ。京都で文化財関係の美術印刷を手がけていて、和紙や箔の取り扱いや技法を会得していることから上田さんに白羽の矢が立ったのだという。

金唐紙研究所・主宰の上田尚さん

「誰もできないのならば、やってみようか」と思い立ち、上田さんは丸2年金唐革紙の研究に没頭することになる。かろうじて、かつての版木棒はまとまって紙の博物館に保存されていたものの、和紙や箔、刷毛など、どのようなものを使い、どのように作るのかは全くわからない。和紙の材質、刷毛の形状や毛の選択も試行錯誤を重ね、絵柄を打ち込む打ち刷毛は、100本以上を試作したのだそうだ。このような四苦八苦の奮闘の末、上田さんは技術を復活させ、小樽支店の壁紙をご家族たった3人で復元する。

こうしてよみがえった金唐革紙を、日本独自の工芸品という意味を込めて、「金唐紙」と呼ぶことにしたのだそうだ。

金唐紙研究所の高橋シズ代さん(左)、池田和広さん(右)

地道な手作業をていねいに積み重ねて生み出される紙と箔が放つ輝き

目白通りを1本入った閑静な住宅街の中にある金唐紙製作所からは、今も規則正しいトントントントンという音が聞こえてくる。箔を貼った和紙の裏を水で湿らせ、文様が施された版木棒に巻いて、打ち刷毛で叩いている音だ。4〜5時間均等に叩き続ける。紙の繊維をからませる役割があるのだそうだ。手で叩くから強くなると上田さんは言う。「これを機械でやろうとしたらから、金唐革紙はあかんくなったんやな」と。いくら機械工学が発達した世の中でも、機械が人間に及ばないことは他にもたくさんあるのだろう。

乾燥させた後、裏貼りをして、漆や油絵の具で着色。錫箔はワニスを塗って金色に輝かせる。裏面に柿渋などの耐水剤を数回塗布して完成である。

「やっぱり使われているところを見といてもらわんと」と上田さんが復元した金唐紙によって修復された、湯島の旧岩崎久弥邸に連れて行っていただいた。洋館2室と撞球(どうきゅう)室に金唐紙が施されているのだ。その部屋に入った瞬間に、懐かしい感覚がよみがえってきた。

三井倶楽部に初めて足を踏み入れた時のあの感じ。そして、ああ、やはりコンドルだな、と思った。旧岩崎邸の設計も誰あろうジョサイア・コンドル。英国で輸出された日本の金唐革紙に出合い、来日してから設計した建物に金唐革紙を多用したのである。

あるべき場所に収まった金唐紙。柔らかな西日を浴びて金色に輝いていたあの情景を、忘れることはないだろう。

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