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2020.10.06

家臣の「殉死」を防ぐために黒田官兵衛が犠牲にしたものとは⁉︎「殿、ワタクシも!」は、ダメ。ゼッタイ。

この記事を書いた人

ふと思うことがある。
縁起でもないが、自分の葬式に、一体、何人の人が参列するのだろうと。

全く、ろくでもないコトを、なんて。お叱りも受けるかもしれないが。それでも、つい、考えずにはいられない。友人や知人。現職の関係者や取材先。前職の同僚や教え子。その光景は、きっと、我が人生の縮図となるだろう。

いや、それよりも。
さらに気になるのは、自分の死がどのように受け止められるのかというコト。果たして、身内を除いて、ホントに嘆き悲しんでくれる人はいるのだろうか。義理でも打算でもない、純粋に死を悼む。そんな人が1人でもいれば、これまでの自分の行いは、そこまで悪くなかったといえるのかもしれない。

さて、嘆き悲しむだけでなく。一歩進めて、死を共にする。
これを「殉死(じゅんし)」という。

なんて過激な、と思われるかもしれないが。じつは、この「殉死(じゅんし)」の概念は、そこまで別段珍しくはない。臣下や近親者が主君の死を悼んで死する。現在はあまり見られなくなったが、古くは、比較的多くの地域で、この「殉死」を確認することができた。

もちろん、日本でも。
特に、戦国時代から江戸時代初期にかけては、盛んに行われていたようだ。主君と共に死に至る理由も様々。恩義を感じてといった純粋なモノから、義理や慣例、また子孫の栄誉を狙うような打算的なモノまで。

今回は、この「殉死」をめぐるお話。
禁止されながらも13人もの殉死者を出したあのお方。殉死を禁止し事前に手を打ったこのお方。早速、2人の戦国武将とその逸話をご紹介していこう。

※冒頭の画像は歌川芳藤筆  「仮名手本忠臣蔵」「四段目」 東京都立中央図書館特別文庫室所蔵 出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)となります

禁止されても殉死者13人?島津義弘の後を追った家臣たち

元和5(1619)年7月21日。享年85。
大往生でこの世を去ったのは、島津義弘(しまずよしひろ)。鎌倉時代より南九州を支配し、のちに九州統一を目論んだ「島津家」。義弘は、この島津家四兄弟の次男。豊臣秀吉の命で出兵した朝鮮の地では「鬼島津」と呼ばれ、大層恐れられた男でもある。

島津義弘像

島津義弘といえば、やはり「関ヶ原の戦い」での脱出劇を連想する人も多いのではないだろうか。豊臣秀吉の死後、慶長5(1600)年に起こった、次期天下取りを巡っての戦いである。もともと島津義弘は、徳川家康率いる東軍に味方する予定だったのが、不運が重なり敵側の西軍へ。不本意な形での参加となり、島津隊は終始、静観の態度を保つことになる。

しかし、あれよあれよといううちに、気付けば西軍は敗走。島津隊は関ヶ原のど真ん中に取り残されるといった具合。結果的に真正面から敵中を突破し、徳川家康の本陣前を突っ切る大胆不敵な奇策をやってのける。当の本人は家臣と共に討死覚悟も厭わなかったが、必死の家臣の説得で脱出に踏み切ったようだ。

さて。この場面で。
家臣らは捨て身覚悟で主君である義弘を逃がす。なんなら「関ヶ原の戦い」に集まったのも、国元から出されたワケではない。主君のためにと、自ら集まった義勇軍のようなもの。だからこそ「我らの大事な主君を討ち取られるわけにゃいかん」と考えるのも無理はない。あえて自分の命と引き換えに、主君の退路を確保したのである。

関ヶ原町にある島津義弘陣跡(撮影:大村健太)

それほど人望の厚かった島津義弘。
戦いの場面でもそんな勢いなのだから。理由はなんであれ、義弘が死するとなれば、もちろん家臣たちも黙ってなどいられない。

その数、なんと13人。
朝鮮に出兵した「慶長の役」で、海に落ちていたところを義弘に救われた者。はたまた、父を戦で亡くし小姓に取り立てられた者。彼らは、窮地を脱したその瞬間に、必ず主君である義弘と死を共にすると誓ったようだ。

確かに、敵味方関係なく弔う慈悲深さは有名であったから、何らかの恩義を感じる者が多数いても、不思議はない。義理でも打算的な意図もない、純粋な追い腹である。そして、驚くのは、この殉死が義弘の生前より既に計画されていたコト。恩義を感じた家臣らで、もともと殉死の約束をしていたというのである。

