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2020.08.09

明智光秀「本能寺の変」前の行動を分析!謎の菩薩と日本一の大天狗に必勝祈願をしていた?

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おみくじの結果があまりよくなかったときって、何度も何度も引き直したくなることありませんか?

ここ一番の大勝負を前に、神様・仏様からお墨付きが欲しくなるのは人情というもの。昔の人だって、いい結果を求めて何度も何度もおみくじを引くことがあったようです。中でも有名なのは、本能寺の変前の明智光秀。『信長公記』によると、光秀は本能寺の変の直前に京都の愛宕山(あたごやま)に登り、その山上の神社にある「太郎坊」の前で二度三度くじを引いたそうです。

しかしなぜ、光秀はわざわざ山登りをしてまで神社に参拝し、くじを何度も引き直し、その加護を求めたのでしょうか。京都は神社も多い街。わざわざ山登りをしなくても、戦勝祈願ができそうな神社くらいありそうです。

なぜ、光秀は愛宕山に登ったのか。その理由を、愛宕山の信仰から考えます。

そもそも、光秀が登った愛宕山ってどんな山?

京都を代表する観光地のひとつ、嵐山。その中でも特に有名な渡月橋から眺めると、北に大きな山がそびえ立っているのが見えます。この山が、愛宕山。標高は924メートルあり、京都市でもトップクラスの高さを誇ります。

かつては山城国(現在の京都府南部地域)と丹波国(現在の京都府中部を中心に、兵庫県氷上郡周辺・大阪府北部の一部を含む地域)の国境(くにざかい)の山でもありました。

愛宕山の頂上には全国の愛宕神社の総本宮・愛宕神社があります。愛宕神社は、その祭神の一柱に加具土命(カグツチノミコト)があることから、京都の人たちから「火伏せ(ひぶせ)の神様」として親しまれています。

神社がある愛宕山の山頂へのアクセスは徒歩のみ。とはいえ、ふもとの登山口から神社までの所要時間は片道約2時間程度なので、年齢を問わずハイキングがてら参拝をする人も多くいます。

そのため京都では、飲食店はもちろん、一般家庭の台所、ときには会社の給湯室などにも「火廼要慎(ひのようじん)」と書かれたこの神社の御札を見つけることができるんですよ。

……と、ここでふと疑問が浮かびます。

「なぜ光秀は、わざわざ時間をかけて山登りしないとけいない、しかもご利益は火伏せなんて神社でおみくじを引いたの?」

ということで、まずは、光秀のとある有名な文書から、愛宕山の信仰と光秀の関係を探っていきます。

あの有名な光秀の手紙に「愛宕」の文字が!?

元亀2(1571)年9月、織田信長による比叡山焼き討ちが起こりました。この事件にまつわる有名な文書のひとつに、焼き討ち直前に光秀が比叡山の麓にある雄琴城の城主・和田秀純にあてた書状があります。「仰木の事は是非ともなてきりに仕りべく候」と、なてぎり(なで斬り=皆殺し)という言葉も交えた内容から、光秀での苛烈な武人の一面が垣間見える内容の書状です。

実は、この書状には追伸があります。その内容が、こちら。

「返返愛宕権現へ、今度之忠節、我等対し候てハ無比之次第候」

現代語に訳すと、「今回、私達の味方になられたことはありがたく、我々のみならず、愛宕権現に対しても忠節の極み」ということになるのだとか(早島大祐著『明智光秀 牢人医師はなぜ謀反人となったか』より)。

そう、光秀はここで「愛宕権現」について言及しているのです。

では、あの「愛宕権現」とは一体何なのでしょうか。

「権現」って、一体何?

「権現」は、神の呼び方のひとつです。ただし、ただの神ではありません。「仏や菩薩が、神という仮の姿で現れた状態」を意味します。

といっても、ちょっとわかりにくいかもしれませんね。

ということで、まずざっくりと、当時の日本の神と仏の関係について説明しましょう。

日本にはもともと、神に対する信仰がありました。これを神道(古神道)と呼びます。そこに、飛鳥時代になって仏教という新しい信仰が入ってきました。

神道と仏教は、お互いに影響を与え合いながら発展していきました。その結果、仏教の守護神として神が崇められることや、神社で僧侶がお経をあげることなども起こるようになりました。このような、仏教と神道が混ざった信仰の形を「神仏習合」と呼びます。

この神仏習合の考え方が広まった結果、仏と神は同一視されるようになってきました。そして生まれたのが、「神は、仏や菩薩が人々の前に姿を現す姿」という考え方です。これを本地垂迹(ほんちすいじゃく)説といいます。

そして生まれたのが、「権現」という考えだったのです。

愛宕権現の正体は……えっ?攻撃的なお地蔵さん!?

では、話を「愛宕権現」に戻します。

権現というのは、仏が神の姿になったもの。ということは、「愛宕権現」にも、もとの仏がいるはずです。では、いったいどんな仏なのでしょうか。

答えから言ってしまうと、愛宕権現の本来の姿は「勝軍地蔵菩薩(しょうぐんじぞうぼさつ)」という地蔵菩薩、つまりお地蔵さんです。

一般的に、お地蔵さんというとふっくらとした優しそうな姿をしていて、子どもの守り神的な存在と思われています。しかし、この勝軍地蔵は『蓮華三昧経』という経典に出てくる、悪行煩悩の賊軍を斬る剣を持つというお地蔵さんなのです。そのため、その姿は甲冑や武器を身に着けて馬にまたがったとても勇ましい様子をしていて、ご利益もずばり「戦勝」なんですね。

