2020年5月20日、日本高等学校野球連盟は8月10日から予定されていた第102回全国高等学校野球選手権大会の中止を正式に決定しました。春のセンバツに続き夏の甲子園も中止になったというニュースが、野球ファンだけでなく全国民に大きなショックをもたらしたことは記憶に新しいでしょう。
しかし、夏の甲子園が中止になるのは、実は今回が初めてではありません。過去の歴史を振り返ってみると、大正7(1918)年の第4回大会は米騒動によって、昭和16(1941)年の第27回大会は戦争の激化によってそれぞれ中止に追い込まれました。このことも、各種メディアでさかんに報じられています。
ところで、私はこの報道を耳にして、ふとこう考えました。「戦争の激化で中止というのは分かりやすい。しかし、米騒動で中止というのは何か引っかかるな」と。最初は、「米不足で野球をやっている場合じゃないから中止になった」と思っていましたが、調べていくうちにどうやらそんな単純なものではないことが分かってきたのです。
単語としては学校の授業でも必ず習うのに、意外と実態が知られていない「米騒動」。今回は、その実態を分析し、なぜ甲子園が中止に追い込まれなければならなかったのかを考えていきます。
最初は「騒動」というほどでもない小さな運動だった
歴史の授業で習う米騒動の顛末をザックリ書いてみると、
「富山の小さな町で女性たちが米の高騰に立ち上がり、それが全国に波及して騒動になった。結果として当時の寺内正毅内閣は倒れ、大正デモクラシーの出発点となった」
おそらく、こんなところではないかと思います。「もう米騒動なんて忘れちゃったわ」という方も、学校ではこのように習っていたハズです。実際、騒動の勃発したキッカケは、およそ「騒動」と呼ぶほどでもない、とある町のちょっとした運動が出発点でした。
時は大正7(1918)年。前年頃から日本人の生命線ともいえるコメの価格が上昇しはじめ、一般民衆の懐を直撃していました。米価上昇の原因は第一次世界大戦の勃発によるインフレとも、資本主義の浸透による都市部でのコメ需要の増加に対し、地主たちがコメを出し惜しみしたためとも言われていますが、総じて考えられるのは「近代化の代償」という原因でした。
こうした社会状況の中、家計が苦しくなった女性たちが立ち上がります。同年の7月23日、富山県にある下新川(しもにいかわ)郡魚津(うおづ)町で、「コメの値段が上がるのは、コメをよその地域に渡すからだ」と、漁民の妻たちを中心にする46人がコメの移出を阻止しようと海岸に集合しました。しかし、この騒動は警察に目をつけられ、最終的には解散を余儀なくされます。
また、8月2日ごろに県下で似たような事件が2件発生したものの、県外には知られなかったと言われています。実際、当時の新聞を見てみても県外に報道された形跡はありません。
仮に騒動がこれで終結していれば、地元の郷土史料にさえ掲載されるかアヤシイ小さな運動で終わったかもしれません。
県内で大騒動になり、西日本を中心に暴徒化
騒動の続きは、先の一件を知り得た富山県の中でふたたび発生しました。最初の騒動から約1週間後の8月3日、同県中新川(なかにいかわ)郡西水橋(にしみずはし)町で、漁民の妻ら約300人が資産家・米屋へ押しかけ、米の移出禁止や安売りを嘆願したところ、またもや警察に解散させられました。翌日にも似たような事件が発生し、ここでは嘆願だけでなく米屋の打ちこわしといった実害が発生します。
この事件は大手新聞でも取り上げられ、8月5日には朝日新聞(当時は東京朝日新聞)で「二百名の女房連が米価暴騰で大運動を起す 米屋や米の所有者を襲ひ廉売を嘆願し 肯かなければ家を焼払ひ鏖殺すると脅迫」と報じられました。
こうした報道の効果もあってか、騒動は岡山県各地のほか、和歌山県、香川県、愛媛県などに波及。事態は次なる局面へと移っていきます。
