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盛岡 Morioka
南部藩が生んだ生活文化がいまだ受け継がれる、東北の民藝の聖地・盛岡
遠くにそびえる岩手山(いわてさん)、街中を流れる北上川(きたかみがわ)と中津川(なかつがわ)。いつでも自然を目にして暮らしているように、盛岡の人にとって民藝もまた、あたりまえのように日常にあるものです。
盛岡は、慶長2(1597)年に南部公が築城を開始したのを機に、鉄器や漆の産業が盛んに。その後もホームスパンなど、豊富な種類の民藝が誕生しました。
また名店「光原社(こうげんしゃ)」が、東北における民藝運動の拠点となったことも、手仕事を愛する文化が根づく大きな理由に。自然に触れるように民藝に触れる。そんな最高な贅沢が味わえる街、盛岡を、少しだけのぞいてみました。
盛岡民藝の原点はここにあります! 「光原社」は美と温もりで満たされた夢の空間
全国の民藝店の中でも、独自の審美眼と、童話の世界のような店構えで、人々を魅了する「光原社」。遠方からも多くのファンが訪れる、盛岡の民藝を語るのに、欠かせない名店です。しかし名店である理由は、素敵だからというだけではありません。
現在の民藝店の形となったのは昭和40(1965)年ですが、もともとは農業関連の出版社でした。大正13(1924)年に、創業者の及川四郎が、学生時代の先輩だった宮澤賢治の『注文の多い料理店』を発行する際、賢治の命名により「光原社」と改名。しかし当時はまったく売れず、昭和2(1927)年に手がけたのが、盛岡の伝統工芸である南部鉄器(なんぶてっき)の製造と販売でした。実は、柳宗悦(やなぎむねよし)が初めて盛岡を訪れたのも同年。その後、柳は幾度となく東北を訪れ、ほどなくして及川と出会うこととなります。
やがて「光原社」は、柳をはじめ、濱田庄司(はまだしょうじ)や棟方志功(むなかたしこう)、芹沢銈介(せりざわけいすけ)といった、民藝運動の中心人物たちが集まるサロンのような存在に。及川が彼らから多大なる影響を受けたであろうことは、想像に難くありません。「光原社」自体も新たに漆器事業に携わるなど、だんだんと盛岡のみならず、日本の民藝界を盛り上げていく会社となっていったのです。
もともと岩手は、南部藩の城下町だったことから、民藝や工芸が盛んな場所。しかし当時は、広大かつ山地が多かったことで、著しく開発が遅れていた地域でもありました。そのような中でも「光原社」は、国内はもちろん、いち早く海外の民藝品も取り入れていたといいます。当時は、世界中のいいものを、盛岡で暮らす人々に紹介する役割が強かったという「光原社」。しかしながら今では、東北の民藝を象徴する大切な場所になるとは、実に不思議な運命ではないでしょうか。
まさに宮澤賢治の物語の世界に迷い込んだかのよう
盛岡の民藝や文化を肌で感じる「光原社」
1924年、出版社として創業。その後に南部鉄器や漆器の製造と販売を手がけたのち、1965年に民藝店となる。敷地内には、宮澤賢治や民藝に関する貴重な資料を蔵する資料室も。盛岡の豊かな文化に触れることのできる、訪れたらじっくり過ごしたい場所。
【店舗情報】光原社
こうげんしゃ
住所:岩手県盛岡市材木町2-18
電話:019-622-2894
営業時間:10時~18時(冬期~17時30分)
休み;毎月15日(土・日曜、祝日の場合は翌平日休)
※「モーリオ」「可否館」も同じ。
撮影/篠原宏明 構成/湯口かおり
※本記事は雑誌『和樂(2021~2022年12・1月号)』の転載です。
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