Culture
2020.09.22

2000人の前で絶命した男、国定忠治。八木節にのせて歌いつがれるロックな生涯に迫る

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民謡にしては歌詞もメロディもはっきりきっぱりと分かりやすい。軽快なお囃子に合わせ、誰もが気軽に口ずさめる「八木節」は、日光例幣使街道にあたる八木宿(栃木県足利市)を中心に、群馬や栃木で盆踊りとして広まった。樽や笛を使ったノリが良く、時に迫力あるお囃子、花笠を手に踊る様子は、夏の風物詩でもある。

八木節はそのシンプルさゆえ、多数の替え歌が編み出され、歌い継がれてきた。中でも人気の題材は、上州の義賊として語られる、国定忠治(くにさだちゅうじ)を歌った「侠客もの」である。

本稿では八木節の魅力と、国定忠治の暑苦しくもロックな生涯に迫りたい。

日本民謡八木節とボカロックの共通点

民謡的な曲調とロックなグルーヴ感ーーボカロファンだけでなく、和楽器奏者や民謡歌手をも虜にした、初音ミクの歌う「千本桜」。私はこの曲を聞くと、栃木で過ごした幼少期に慣れ親しんだ、八木節を思い出す。

八木節は全編を通して七七調のセリフ、旋律は民謡音階のマイナーペンタトニック(短調ニロ抜きの5音階)である。そして千本桜も、Aメロの歌詞部分は七七調で、メロディラインは同様にマイナーペンタトニックが使われている。千本桜が八木節っぽいというより、そもそも民謡によく使われる5音が並ぶため、耳に馴染みやすいのと同時に、どこか懐かしさを覚えるのだ。

民謡独特のリズムとグルーヴ感

日本の民謡は「追分様式」と「八木節様式」の「2大リズム様式」に分けられる(『日本伝統音楽の研究2 リズム』/小泉文夫/音楽之友社/1984年)。追分様式は音程が上下に乱高下するメリスマ(※)の多い「ウネウネタイプ」。そのうえ「拍」がはっきりとしない「自由リズム」で音域も広く、熟練者でなければ簡単には歌いこなせそうにない、いわゆる民謡らしい民謡である。

※メリスマmelisma:旋律、歌を意味するギリシャ語

そんなメリスマ民謡の代表、「江差追分」の譜面を見てみよう。

……慣れれば歌えるようになるのだろうか……。

下は5線譜に書き起こされた譜面。民謡の多くは5線に浄書されたからといって、誰でも見て歌えるとは言い難い。

言葉の一音節に対して長〜い音数が続く
江差松前追分節 河合裸石 編 富田文陽堂 大正6 画像上下とも国立国会図書館デジタルコレクションより

こうした「ウネウネタイプ」の追分様式に対し、八木節様式は音のうねりが少なく、明白な節でメリスマが少ない「サクサクタイプ」である。

↓こちらで八木節の音源を試聴できる。
八木節(上)-白井権八-

作詞・作曲・編曲・実演家 堀込 源太 囃子連中 製作者(レーベル)ポリドール 国立国会図書館デジタルコレクション

誰にでも歌いやすい音域、手拍子も合わせやすく明快でロックのような分かりやすいノリが、八木節の魅力といえる。

博奕渡世 国定忠治の一生涯

七七調のセリフであればどんな口上でも音に合わせられるため、多くの題材が編み出された八木節。中でも人気の上州稀代のアウトロー、「国定忠治」について、その生い立ちを辿りたい。

文化7(1810)年、上州佐位郡國貞村(群馬県伊勢崎市)、農家の元に生まれた忠次郎(のちに忠治)。幼い頃から力量に勝り、畑仕事を嫌い、剣術柔術に明け暮れていた。父親はそんな息子を案じながら文政3(1820)年、病死。忠次郎がまだ10歳のことだった。

監督者が母親だけになった忠治はますます放蕩息子となる。やがて博徒の群れに属し、犯罪にも手を染めるようになると、呆れた母親は親族会議により、忠治を勘当。無宿となった忠治は長脇差を手に子分を引き連れ、自らを博奕渡世と示し、数々の賭場を荒らしていく。