なお、出典とされる『蓮華三昧経』は実は日本で作られた偽経。ですから、勝軍地蔵菩薩は日本独自のお地蔵さんです。ほかの国にはこのような、剣を手に悪行煩悩の賊軍を斬る勇ましいお地蔵さんはいません。

勝軍地蔵菩薩に対する信仰は、鎌倉時代の初期ごろ、つまり武士が活躍する中世に入る頃には生まれていたようです。そして時代が下って武士の力がますます大きくなっていくにつれて、より盛んになっていきました。

愛宕山にはこの勝軍地蔵菩薩も祀られていたました。このことから、勝軍地蔵菩薩が神として姿を現した存在として「愛宕権現」が生まれ、武士の信仰を集めていたのです。

光秀以外に愛宕権現を信仰していたと思われる有名武将を2人紹介しておきましょう。

ひとりは、2009年の大河ドラマ『天地人』の主人公である直江兼続(なおえかねつぐ)。兼続は兜の前立に「愛」という文字を使っていましたが、この「愛」は「愛宕権現」にちなんだものではないかといわれています(「愛染明王」にちなんでいるという説もあります)。

あともうひとりは、伊達政宗の側近として有名な片倉景綱(かたくらかげつな)。景綱の兜には、「愛宕山大権現守護所」と書かれた愛宕山の木の札がつけられていました。

このように、多くの武将から崇敬されていた愛宕山の愛宕権現こと、勝軍地蔵菩薩。光秀がわざわざ山に登ってまで参拝したのも、納得です。

眷属の数9億4千万!?愛宕山に姿を現した日本一の大天狗

さて、愛宕山にはもうひとつ、必勝を祈願するにふさわしい理由があります。そのキーワードは、光秀がくじを引いた「太郎坊の前」。いったいこの「太郎坊」とはなんなのでしょうか?

実はこの太郎坊は、愛宕山の信仰の起源に深く関わっています。

愛宕山の信仰は古く、大宝年間(701~704年)に修験僧の祖である役行者(えんのぎょうじゃ)と修験僧・泰澄(たいちょう)が愛宕山に登り、朝廷の許しを得て、山頂に神廟を建立したことに始まります。

このとき、愛宕山にやってきた役行者と泰澄の前に姿を現したのが、「太郎坊」という名の天狗。

愛宕山の太郎坊天狗は非常に霊力が高い天狗とされています。日本には特に霊力が高い天狗が8人いると言われているのですが、愛宕太郎坊天狗はなんとその筆頭。円行者と泰澄の前に姿を現したときは、9億4万あまりもの眷属(けんぞく=配下)を引き連れていたと伝わっています(『山城名勝志』より)。

太郎坊天狗はやがて、愛宕山の信仰の中に取り入れられていきました。すでに平安時代には天狗信仰は広まっていたようで、平安時代末期に悪左府(あくさふ)という異名をとった藤原頼長の日記にも、愛宕山の天狗とそのたたりに関する記述が残っています。また、平安末期の安元3(1177)年に京都で起こった大火事は、太郎坊の名をとって「太郎焼亡(たろうしょうぼう)」とも呼ばれました。

こういった経緯から、愛宕神社の奥の院には太郎坊天狗が祀られていたのです。

つまり、光秀がくじを引いた「太郎坊の前」というのは「愛宕神社の奥の院、大天狗・愛宕山太郎坊の前」と考えられるわけなんですね。

命をかけた大勝負。「くじ」が暗示した光秀の未来は……?

第六天魔王(仏教の修行を妨げる魔王)を名乗ったと伝わる織田信長。そんな主君に謀反をしかけるのであれば、並大抵の覚悟では立ち上がることはできないでしょう。

本能寺の変が起きたときは、そんな主君の守りが手薄になり謀反を成功させることができそうな、千載一遇の大好機。この好機を逃すわけにはいかない、何がなんでも勝たなければいけないという気持ちを、光秀は持っていたはずです。

だからこそ、彼はわざわざ時間をかけて山を登り、かねてから信仰していた神仏と日本一の大天狗に「必勝」を祈願し、そのくじの結果で祈願成就を確かなものにしたかったのがもしれません。

その様子を想像すると、何がなんでも信長に勝ちたい、謀反を成功させたいという光秀の気迫が感じられるような気がします。

周知のとおり、光秀は天正10(1582)年6月2日本能寺で信長をみごと討ち取ります。しかしその後は11日後の6月13日に中国大返しを成功させた豊臣秀吉に大山崎で敗れ、居城である坂本城への敗走中に落ち武者狩りの農民の手にかかって死にました。

光秀の首塚(京都市東山区)

本能寺の変ではみごと信長を倒すものの、その成功は長くは続かない。二度三度引き直したくじの結果はもしかしたら、この結果を暗示していたのかもしれません。

光秀が必勝を祈願した勝軍地蔵菩薩像は、明治の廃仏毀釈運動により愛宕神社から持ち出され、京都市西京区の金蔵寺(こんぞうじ)に移されました。しかしその姿は、愛宕山太郎坊天狗ともども愛宕神社の御朱印・御朱印帳に今でも描かれ、参拝者にこの山の歴史を伝えています。

参考文献:
『明智光秀: 牢人医師はなぜ謀反人となったか』(早島大祐著、NHK出版新書)
『愛宕信仰の歴史的展開 -勝軍地蔵との関わりを視座として-』(佐山淳史著、岩田書院、『霊山信仰の地域的展開』収録)

写真:
写真AC Calma, くぽ丸, acworks

書いた人

織機と電車と踏切の音を聞いて育った京都人。鉄道好きで、推しは蒸気機関車C62-2と新幹線500系。定期的に京都鉄博に行かないとだめな体をしています。鉄道好きなのに乗り物酔いしやすい体質をなんとかしたい。