元和5(1619)年8月16日。
ちょうど、島津義弘の遺骸を福昌寺(鹿児島県)に送る日のこと。これに合わせて、家臣ら13名が殉死。場所は、当時、義弘の妻の菩提寺であった実窓寺(じっそうじ)の磧(かわら)。現在は、鹿児島県加治木町木田の県道沿いとなっている。ここで、彼らは主君の死を悼み、共に死地へと旅立っていった。

ただ、1つ、残念なことといえば。彼らの処遇であろう。
じつは、当時の各藩では、既に殉死が禁じられつつあった。島津家でも当然、殉死は固く禁じられていた。そのため、殉死した13名は、義弘のあとを追って死を選んでも、その忠節が認めらず。家禄も失われ、残された家族は非常に辛い状況になったという。

死に損といわれれば、それまでなのだが。そもそも、褒められるために殉死したわけではないから、仕方がない。当の本人も、その後の状況を覚悟の上で。それでも、やはり主君と死を共にしたいと思ってのこと。

その後。彼ら13名の名誉が回復されるのは、13年が経過してからのこと。思いのほか、相当な時間が必要だったようだ。当時の島津藩の当主は、義弘の三男である「家久(いえひさ)」。彼がようやく殉死した13名を認めたのである。家禄も回復。彼らの墓も、義弘の位牌が安置されている妙円寺(鹿児島県)に建立されている。

全てのリスクを承知の上で。それでも行われる「殉死」。
こう考えると、「島津義弘」という人間は、よほど人としての魅力があったのだろう。生前の義弘は、とかく家臣を大事にしたようだ。家臣に子が生まれれば、その妻も招いて、自らの膝にその子を抱きかかえて祝ったといわれている。叱った家臣にも、自らが間違っていればすぐに謝ったほど。

立場ではなく、人と人が結びついたゆえの結果なのか。
島津義弘の生き様が、死してもなお、人を引き寄せたといえるのかもしれない。

家臣よ……すまぬ。名参謀の口あんぐりの奇策とは?

さて、一方で、殉死を禁止しただけでなく、その対策を事前に打ったのが、コチラの方。名参謀と名高い「黒田孝高(くろだよしたか)」である。「黒田如水(じょすい)」や「官兵衛(かんべえ)」という名の方が有名であろうか。

如水肖像 黒田伯爵家所蔵 出典:『黒田如水伝』より抜粋 国立国会図書館デジタルコレクション

『名将言行録』には、黒田官兵衛の言葉が記されている。

「世の中で、主のために追腹を切るということぐらいつまらぬことはない。腹を切って死んだとしても、わしにしたがって地獄・極楽を駆けめぐるわけではあるまい。わしはただ立派な士を一人でも多く命を延ばして、大切に思う子(長政)に譲りたいのだ。かならず殉死を禁ぜよ」
岡谷繁実著『名将言行録』より一部抜粋

「その通り!」と、ポンと膝を打ってしまうほどの単純明快な論理である。確かに、主君と共に死んだとて、あの世でも同じとは言い切れない。人情や名誉などは二の次で。リアリズム一辺倒の黒田官兵衛の持論には、頷くばかり。

それもそのはず。
織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康。3人の天下人を渡り歩いてきた黒田官兵衛にとってみれば、息子の長政(ながまさ)は、未だよちよち歩きの赤子のようなもの。東軍に参戦し、徳川家康を喜ばせた「関ヶ原の戦い」での功績を考えれば。つい、目先の実利を優先してしまうタイプと、官兵衛の目に映っていたのだろう。

時は、徳川家康の治世の頃。
未だ豊臣秀吉の遺児、秀頼(ひでより)がいるものの。既に、豊臣政権下より、大きく流れは動いていた。天下人である家康は江戸幕府を築いてのち。さらに、盤石な徳川一強体制を築こうとしていた。

だからこそ。官兵衛は、長政が心配でならなかった。相手はあの、徳川家康である。自分が長生きできればと、さぞ、悔やんだに違いない。しかし、不老不死の現実はほど遠く。皮肉にも、名軍師の寿命もそう長くはなかった。そして、官兵衛自身、それを十分に悟っていたのである。

自分の死後に長政を輔佐するのは、他でもない、自分が育てた大事な家臣たちである。「家宝」ともいえるそんな彼らを、殉死などでむざむざと死なすわけにはいかない。そう、官兵衛は考えたのだろうか。

ただ、やはり。
そうはいっても、人の心を支配することは難しい。

その上、困ったことに。黒田官兵衛も、先ほどの島津義弘と同様に、人望が厚かった。家臣を大事にする主君は、当然ながら、付き従う彼らの心を一様に奪ってしまう。ホントに罪作りな主君であったのだ。

そこで。黒田官兵衛は考えた。
ただ、殉死を禁止しても、結果は目に見えている。自分の死が近づいてきている今だからこそ、「あるモノ」を犠牲にして、彼らの心を自分から引き離さねばならぬと。

こうして、軍師・官兵衛より生み出された奇策がコチラ。
先ほどの『名将言行録』より、一部を抜粋しよう。

「孝高は、病に臥して死を目前にした三十日ほどの間、諸臣をひどくあしざまに罵った」
(同上より一部抜粋)

どういうことだ?