8月10日には名古屋市・京都市という大都市でも大規模な集会が企てられ、名古屋市では鶴舞(つるま)公園に1万5000~3万の群衆が集まり、警官隊と衝突する事件が発生。ついには軍隊まで出動する騒ぎになり、やがて関西・東海だけでなく関東や九州にまで波及する一大騒動になっていきました。軍隊が出動していることからも分かるように、実態は「騒動」という生易しいものではありません。最初はあくまで米屋を襲撃していましたが、やがて騒動はエスカレートし「目につくものは何でもぶっこわせ」という過激なものになっていきます。事実、直接的にコメ売りと関係ない電車や自動車、株式取引所なども襲撃され、民衆と警官・軍隊の双方に多数の負傷者が出る事態に陥っていたのです。
私が思うに、この騒動は規模という側面から捉えると、昨今話題になっているアメリカでの黒人男性死亡に伴う暴動に近いものがあると感じています。よって、個人的には米騒動という「ちょっとした騒ぎ」を連想させるようなネーミングは実態を捉えておらず、より正確に事態を表現するなら「米暴動」や「米紛争」といったほうが正確な気がしますね。
米騒動の場所・時期と甲子園の開催が重なり…
ここまで読んだ方なら、本記事のテーマである「なぜ米騒動で甲子園が中止になったのか」は見当がつくかもしれません。先に答えを言うなら「この状況下で多くの観衆を集めれば大暴動の危険があった」のであり、「関係者の身の安全が保障できないから」というのが正しいように思います。
先ほどからあえて騒動の日付を記入しているのですが、そこから例年甲子園が開催されている日程に被っていることはお気づきでしょうか。そして、当時大会が開催されていた兵庫県西宮市も騒動の真っただ中にありました。大阪市と神戸市では運動がピークに達しており、それらの中間に位置する西宮市で野球の大会を開催することはあまりにも大きなリスクがありました。
ただ、ここまで見てきたように米騒動が全国に波及したのは大会の直前であり、関係者たちは開催を前提に動いていました。実際、すでに8月13日(大会開幕日の前日)には組み合わせ抽選会や直前練習も実施されており、出場14校はすでに会場入りしていたのです。直前までは開催される前提であったことがよく分かります。
しかし、それが14日になって一転して「延期」の方針に変わり、主催する朝日新聞社は紙面でそれを告知。結局事態は好転しなかったので、そのまま中止に追い込まれたのです。会場入りしながら直前に中止と決まった球児たちの心情を思うと、どうにもやりきれない気持ちにさせられます。
意外にも高く評価されてきた米騒動
もはや暴動と表現するしかない騒動の顛末や、甲子園で中止を余儀なくされた球児たちの心情を思えば、米騒動はとても褒められたものではありません。しかしながら、意外にも米騒動は後年になって高く評価されがちな歴史イベントということをご存じでしょうか。
その理由はいくつかあります。
まず、騒動の影響によって当時の寺内正毅内閣が倒れ、結果的に原敬を首相とする史上初めての政党内閣が誕生したためです。寺内は軍人だったので「体制側」という評価をされ、平民出身の原敬は民主的な政治を実現したと評価されます。実際、彼は親しみを込めて「平民宰相」と呼ばれ、現代でも高評価が目立つ人物です。
また、これと関連して米騒動以降に日本で社会運動が活発化したこともあり、「米騒動が日本の社会運動を開花させた」という評価もされています。そして、騒動のキッカケが富山の家計を思いやる女性たちだったということもあり、暴動にも同情的な視線が集まることになりました。
ただ、ある意味で上記よりも現代での高評価につながっているのは、後世の歴史家たちによる捉え方が原因ではないかと考えます。詳しく説明すると複雑になりすぎるのでかなりザックリ触れますが、日本の歴史学会は戦後に「一般の民衆が立ち上がって権力者と対峙し、社会を変えること」を総じて高く評価してきた歴史があり、米騒動もそうした文脈の中で語られてきたのです。ところが、現代ではこうした画一的な歴史の見方に異議が唱えられるようになり、これまでとは歴史上の出来事を見る目が変わりつつあります。
そう考えると、私たちは「米騒動を正義として高く評価するべきなのか」という問題にぶち当たるわけです。ただ、この問いに正解はありません。なぜなら、「暴動でも社会が良い方向に向かったのだから認めるべき」というのも一理ありますし、「もともとの理念を離れた暴動を評価してはいけない」という意見も分かります。
あなたは、米騒動をどう考えますか?