国定忠治実記 中村芳松 編 明治29.9 国立国会図書館デジタルコレクション

博打の胴元だけでなく、縄張り争いによる殺人や関所破りなど、大罪を重ねる忠治。しかしその行動の大胆さ、豪傑さから、熱狂的なファンも現れるほどだった。

天保の飢饉における伝承

天保4 (1833) 年から同7年にかけての全国的飢饉、「天保の飢饉」。関東、奥羽地方は洪水や冷害に見舞われ、同5~6年も全国的に不作、同7年も天候不順で3~4分作となった大飢饉である。

餓死者が続出したこの飢饉で、忠治の盗区(忠治が仕切っていた土地、縄張り)においては、極端に餓死者が少なかったという伝承がある。忠治が賭場で得た金を投じて窮民に施したり、上州田部井村の名主、右衛門とともに農地の改良を手伝ったなど、今も語られる義賊的な一面だ。

伝承は忠治の死後、大げさに「盛られた」ヒーロー像ではないかとする向きもあるが、「田部井村名主右衛門」は、忠治の子分ではなく、堅気の村役人で、表向きは公儀を務めながら、忠治の盗区を支える協力者でもあった。

かつて関八州(江戸時代の関東8国)の代官を歴任し、幕府の高級官僚にして学者の羽倉外記(はぐらげき)による忠治伝『赤城録』。これには右衛門が、天保の飢饉の救済や村の農地改良に忠治の力を借りたことの責めを負わされ、のちに死罪に処される、と記されている。

病に倒れる忠治

数々の罪を重ね、役人に追われながらも派手に動き回り、徹底抗戦を続けていた忠治。しかし嘉永3(1850)年、脳卒中に倒れ、目はくらみ身体は麻痺、喋ることもままならない状態に陥る。

発作を起こした忠治と、その仲間もろとも匿ったのは右衛門である。しかし些細なことをきっかけに仲間割れが生じ、潜伏先が関東取締役出役に洩れ、同年8月24日、忠治とその一同はあっさりとお縄に。江戸に送られ取り調べを受けた忠治は、罪状が多すぎるため、最も重罪である関所破りを適用、磔刑を下される。

忠治は捕らえられると一転、模範囚となる。悪行を全て認め、子分や他者の迷惑にならぬよう、罪はこの一身に引き受ける、お上のために立派に磔刑を受けると、自ら申し出ている。

しかしタダでは終わらないのが男伊達、忠治である。刑場までの道中、上州特産絹織物で仕立てられた、上質の衣装を身にまとった忠治。その姿は、道中の観衆の目を釘付けにしたという。

忠治にやられ放題だった幕府からの見せしめ――凄惨な磔刑

執行人や護衛、野次馬らを合わせて2000人近い観衆で埋まる、大戸関所(群馬県吾妻郡東吾妻町大戸)の刑場。磔台で長槍を持つ刑吏と向き合う忠治について、このように記録されている。

忠恬然トシテ刑ヲ監スル者ニ謝シテ曰ク、此行、各位ノ費ニ多荷ス、

忠治は臆することなく刑吏に向かい、「この度の処刑にあたり、何かとご苦労をかけた。深く感謝する」と述べた

『赤城録』羽倉外記より

左右の刑吏は合図とともに互いに肋骨から肩へと槍を刺し貫いていく。一槍突いては引き抜くごとに目を見開き、2000人余りの観衆を見回す忠治。13度まで目を見開きながら槍を受け、14度目でついに忠治は瞑目する。

嘉永3(1850)年12月21日、国定忠治は大勢が見守る中、極めて凄惨で残酷な刑により、41年という短く激しい人生を終えた。

語り継がれる忠治の生き様

様々な局面で何かと忠治をあてにし、世話になっていたにも関わらず、病に倒れた忠治を見限る人々がいた一方、死後もなお見捨てなかった人々がいた。

磔刑後晒された忠治の首は、最後まで忠治側にいた「忠党」と呼ばれる者によって盗まれ、隠されたという。なお忠治を匿った右衛門も「忠党」の一人である。右衛門は、忠治の磔刑の5日後、斬首刑により処されている。

反骨精神むき出しの生き様と死に様。閉塞感漂う時代の中にあって、「義理人情」という、現代ではいささか暑苦しい生き方を貫いた稀代のアウトローは、幕府への恨みごとを並べ立てるでもなく、上州を生き抜き、上州の地に還ったのだ。

<参考>
『日本音楽との出会い 日本音楽の歴史と理論』/月溪恒子/東京堂出版/2014年(4版)
『国定忠治を男にした女侠 菊池徳の一生』/高橋敏/朝日新聞社/2007年