「あしざまに罵る」
つまり、官兵衛は、これまで大事に育ててきた家臣に対して、180度反対の態度を取ったのである。

そのあまりのひどさに。病気のせいもあって。
「とうとう乱心したのではないか」
そんなことさえ、家臣に疑われてしまったというのである。

さて。
ヤバい官兵衛に恐れをなした家臣たちは、どうしたものかと考え、息子の長政のところへ。

家臣らの諫言に、長政ももっともだと考える始末。もう、この時点で、オヤジの策を見抜けないのがイタイとも言えるのだが。こうして、長政は、父である官兵衛に「家臣らが震えあがって困っている」と告げる。そして、もう少しだけ、寛容な態度を取って欲しいとお願いするのだが。

ここで。父・官兵衛が答えた内容とは。

「孝高は『耳を寄せろ』といい、寄せると、『これはそちのためにしているのだ。乱心ではない』と小声でいった。『これはわしが諸臣にいやがられて、一日も早く長政の代になるとよいと思わせるためだ』といわれたという」
(同上より一部抜粋)

なんと、黒田官兵衛が犠牲にしたのは、自分の名誉や評価。やはり、名軍師は只者ではなかったということか。

息子のために、少しでも自分が嫌われればよい。人心が離れるようにと画策した芝居であったというのである。こうして、家臣のココロを長政に向かわせてから。

黒田官兵衛、享年59。
死に際まで、長政のこと、黒田家の行く末を案じていたといわれている。

最後に。「殉死」についての補足をしておこう。
寛文3 (1663) 年5月。江戸幕府は「殉死」を禁止。

のちに、これは明文化され、明確なルールとなる。
主君と共に死するほど、忠義の厚い家臣がいる。「殉死」は、そんな評価や面目を保つのかもしれないが。実際のところは、主君のみならず、有能な家臣まで失うことに。その痛手は非常に大きかったのだろう。加えて、「主君」ではなく「主家」に対して忠節を誓うと考えれば、「殉死」は否定されるべきとも考えられる。こうして殉死は厳禁へ。

それにしても。
純粋に主君と死を共にしたいと考える家臣たち。彼らの絆は想像以上のモノなのだろう。時代が時代だからだろうか。今の時代には、なかなかピンとこない。

そこで。「殉死」を現在版に置き換えてみた。
人間関係が希薄となりつつある現代で。さすがに、上司の死を悼んで死ぬことはないだろう。あまりにも過激すぎる。そこで、もう少しマイルドなテイストに変化させて。

できたのが、コチラ。
「雇用先から上司が解雇され、哀悼の意を込めて部下も退職する」

……。
退職と置き換えてみても、やはり無理がある。

「俺だってついていきます!」
そんな辞職届を叩きつけるほどの熱き部下は、そうそう現れはしないだろう。いや、逆に。そこまで部下に惚れられたなら。もう、上司冥利に尽きる。うむ。それはそれで重いのか。とにかく、半沢直樹のドラマなど、成立しえない次元のレベル。

そういう意味では、島津義弘も、黒田官兵衛も。
現代に甦れば、どんなことになるのやら。

想像するだけで、魂まで惚れちまいそう。
こうして、私の妄想は、また遠い場所へ。

今度は、名だたる戦国武将の生まれ変わりを夢想するのであった。

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参考文献
『名将言行録』 岡谷繁実著  講談社 2019年8月
『島津義弘―慈悲深き鬼 (戦国闘将伝)』 戦国歴史研究会著 PHP研究所 2008年6月
『戦国武将50通の手紙』 加来耕三著 株式会社双葉社 1993年

書いた人

生粋の京都人。生まれも育ちも京都で、大学時に未生流の華道師範代を取得。教育業界を飛び出し2年半、北海道(札幌から車で4時間、冬は-20度)で優游涵泳の境地を楽しむ。その反動で、現在は北陸で馬車馬の如く執筆する日々。法律、ビジネス系記事から日本文化まで。日本の歴史、なかでも戦国史、社寺参詣、職人インタビューが得意。北陸文化も発信中。