大阪梅田といえば、JR大阪駅北側再開発地域「うめきた」第二期工事の真っ最中。
大きな緑化公園が作られ、新しい駅が通ると話題になっている場所でもあります。そんなうめきた第二期工事中に突如「人骨が1500体超発見された」というニュースが飛び出し、関西人は驚愕しました。私もニュースの見出しを見てびっくりしました。何か事故でも起きたのかと。ですが、この人骨、なんてことはない、江戸から明治期の人骨でした。埋葬品が少ないところから庶民の人骨とみられているようです。
都心の一等地である「うめきた」から昔の人骨が出土したというのはなんともアンマッチな感じがします。しかし、あらかじめ人骨が出土するかもというのは想像されていたことでした。
2016年から2017年において行われた調査でも、すでに200体もの人骨が見つかっていました。その理由はここがその昔、大阪七墓のひとつの「梅田墓」だったからです。しかも、大阪七墓巡りとして「梅田墓」を含む大阪の墓地を巡ることが庶民の間で流行っていたというから驚きです。
江戸時代は墓巡りが流行してデートコースだったなんて話も……? 今回は大阪七墓巡りを詳しくみていきましょう!
イベント気分で練り歩く!「大阪七墓巡り」の発端とは?
大阪七墓巡りは江戸時代から明治初期ぐらいまで行われていたお墓を参拝する風習で、当時庶民の間で流行った夏の風物詩でもありました。もとは祖先の供養と自分達の極楽往生を願い、「無縁仏を供養することで功徳を得る」というところからスタートしました。
「無縁仏」とは、供養してくれる人のいない仏のことで、死者を弔う縁者がいないというところから「無縁」と言われるようになったそうです。当時は供養を通じて死者は祖霊になり神に昇化していくと考えられていたため、無縁仏は大阪七墓巡りのような地域の行事で供養することで神に昇化させようとしていました。
デートコースとしても大人気
夏ということもあり、肝試しのような要素がウケたのか、庶民の間で大阪七墓巡りがブームになっていきました。そして、驚くことにデートイベントとしても使われたとか。それだけ当時はイベントに飢えていたのかもしれませんね。
現代でも西国三十三所観音霊場巡りや大阪三十三観音巡りが流行っているように、この当時も同じように七墓巡りが面白いイベントに思えたのでしょう。
7月15日には祖先の霊を祭る仏事である盂蘭盆(うらぼん)がありますが、大阪七墓巡りは、ちょうど盂蘭盆の宵から夜明けにかけて行われていました。
それぞれのスタイルで楽しく巡る!
夏の暑い夜に扇子やうちわをあおぎながら、提灯を片手に木魚や鈴などを鳴らして念仏を唱えて七つの墓を巡り歩いたのが七墓巡りのスタイルだったといわれています。中には踊ったり歌ったりして練り歩いた人たちもいたようです。
ちなみに、大阪七墓巡りは鳶田(とびた)・千日(せんにち)・小橋(おばせ)・蒲生(がもう)・葭原(よしはら)・南浜(みなみはま)・梅田の七墓といわれています。
それぞれの墓は大阪市内にあるのですが、現在なら電車を使う距離です。そんな距離を好んで歩いていたというわけですから昔の人はさぞかし健脚だったのでしょうね。
ですが、あくまでも七墓巡りはイベント。中には大阪七墓と言われている場所ではなく、近くのお墓で間に合わせて、合計で七墓とした人もいたそうです。当時のことなので、割と大雑把に楽しまれていたようです。
近松門左衛門の作品の中の大阪七墓巡りと当時の価値観
大阪七墓巡りは実は近松門左衛門の作品の中でもよく扱われています。その中に「賀古教信七墓廻(かこのきょうしんななはかめぐり)」という大阪七墓巡りを題材にした浄瑠璃があります。
物語の中に見る「無縁仏」に対する価値観
ここでは主人公・教信が親の仇や兄嫁をなくして、その菩提を弔うために大阪七墓を巡ります。大阪七墓には彼の血縁はいないのですが、当時は無縁仏でもある七墓をめぐることで、結果的に血縁の死者の供養にもつながるという価値観があったのではないかと考えられています。
実は、うめきた二期から今回出土した骨ですが、無縁仏と考えられています。梅田墓は何度か移転を繰り返しているのですが、縁者がいる墓石や骨などは明治20年の頃に再移転をしています。今回見つかった人骨はその際再移転しなかった骨で、その点から無縁仏だといわれています。つまり、七墓巡りで無縁仏を参拝したという史実と梅田墓の無数の無縁仏の存在が合致します。
現在では自分の血縁を参拝するのが墓参りですが、昔はこのような価値観を持ち合わせていて、血のつながりはなくても死者を悼み、手を合わせるという習慣があったのかもしれませんね。
都市化により減少したお墓
明治初期まで流行った大阪七墓巡りですが、その後次第に下火になります。その理由としては、街が都市化してお墓がなくなったからだといわれています。
確かに現在大阪七墓があったあたりを見ると、駅やビルなどが立ち並び、たくさんの人々が行き交うようになりました。電灯も赤々と灯り、とても肝試しを楽しめるような雰囲気はありません。きっと当時とはずいぶん雰囲気も違っているでしょう。
ですが、かつて同じ地に、同じように人々が息づき、日々小さな楽しみを糧に生活をしていたと考えるととても親近感がわいてきますね。
梅田墓があったうめきた二期はいよいよ2024年に街びらきです。もしかすると、当時のお墓に眠る人たちも大阪の新しい息吹を感じているのかもしれませんね。